第98話 魔王城の地下、帰り道を開く三つの条件
魔王城の地下へ降りる階段は一段ごとに空気が冷えていった。
石段の壁には淡い青の魔石が等間隔に埋め込まれ足元を照らしている。壁を伝う水滴が時折ぽとりと落ちて静寂を乱した。鼻の奥に焦げた石と古い金属のかすかな匂いが満ちる。耳の奥では低い唸りのような音が絶えず鳴っていた。地の底で巨大な何かが呼吸しているような音だった。
理恵は階段の途中で足を止めた。後ろからついてくる気配が二つある。イアンとトビアスだった。先頭では案内役のヴァルガが黒い外套の裾を揺らしている。王都を夜明け前に発ち《結界の道標》の近道を使って昼過ぎにようやく辿り着いたのだった。
「大丈夫か」
トビアスが低く尋ねた。
「うん。ちょっと冷えるだけ」
嘘ではなかった。けれど冷えているのは空気だけではなかった。この階段の先に帰り道がある。そう思うと膝の力が少し頼りなくなる。
「無理はするな」
「ありがとう。大丈夫」
イアンが無言で先に立って階段を降りていく。眼鏡に魔石の青い光が映って表情は見えなかった。
◇ ◇ ◇
最下層の広間は円形で天井が見えないほど高かった。
中央には巨大な魔力炉が据えられている。青白い光を脈打たせる石の塔で唸りの源はこれだった。その周囲の床一面に複雑な紋様が白い鉱石の粉で描かれている。幾重にも重なった円と直線が炉へ向かって収束していた。壁にはあの夜の戦いの焦げ跡がまだ生々しく残っている。
「お待ちしていました」
円の縁で待っていたのは術師ギルド異界事象研究室のフィオナだった。眼鏡の奥の目を細めて穏やかに会釈する。
「理恵さん。いよいよですね」
「はい。今日はよろしくお願いします」
「準備を進める前に条件をお伝えします。魔力炉は昨日から暖機を始めていますが転界術式の再現には三つの条件があります」
フィオナは床の紋様の端を指した。
◇ ◇ ◇
「一つ目は《座標》です」
フィオナは白い粉の円を示した。
「帰る先の世界を特定する目印。これは理恵さんがこちらへ来た時の痕跡が空間に残っているのでそれを辿ります。イアンさんのおかげで既に確認できました」
「痕跡……」
「二つ目は《触媒》です。転界の際に身に着けていた物。向こうの世界の物質にはその世界の波長が染み込んでいますから座標を絞る錨になります」
理恵は肩に掛けた鞄を握った。
あの日スーパーで買い物をしたレジ袋。中身は旅の途中で食材として使い切ったが袋だけはずっと畳んで取っておいた。
「これでいいですか」
取り出したレジ袋は折り目だらけで少し擦り切れていた。
フィオナは両手で受け取り目を細めた。
「十分です。この袋には理恵さんの世界の空気がまだ残っています。これは今日のうちに炉に預けてください。一晩かけて魔力炉の波長に馴染ませないと明朝の座標が定まりませんので」
理恵は袋が手を離れる瞬間胸がつんとなった。たかがレジ袋だ。けれどあれは旅の最初から最後まで理恵と一緒にあった物だった。
「三つ目は《意思》です」
フィオナの声が少しだけ重くなった。
「術式を受ける本人が心から帰ることを望んでいること。迷いがあると座標が揺れて門が不安定になります」
◇ ◇ ◇
「迷い」
理恵は小さく呟いた。
「あります。全然なくなっていません」
「構いません。迷いがあることと意思が定まることは別ですから」
フィオナは優しく微笑んだ。
「ただ門が開くのは明日の朝です。それまでに理恵さんが決めなければ今回は見送りになります。次に条件が整うのは半年以上先です」
「半年」
「はい。その間に座標の痕跡が薄れる恐れもあります」
理恵は黙って床の紋様を見つめた。
円の中心に立てば元の世界へ戻れる。母の顔。会社の空気。住み慣れた部屋。
そして同時に思い浮かぶ。
湯気の向こうで匙を持つルークの笑顔。耳を揺らして粥を啜るコリン。眼鏡を押し上げて理屈をこねるイアン。軽口の奥に影を隠すメル。
洗い場で隣に立つ人の横顔。
全部ここに置いていくのだ。
「理恵」
トビアスが静かに呼んだ。
「今決めなくていい」
「でも」
「決められないなら決められないでいい。誰かに急かされて決めるものじゃない」
その声があまりに穏やかで理恵は目の奥が熱くなるのをこらえた。
◇ ◇ ◇
フィオナとイアンが紋様の最終確認を始めた。
イアンは円の縁にしゃがみ込み魔石を並べながら小声で何かを確かめている。フィオナがそれを覗き込んで頷く。
「ここの接続は問題ありません。座標の固定も安定しています」
「痕跡の強度は」
「理恵さんの波長が濃いのでかなり明瞭です。ただ」
フィオナは言葉を選ぶように間を置いた。
「この痕跡は門が閉じても残るでしょう。向こうの世界側にも。こちら側にも」
イアンの手がぴたりと止まった。
「残る?」
「ええ。一度開いた門は完全には閉じません。細い糸のように世界の間に張り付きます。誰かがそれを辿ろうとすれば理論上は」
「辿れる」
「ええ」
イアンは何も言わなかった。ただゆっくりと眼鏡を押し上げた。レンズの奥の目が一瞬だけ強く光った。
理恵はその会話を少し離れた場所から聞いていた。意味を完全には理解できなかった。けれどイアンの背中から何か決意めいたものが滲み出ているのを感じた。
◇ ◇ ◇
地上へ出ると魔王城の城壁の上には夕暮れの風が吹いていた。
黒嶺領の荒々しい山並みが茜色に染まっている。岩肌を渡る風は乾いていて遠くから獣の鳴き声が尾を引いて聞こえた。足元の石にはまだ昼の熱がわずかに残っている。
「トビアスさん」
理恵は城壁の縁に手を置いて言った。
「私決めたかもしれない」
「そうか」
「でもまだ言えない。ちゃんと自分の言葉で言えるようになってから話す」
「分かった」
トビアスは前を向いたまま短く答えた。
「聞く準備はできている」
理恵は小さく頷いた。
「今夜はここに泊まることになるでしょ。ルークさんとの約束があるの。帰る前に全員で食べるって」
「使いは出した。ルークとコリンも夜のうちに着く」
「ありがとう」
夕陽が二人の影を城壁の石に長く伸ばしている。その影が並んでいる様子を理恵は不思議な思いで見つめた。
門が開くまで残り一晩。
その間に自分は一人ひとりにどんな言葉を渡せるのだろう。
そしてイアンが地下で見せたあの背中。あれは何を意味していたのか。
疑問を抱えたまま理恵は暮れていく黒嶺の空を見上げた。




