第96話 薬草茶の湯気、門を越える者が失うもの
ヴァルガが運んできた薬草茶の湯気が寝室の薄青い空気に白く立ちのぼった。
銀の盆に載った陶器の杯が三つ。注ぎ口から細い糸のような香りが流れ出す。苦みの奥に蜜のような甘さが隠れた匂いだった。暖炉の薪が爆ぜる乾いた音が杯を置く小さな音と重なる。帳の隙間の空はもうすっかり藍色に沈んでいた。
「冷めぬうちに飲むがいい」
ゼクセルは杯を取らなかった。まだ茶を口にできる体ではないのだろう。代わりに理恵とルークが杯を手に取るのを静かに見ていた。
理恵は一口含んだ。舌の上に広がる苦みが喉を通るころには柔らかな甘さに変わっている。張り詰めていた胸の奥が少しだけ緩んだ。
「先ほどの話には続きがある」
魔王の声が低くなる。
「刻印を持つ者は調理者の波長を辿って境界を越えられる。そう言った。だが無償ではない」
「……何を失うんですか」
「魔力だ」
◇ ◇ ◇
ルークが杯を置く音が強く響いた。
「失うって、全部か」
「全てだ」
寝台の上の魔王は淡々と告げた。
「そなたの世界には大気に満ちる魔力がないと聞く。この世界の生き物は呼吸と共に大気の魔力を取り込み生体魔力に変えている。それが断たれれば体内の魔力は回復せず日を追って霧散する」
「霧散……」
「数日で術は使えなくなる。数月で魔力回路そのものが萎む。身体強化も治癒も例外ではない」
理恵は杯を握る手に力が入るのを感じた。
イアンは魔術師だ。コリンは回復術師だ。魔力を失うということは彼らが誇りにしてきた全てを手放すということだった。
「刻印は門を越えた時に役目を終えて消える。再び戻る術もない」
ゼクセルは理恵の目を真っ直ぐに見た。
「この話を知れば彼らはそなたのために全てを捨てて付いて来ようとするだろう。そなたはそれを望むか」
部屋が静まり返った。薪の火が揺れて壁に落ちた影が大きく伸び縮みする。
◇ ◇ ◇
「……言えないですね」
理恵はやっと声を出した。
「言ったら絶対に来ようとする。コリンくんは治療院のことを諦めてイアンさんは研究を置いて」
「俺は身体強化くらいだから失ってもどうってことない」
ルークが低く言った。
「でもあいつらは違う。そうだよな」
「うん」
「だったら言わない方がいいのか」
ルークは頭をかき上げて天井を仰いだ。
「でもそれって理恵さんが決めちゃうことになるんじゃないか。あいつらが来るか来ないかを」
理恵は目を閉じた。
知らせなければ彼らは選べない。けれど知らせれば彼らはきっと選んでしまう。理恵のために。理恵が重い荷物を背負わせた形で。
目を開けた理恵は静かに首を振った。
「私が帰った後の選択は彼らのものです。私の口から背中を押したくない」
「理恵さん」
「いつか彼らが自分で見つけたらその時に決めてもらえばいい。それなら誰のせいにもならないから」
ルークはしばらく黙っていた。やがて長い息を吐いた。
「……分かった。俺は黙っとく。でも一つだけ約束してくれ」
「なに」
「帰る前に全員とちゃんと飯を食ってくれ。ばらばらじゃなくて全員で」
理恵は笑って頷いた。
「約束する」
ゼクセルが微かに口の端を持ち上げた。
「刻印は消えぬ。知るべき者はいずれ自ら辿り着くだろう」
◇ ◇ ◇
寝室を辞して長い石の廊下を歩く。
壁に並んだ灯の魔石が淡い光を落として足元の影をゆらゆらと揺らしていた。先を行くヴァルガの黒い外套の裾が石畳をかすかに擦る。
「理恵ちゃん」
背後から呼び止められた。メルだった。ルークが気を利かせて足を止めヴァルガを促して先へ進む。
廊下の灯の下に理恵とメルだけが残った。
「ごめんね。兄上があんな話をして」
「ううん。聞けてよかった」
「そう」
メルは笑った。けれどその笑みは少し不器用だった。
「僕は行けないよ。魔王の弟だからね」
「うん」
「でもさ。一つだけ言っていい?」
「なに」
「トビアスのこと。最後にちゃんと向き合ってあげて。あいつは自分から言えない奴だからさ」
理恵は息を詰めた。
「メルさんはそれでいいの?」
聞いてしまってから理恵は唇を噛んだ。メルが理恵を見る目の奥にある感情に気づいていたからだ。
メルは肩をすくめて笑った。
「いいよ。理恵ちゃんが決めたことなら。……ただもう一杯くらい食べたかったな。粥」
その軽さの奥で何かが小さく軋む音を理恵は聞いた気がした。
◇ ◇ ◇
宿に戻ったのは夜も更けた頃だった。
戸口を開けた途端に冷えた夜気が肌を撫でた。庭の井戸端で人影が剣を振っている。月明かりに銀色の刃が弧を描く。
「トビアスさん」
剣先が止まった。
息を整えながら振り返ったトビアスの額には汗が光っていた。月の光が頬の線を鋭く浮かび上がらせている。
「どこへ行っていた」
「魔王城。ゼクセル様に呼ばれて」
「そうか」
トビアスは剣を鞘に収めた。
「ヴァルガが来ていたのは窓から見えた。そういうことだろうと思っていた」
それ以上は聞かない。ただ静かに理恵の言葉を待っているのが分かった。
理恵は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「遅くなったから夕ごはんまだだよね。みんな待ってるかも」
「ああ。誰も手をつけていない」
「じゃあ今から作るよ」
「手伝う」
短い返事だった。
理恵はその背中を見送りながら思う。
言わないと決めた。けれど喉の奥に残ったものはしばらく消えそうになかった。




