第95話 魔王の寝室、告げられた《共食の刻印》
魔王城の奥の寝室は夕暮れの光を石の壁が吸い込んで薄青く沈んでいた。
高い窓には厚い帳が半分だけ引かれている。隙間から差し込む橙色の筋が磨かれた床に細く伸びていた。部屋には薬草を煎じた苦い匂いが残り窓際の小卓には空になった粥の椀が一つ置かれている。石の壁は触れれば指が冷えるほど冷たかった。それでも寝台の周りだけは薪の火が小さく燃えて空気に柔らかな温もりを与えている。
理恵は《結界の道標》を踏んで魔王城の門を越えてきた疲れを息と一緒に吐き出した。隣ではルークが落ち着かない様子で腰の剣に触れかけては手を戻している。案内役のヴァルガは黒い外套の裾を鳴らして寝台の脇に立った。
「ゼクセル様。お連れしました」
寝台の上でゼクセルが上体を起こしていた。
地下で対峙したときよりは顔色が戻っている。それでもまだ頬は痩せて指先は枯れ枝のように細い。ただ理恵を見る眼光だけはあの夜と変わらず鋭かった。その目がわずかに細められる。
「よく来てくれた。座るがいい」
声は低くかすれていた。それでも一言ごとに芯の通った重みがある。
◇ ◇ ◇
寝台の傍らの椅子には先客がいた。メルだった。兄の枕元で林檎を剥いている。
「理恵ちゃんもルークさんもいらっしゃい。兄上が無理して起き上がるから僕は止めたんだけどね」
「メル」
ゼクセルがたしなめるように名を呼んだ。メルは肩をすくめて小さく笑う。
「ほら元気でしょ」
理恵は二人のやり取りを見て胸の奥が緩むのを感じた。魔王と呼ばれる人の枕元で弟が林檎を剥いている。それは世界のどこにでもある兄弟の光景に見えた。
「ご体調はいかがですか」
「そなたの粥のおかげで椀の中身が喉を通るようになった。感謝している」
ゼクセルは理恵を真っ直ぐに見た。
「だがそれが奇妙でならぬのだ。余の魔力回路は長く毒で歪められていた。解毒の光を受けてもなお術も薬も受け付けなかった。にもかかわらずそなたの粥だけが余の中の魔力を静かに動かした」
「私は魔力を持っていません」
「知っている。ヴァルガから聞いた」
ゼクセルは一度目を閉じた。
「それゆえ調べた。魔族の古い記録を。そして一つの術理に行き当たった」
◇ ◇ ◇
「《共食の刻印》という」
魔王は静かに言った。
「魔族の古い文献に残る現象だ。同じ鍋を囲み同じ食を分け合った者たちの生体魔力には調理した者の固有魔力波長が薄く刻まれる」
「刻まれる?」
ルークが首を傾げた。
「どういう意味だ。俺たちの魔力が理恵さんの色に染まるってことか」
「染まるのではない。道標が置かれるのだ」
ゼクセルは細い指で自分の胸を示した。
「波長を持つ者の料理は刻印を持つ者の体内で魔力の流れを導く灯となる。迷った魔力が灯に従って巡り直す。だから理恵殿の粥はあの者たちの魔力飢餓を癒やした」
「でもコリンくんの粥は弱かったんです」
理恵が言うとゼクセルは頷いた。
「当然だ。刻印は調理者の波長に応じて刻まれる。コリンという少年の料理では灯にならぬ」
「じゃあゼクセル様にも」
「余に刻印はない。だが余の魔力は毒と長い衰弱で巡る向きを失っていた。向きを失った魔力は近くにある整った波長に引かれて動く。それが偶然そなたの粥だったのだろう」
理恵は黙って自分の掌を見つめた。
あの旅の間に毎晩作ったスープ。野営地で配った粥。市場で選んだ野菜で煮た煮込み。その全てが彼らの中に目に見えない灯を灯していたのだ。
「それは」
理恵は声を絞り出した。
「私がここからいなくなっても残るんですか」
◇ ◇ ◇
「残る」
ゼクセルは短く答えた。
その一言に理恵の肩から力が抜けた。膝が笑いそうになって慌てて椅子の背を掴む。
「刻印は調理者の存在と独立して残る。波長が消えることはない。五人の中にはそなたの道標が永く灯り続けるだろう」
「よかった……」
涙がこぼれそうになるのを理恵は瞬きで押し戻した。ルークが隣で大きく息を吐く。
「そっか。俺たち理恵さんがいなくなっても飯のせいで魔力が枯れたりしないんだな」
「ああ」
ゼクセルは微かに口の端を持ち上げた。笑ったようにも見えた。
「ただし一つだけ言っておく」
寝台の上の魔王の目が再び鋭さを帯びた。
「道標は双方向だ。灯は導く者のものであると同時に導かれる者が導く者を見つける目印にもなる」
「どういう意味ですか」
「刻印を持つ者は調理者の波長を辿って境界を越えられる。たとえ世界を隔てていようとも」
理恵は息を呑んだ。
その言葉の意味を理恵が本当に理解するのはもう少し先のことになる。
窓の外では日が落ちきって帳の隙間から一番星が覗いていた。
「ヴァルガ」
ゼクセルが静かに命じた。
「理恵殿とルークに茶を。長い話になる」
「かしこまりました」
ヴァルガが一礼して部屋を出ていく。扉が閉まる音が石の壁に低く響いた。
メルが剥き終えた林檎を皿に載せて理恵に差し出した。
「理恵ちゃんも食べなよ。兄上の話はまだ終わらないよ」
その笑顔にはいつもの軽さの裏に何か言いたげな影が一瞬だけ揺れた。
理恵はその影に気づきながら林檎を受け取った。甘酸っぱい香りが部屋の苦い薬の匂いを少しだけ和らげていく。
この話にはまだ続きがある。胸の奥でそんな予感が静かに鳴り続けていた。




