第102話 満員電車と味の薄い朝、そして石は喋り出す
水曜日の朝の改札口は人の波で息苦しいほどだった。
ホームに滑り込んでくる電車の風が髪を巻き上げる。金属が擦れる甲高い音。人々の靴底がタイルを打つ乾いた足音の洪水。スーツの肩と鞄の角がぶつかり合い誰かの整髪料の甘ったるい匂いが鼻を突いた。電子音のアナウンスが天井から降ってくる。
理恵は吊り革につかまりながら窓の外を流れていく灰色の街並みを見つめた。
ほんの一晩前まで荒野の風と焚き火の煙の中にいたのだ。足の裏はまだ土の感触を覚えているのにここは舗装された硬さで満ちている。
「……すごいな」
誰にも聞こえない声で呟いた。こんなに大勢の人間が毎朝こんなに狭い箱に詰め込まれているのだ。
窓に映る自分の顔が少し日に焼けている気がした。
◇ ◇ ◇
「おはようございます先輩!」
オフィスの席に着くなり後輩の美咲が駆け寄ってきた。
「おはよう」
「あれ?」
美咲は理恵の顔をじっと覗き込んだ。
「先輩なんか雰囲気変わってません?」
「え」
「昨日と違うっていうか。背筋が伸びたっていうか。あと目が」
「目?」
「落ち着いてる。すごく」
理恵は笑って誤魔化した。
「ちゃんと寝たからかな」
「ええー絶対それだけじゃないです。もしかして彼氏できました?」
「できてないよ」
咄嗟に否定してから胸の奥がちくりと痛んだ。
彼氏。その言葉の向こうに浮かんだ顔を慌てて追い払う。
「先輩日焼けしてません? 昨日までそんな色じゃなかったですよね」
「気のせい。窓際だから」
美咲は納得しない顔で首を傾げたが始業のチャイムに急かされて席へ戻っていった。
理恵は小さく息を吐いてパソコンの電源を入れた。
◇ ◇ ◇
昼休み。
コンビニで買ったサンドイッチをデスクで広げた。ハムとレタスとマヨネーズ。見慣れたパッケージ。何度も食べた味のはずだった。
一口かじって手が止まった。
味が濃い。
パンはふわふわと軽すぎる。ハムは塩気が強く噛むほどに人工的な旨味が舌に張り付く。レタスは水っぽい。
「……」
これまで何とも思わなかったものが全部作り物の味に感じられた。
あの荒野で食べた干し肉入りの粥。王都の市場で買った串焼き。ロゼ芋の煮込み。素材が素材のまま主張していた味。
「美味しくない?」
隣の席の同僚が不思議そうに覗き込んだ。
「ううん。ちょっと胃が疲れてて」
「最近食欲落ちてた? 昨日は普通に食べてたのに」
「そうだっけ」
笑って受け流す。けれど心の中ではサンドイッチの断面をじっと見つめていた。
自分が変わったのか。それともここが変わらないままなのか。
◇ ◇ ◇
夕暮れの帰り道スーパーで食材を買った。
玉葱。人参。じゃがいも。豚肉。トマト缶。
買い物かごを持ちながら理恵はふと気づいた。無意識に六人分の量を選んでいる。
「……習慣って怖い」
苦笑して人参を一袋戻した。
それでもトマト缶だけは二つかごに入れた。
部屋に帰りつくと玄関の鍵を回す音がまた大きく響いた。
◇ ◇ ◇
台所に買い物袋を置き一息ついたとき鞄の底で何かがほのかに光った。
乳白色の魔石。
取り出すと昨夜と同じように薄い霧が渦を巻いている。今夜は霧の動きが速かった。まるで何かを訴えるように。
「どうしたの」
石に話しかけてしまってから自分の滑稽さに気づく。
その時だった。
『——聞こえるか』
石から声が響いた。
ざらついた機械のような音質の底に聞き慣れた低音が混じっている。
理恵の指先が凍りついた。
「イアン……さん?」
『この石は《想起の魔石》だ。事前に記録した音声を再生する。条件は二つ。お前が石に触れていること。そして帰還から二度目の夜を迎えていること』
説明口調の声。眼鏡を押し上げる仕草が目に浮かぶようだった。
『最初の夜は沈黙するよう設定してある。帰還直後に聞かせても混乱するだけだろう。座標の痕跡は完全には閉じないというフィオナの言葉を覚えているか。その糸の端をこの石に結んである。これがある限りお前の波長は薄まらない』
「薄まらない……」
『お前の料理が特別な理由は覚えているな。あの波長を失わないためには石に触れておく必要がある。毎夜短くていい。触れて話しかけろ。記録を取る』
「記録って、誰が」
『質問が飛んでくることは想定している。答えられないが想定している』
理恵は思わず吹き出しそうになった。
『以上だ。体調に変化があったら報告しろ。……元気でいろ』
最後の一言だけ声の温度がほんの少し下がった。
魔石の光がふっと弱くなる。
台所に静寂が戻った。
◇ ◇ ◇
理恵はしばらく魔石を握り締めたまま立ち尽くしていた。
それから小さな声で言った。
「聞こえてますか」
返事はない。
「今日ね後輩に雰囲気変わったって言われた。サンドイッチがおいしくなかった。それとね」
言葉に詰まる。
「みんなに会いたい」
石の霧がとくんと揺れた。
一度だけ。
まるで頷くように。
理恵は目の奥が熱くなるのを感じながら玉葱の袋を開けた。
包丁の音が台所に響く。
石は鞄の上で淡く光り続けている。その光が壁に落とした影がゆっくりと揺れていた。
遠く離れた場所でこの音を聞いている誰かがいる。理恵はそう信じて鍋に水を張った。
その夜の煮込みはいつもより少しだけ味が濃くなってしまった。
けれどそれが何故か嬉しかった。




