第101話 ただいま日本、六人分の煮込みと鞄の底の小さな石
一人暮らしの部屋の鍵を回す音がやけに大きく響いた。
玄関の扉を開けると昨日の朝と何も変わらない部屋が理恵を待っていた。靴箱の上に放り出した宅配の不在票。流しに置きっぱなしのマグカップ。カーテンの隙間から入る隣のマンションの白い明かり。洗剤と埃と少し湿った布団の匂いが鼻の奥にふわりと広がる。
理恵は靴も脱がずに玄関の床に座り込んだ。
「……ただいま」
小さな声が狭い部屋に吸い込まれていく。返事はなかった。当たり前のことなのに喉の奥がきゅっと痛んだ。
◇ ◇ ◇
充電器にスマートフォンをつなぐ。しばらくすると画面に白い光が灯った。
時刻は二十二時十一分。
日付は火曜日だった。
理恵は画面をじっと見つめた。確かにコンビニでミニトマトとブロックチーズを買ったのはこの夜だ。あの日あの時間のすぐ後にもう戻ってきている。
「座標」
口の中で呟いてみる。
フィオナの言葉が耳に蘇った。帰る先の世界を特定する目印。転移した時の痕跡を辿る術式。つまり座標には場所だけでなく時間も含まれていたのだ。
門は理恵が消えたその瞬間に近い場所へ理恵を連れ戻した。
あれだけの季節を過ごしたのにこちらではほんの数時間しか経っていない。
スマートフォンの電池が切れていたのは当然だった。あれだけの季節の間一度も充電できなかったのだから。
理恵は小さく息を吐いた。信じられない。けれど掌の中の古い傷痕と日焼けした腕が全部本当だったと告げていた。
◇ ◇ ◇
台所に立つと冷蔵庫の低い唸りが静かな部屋に満ちた。
蛍光灯の下で見る流しはやけにせせこましかった。銀色のステンレス。小さなコンロが二口。魔石の竈とは違いつまみを回すだけで青い火が灯る。それが当たり前のはずなのに少し不思議だった。
冷蔵庫を開ける。卵と納豆と半分に切られたキャベツ。それから袋に入ったままの玉葱とじゃがいも。
理恵は無意識に玉葱を手に取っていた。
包丁の音がとんとんと狭い台所に響く。玉葱の甘い匂いが立ちのぼり目の奥がじんわり熱くなった。
じゃがいもを剥き人参を切り豚肉を入れる。水を張って大きな鍋に火をかけた。
「あ」
鍋を覗き込んで手が止まった。
大きすぎた。
一人暮らしの部屋の一番大きな鍋に具がぎっしり詰まっている。どう見ても一人で食べる量ではない。
六人分。
口をついて出た数字にまた喉が詰まった。
◇ ◇ ◇
鍋がことことと音を立て始めた頃スマートフォンが震えた。
画面に「母」の文字が浮かんでいる。
理恵は震える指で通話を受けた。
「もしもし理恵? まだ起きてた?」
懐かしい声だった。少し高くてのんびりした話し方。耳に届いた瞬間に理恵の視界が滲んだ。
「うん。起きてた」
「残業だった? 最近ちゃんと食べてるの?」
「食べてるよ」
声が揺れた。慌てて咳払いをする。
「どうしたの? 泣いてる?」
「泣いてないよ。ちょっと玉葱切ってたから」
「あらそう」
母は電話の向こうで笑った。
「こんな時間にお料理なんて。体壊さないようにね」
「うん。ありがとう」
「それでね。来月帰ってこられる? お父さんが新米を送るって」
「帰る。帰るよ」
即座に答えてしまった。母が少し驚いたように黙った。
「なんだか今日はいつもより素直ね」
「そうかな」
理恵は笑った。笑いながら涙がこぼれた。
「ねえお母さん」
「なあに」
「今日ねいっぱい作っちゃったんだ。煮込み」
「あらまあ。誰かに食べさせるの?」
「……うん。いつか」
母は何も聞かなかった。ただ優しく言った。
「そう。いい人がいるのね。楽しみにしてるわ」
通話が切れた後も理恵は暫くスマートフォンを握り締めたまま台所に立っていた。
◇ ◇ ◇
鍋の火を弱火に落とし鞄を片付けようとして指先が妙なものに触れた。
鞄の底に何かが入っている。
引っ張り出すと掌に乗る大きさの乳白色の石だった。親指の爪ほどの小さな魔石。内側に薄い霧が漂っている。
「……え」
見覚えのある形だった。あの夜イアンが卓に広げていた記録用の小さな石。《想起の魔石》だ。
内側の霧は渦を巻くように静かに明滅していた。ゆっくりと呼吸するように。
ほのかに温かい。
魔石の底に細い文字が彫られているのに気づく。目を凝らすと見覚えのある几帳面な筆跡だった。
『記録済。波長の同調を継続。——I』
I。
イアン。
理恵は唇を押さえた。
あの人は別れの前の夜に理恵が気づかない間に鞄へ忍ばせていたのだ。想起の魔石に刻んだ理恵の波長ごと。
掌の中で魔石がとくんと鳴った。
一度。二度。
まるで遠い世界の向こうで誰かが細い糸を握り返したかのように。
理恵は魔石を胸に抱き締めた。台所の窓に映る自分の顔が泣き笑いのまま滲んでいた。
煮込みの甘い匂いが部屋いっぱいに満ちている。
その温かさの向こうで確かに何かが動き始めていた。




