第97話 遅い夕食、波長を測る眼鏡と洗い場の二人
夜更けの宿の厨房には鍋の底を擦る木べらの音だけが響いていた。
竈の火が橙色に壁を照らしている。刻んだ玉葱の甘い匂いに炒めた肉の香ばしさが重なって窓の曇りに白く滲んだ。冷えた石の床が靴底からじんわり熱を奪う。それでも竈の前に立つ理恵の頬は火照っていた。
作っているのはロゼ芋と牙狼の肉の煮込みだった。煮込みなら大人数でも鍋一つで済む。そして何より煮込むまでの時間がみんなを待たせても許される気がした。
「手伝うって言ったのに」
隣でトビアスが玉葱の皮を剥きながらぼそりと言った。
「私が先に動いちゃうから」
「あんたはいつもそうだ。先に動いてそのあと何も言わない」
「だって言うより動く方が早いし」
トビアスは小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。
◇ ◇ ◇
食堂の長卓にはいつの間にか全員が揃っていた。
ルークは煮込みの匂いに釣られて真っ先に座り匙を握って待っている。コリンは寝間着の上から外套を羽織ったまま眠たげに耳を揺らしていた。イアンだけは席に着かず卓の端に分厚い手帳と小さな水晶を広げている。
「それ何ですか」
理恵が深皿を並べながら尋ねるとイアンは眼鏡を押し上げた。
「《想起の魔石》だ。記録用のな」
「記録?」
「理恵の料理を食べた時の魔力の巡りを測っておきたい。固有魔力波長が料理を介してどう人体に作用するのか。実際の数値が欲しい」
「朝の話の続きですか」
「研究者の癖だ。気にするな」
イアンはそう言って平然と手帳に何かを書き込み始めた。けれど理恵は見逃さなかった。ペン先が一瞬だけ止まりそれから少し速くなったのを。
朝の仮説の続きを確かめたいだけ。そう思うことにした。ただペン先の止まり方にはどこか切実な気配があった。
理恵は何も言わずに深皿に煮込みを注いだ。
◇ ◇ ◇
全員が匙を動かす音が食堂に満ちた。
ロゼ芋はほくほくと崩れ牙狼の肉はほろりと解ける。香草の苦みが後から追いかけてきて舌の奥に温かさが落ちていく。
「うめぇ」
ルークが何杯目かの皿を差し出した。
「これだよこれ。旅の途中で食ったあの味だ」
「おかわりは鍋に残ってるからね」
「理恵さん」
コリンが匙を止めた。
「僕の粥のこと今日はごめんなさい。落ち込んでしまって」
「謝らなくていいよ。あれは私の方こそ変なことに気づかせちゃった」
「いえ」
コリンは首を振った。耳がぴんと立つ。
「あの後イアンさんに教えてもらったんです。波長というのは練習で変わるものじゃなくて一人ひとり違う灯りなんだって。だから僕は僕の灯りで誰かを照らせばいいんだって」
「コリンくん」
「母にはまず僕の粥を食べさせます。理恵さんのとは違う味でもきっと喜んでくれると思います」
その笑顔は昼間よりずっと穏やかだった。
理恵は胸の奥がじわりと温かくなるのを感じて慌てて水を飲んだ。
イアンは何も言わなかった。ただ手帳の端に小さく何か書き足した。
◇ ◇ ◇
食事が終わると皆は一人また一人と部屋へ戻っていった。
食器を抱えて厨房に入ると井戸から汲んだ水が洗い桶に張られていた。
「冷たいぞ」
洗い場の前に立っていたのはトビアスだった。
「お湯を沸かすよ。待ってて」
「いい」
トビアスは袖をまくり上げて皿を水に沈めた。
「冷たい方が油が浮く。俺が洗う。あんたは拭いてくれ」
二人は並んで洗い場に立った。
水音。皿が触れ合う硬い音。竈の火が小さく爆ぜる音。
トビアスの手は剣を握る手と同じ形をしているのに皿を洗う動きはひどく丁寧だった。泡の中で一枚ずつ裏返し縁をなぞっていく。
「トビアスさん」
「なんだ」
「何も聞かないの? 魔王城のこと」
彼は手を止めなかった。
「聞いてほしいのか」
「……分からない」
「なら聞かない」
皿を一枚理恵に渡す。受け取った布巾に水が染みて指先が冷えた。
「あんたが話したくなったら話せばいい。話したくないなら話さなくていい」
「それでいいの?」
「俺は待つのが得意だ」
その横顔には疲れと静けさが同居していた。
理恵は皿を拭く手を止めずに考える。
この人は多分全部気づいている。それでも何も言わない。
「……明日も一緒に洗い物してくれる?」
口をついて出た言葉に自分で驚いた。
トビアスは少しだけ目を細めた。
「ああ。明日も。その次も」
その声があまりにも当たり前のように響いたので理恵は返事ができなかった。
洗い場の水が静かに揺れて二人の影を揺らしている。
厨房の隅の窓の外では夜空の星が一つ流れて消えた。
それをイアンが二階の窓から見上げていたことを理恵は知らない。彼の手元の想起の魔石は淡く光り続けていた。




