第100話 夜明けの転界、閉じていく光の扉
魔王城の最下層は夜明け前の薄明かりに包まれていた。
高い天井の闇の奥で魔力炉が青白く脈打っている。昨夜まで静かだった唸りは今は低く規則正しい鼓動のように床を震わせていた。足の裏に伝わる振動が骨の芯まで染みてくる。白い鉱石の粉で描かれた紋様の線が内側からほのかに光り始めていた。空気は冷たく乾いていて肺に吸い込むたびに金属の匂いが喉の奥を刺した。
理恵は円の縁に立っていた。
服は異世界に来た日に着ていたものに着替えていた。袖の擦り切れ具合も裾の染みもあの日のままだ。指先が小さく震えているのは寒さのせいだけではなかった。
「理恵さん」
フィオナが水晶板を抱えて円の中心から振り返った。
「触媒は炉に馴染みました。座標も固定されています。いつでも始められます」
「はい」
その返事が思ったよりしっかり出たことに理恵自身が少し驚いた。
◇ ◇ ◇
円の外に五人が並んでいた。
ルークは赤毛を乱暴にかき上げて笑おうとしていた。口の端が震えているのが遠目にも分かる。コリンは外套の裾を握り締めて耳をぴんと立てていた。泣くまいとしている顔だった。イアンは眼鏡の奥で何を考えているのか読み取れない。メルはいつものように軽く手を振った。トビアスは腕を組み壁際に立っている。
その後ろには車輪付きの椅子に座ったゼクセルとヴァルガの姿があった。魔王は痩せた肩に厚い外套を羽織っている。
「来てくれたんですね」
理恵が頭を下げるとゼクセルは短く頷いた。
「そなたの灯りは確かに受け取った。礼を言う」
「こちらこそ」
それ以上の言葉は要らなかった。
理恵は円から一歩外へ出て一人ずつ向き合った。
◇ ◇ ◇
「ルークさん」
理恵は昨夜書いた紙の束から一枚抜いて手渡した。
「パンの焼き方と煮込みの手順。食堂ができたら使って」
「……ああ」
ルークは紙を受け取りそれから理恵の肩を大きな手でぽんと叩いた。
「達者でな。俺は王都で一番うまい飯屋を作る。いつか来る客の中に理恵さんが混じってたら笑う」
「混じるかもしれないよ」
「そしたら奢る。一番高いのを」
ルークは歯を見せて笑った。目尻が光っていた。
「コリンくん」
「は、はい」
「お母さんによろしくね。それとこれ」
粥の隠し味を書いた紙を手渡す。コリンは両手で受け取って胸に押し当てた。
「僕必ず作ります。理恵さんの味にはならないけど僕の味で」
「それでいい。その方がいい」
コリンの耳が小さく震えた。
「イアンさん」
「ああ」
「スープの取り方。あと」
理恵は声を落とした。
「ありがとう。色んなことを調べてくれて」
イアンは紙を受け取り眼鏡を押し上げた。
「研究者の仕事をしたまでだ」
「うん」
「だが」
イアンは一瞬言葉を切った。
「お前のおかげで俺は魔術師として一番面白い数か月を過ごした。それは認める」
その声は小さかった。けれど確かに聞こえた。
◇ ◇ ◇
「メルさん」
「うん」
「林檎の甘煮の分量」
紙を渡すとメルは受け取らずに理恵の手ごと包み込むように握った。
「理恵ちゃん」
「なに」
「ありがとう。僕に食事の味を思い出させてくれて」
「また思い出して。何度でも」
「うん」
メルは笑った。いつもの軽やかな笑みではなく少年のように素直な顔だった。
「元気でね」
手を離す。その指先が名残惜しそうに最後まで触れていた。
最後に残ったのは一人だった。
トビアスは壁際から動かなかった。理恵は彼の前まで歩いていった。
「トビアスさん」
「ああ」
「これ」
差し出したのは白紙の中でただ一枚「トビアスへ」とだけ名前を書いた紙だった。
トビアスは受け取り目を落とした。
その紙には名前の下に一行だけ書かれていた。
明日の朝は何が食べたい?
彼は長いこと動かなかった。
やがて顔を上げた。
「……あんたが作るなら何でもいい」
「ずるい答え」
「本心だ」
低く掠れた声だった。
「だから聞かれたら何度でも同じことを答える」
理恵の喉が詰まった。笑おうとして笑えなかった。
「じゃあ答えは次に会った時に聞かせて」
そう言った瞬間自分の言葉に息を呑んだ。次に。会えるかどうかも分からないのに。
トビアスは何も言わなかった。ただ静かに頷いた。
◇ ◇ ◇
「始めます」
フィオナの声が広間に響いた。
理恵は円の中心に立った。足元の紋様が青白く脈打つ。魔力炉の唸りが一段階高くなる。
「三つの条件を確認します」
フィオナが水晶板を掲げた。
「座標。固定済み。触媒。馴染みました。そして意思」
彼女は理恵を見つめた。
「理恵さんは帰ることを望みますか」
理恵は目を閉じた。
五人の顔が順番に浮かぶ。
目を開けた。
「望みます」
声は震えなかった。
「ここで過ごした時間を忘れたくない。でも帰って自分の暮らしを続けたい。そう思います」
フィオナは静かに頷いた。
「意思、確認しました」
紋様の光が一気に強くなった。
白い光が柱となって天井へ立ちのぼる。足元から風が吹き上がり髪が舞った。肌がちりちりと痺れる。轟音が耳の奥を満たし視界が白く染まっていく。
「理恵!」
誰かが叫んだ。
振り返ると光の向こうに五人の影が見えた。その中でひときわ背の高い影が一歩前へ踏み出しかけて止まった。
トビアスの胸元で淡い白い光が脈打っていた。
理恵は必死に声を絞り出した。
「ありがとう! みんな! ありがとう!」
光が全てを飲み込んだ。
◇ ◇ ◇
静寂。
最初に感じたのは匂いだった。
夜の湿ったアスファルト。排気ガス。どこかの換気扇から流れてくる揚げ物の油の匂い。
次に聞こえたのは音だった。遠くを走る電車の振動。車のタイヤが路面を擦る音。背後でコンビニの自動ドアが開閉するたびに鳴る軽やかなチャイム。
ゆっくりと目を開ける。
街灯の白い光が眩しかった。
足の裏に硬い感触が返ってくる。砂利ではない。見慣れたアスファルトだった。振り返るとコンビニの看板が夜の闇に白く浮かんでいる。
理恵は残業帰りの道に立っていた。
あの火曜日の夜に。
手には何も持っていない。鞄の底からスマートフォンを取り出してみる。電源ボタンを押しても画面は真っ黒なままだった。電池が切れているのだ。暗い画面にぼんやりと自分の顔だけが映った。
理恵は夜道の真ん中で立ち尽くした。
そして思い出す。炉の前でトビアスの胸元に光が灯っていたことを。
あの光は消えてはいなかった。




