第103話 土曜の午後の煮込みと後輩の鋭すぎる勘
土曜日の午後の台所には秋の光が斜めに差し込んでいた。
窓の桟に積もった埃が金色の粒になって揺れている。コンロの上では大鍋がことことと音を立て湯気が天井へ細く昇っていく。玉葱とトマトの酸味を含んだ甘い匂いが部屋の隅々まで染み込んでいた。換気扇の低い唸りと遠くで子供が笑う声。階下の誰かが干した洗濯物から石鹸の香りが窓越しに流れ込んでくる。
理恵は木べらで鍋の底をゆっくり撫でた。
帰ってから四日が経っていた。
仕事に行き。帰って。台所に立つ。毎晩煮込みを作り。魔石に話しかける。その繰り返しが不思議と理恵を支えていた。
「ピンポーン」
玄関のチャイムが鳴った。
「はーい」
エプロンで手を拭いながら扉を開けると大きなトートバッグを提げた美咲が立っていた。
「先輩お邪魔しますー! ワイン買ってきました!」
◇ ◇ ◇
小さな座卓に深皿が並んだ。
ロゼ芋ではなくじゃがいも。牙狼ではなく豚の角切り。それでもトマトの赤と玉葱の甘さは変わらない。理恵は取り皿に煮込みをよそって美咲の前に置いた。
「いただきますー」
美咲は匙を口に運び目を見開いた。
「うわ! おいしい!」
「そう?」
「めちゃくちゃおいしいです。何ですかこれ。優しいのに奥がある」
美咲は夢中で二口三口と食べた。それから不意に匙を止めて理恵を見た。
「先輩」
「なに」
「これ誰かのために作り慣れてる味ですよね」
理恵の指がぴくりと動いた。
「え」
「なんかそう思いました。一人分の料理じゃないっていうか。鍋の大きさも量も」
美咲は壁際のコンロの鍋を指した。
「六人前くらい作ってません?」
笑って誤魔化そうとして失敗した。
理恵は小さく息を吐いた。
「当たり。癖でね」
「やっぱり。誰かいたんですか?」
「……いたよ。ちょっと前まで」
それ以上言うと泣いてしまいそうで理恵は慌ててワインを一口含んだ。
◇ ◇ ◇
美咲は暫く黙って煮込みを食べていた。
やがて匙を置きにやりと口の端を上げた。
「先輩これ聞いていいですか」
「なに」
「異世界帰りですか?」
理恵は盛大にむせた。
「ごほっ。な、なんで」
「だって最近の先輩どう見ても普通じゃないんですもん。雰囲気が違う。日焼けしてる。急に料理が上手くなってる」
「そんなことは」
「異世界帰りの定番ですよ。ウェブ小説では。現実世界の食べ物に違和感を覚えるのが」
理恵は目を丸くした。
まさかこの子はそういう目線で。
「冗談です冗談! でも」
美咲は声を落とした。
「もしそうだったら私信じますよ」
「美咲ちゃん」
「だって先輩の目が本当に本当って感じなんで」
理恵は暫く迷ってからワイングラスの縁を指でなぞった。
「……もしそうだったとして」
「はい」
「向こうに大事な人たちがいたら。どうしたらいいと思う?」
美咲は少し考えて真面目な顔で答えた。
「異世界帰りは大体向こうの人と再会するのがお約束です」
「お約束って」
「だから先輩も諦めなくていいと思います」
その言葉があまりにも自然で軽くて。
理恵は思わず笑った。
「ありがとう」
「いえいえ。でもそのお守りはなんですか?」
美咲は座卓の端を指差した。
鞄から出しっぱなしだった乳白色の魔石が淡く光っていた。
◇ ◇ ◇
美咲が帰った後洗い物を終えた理恵は座卓に魔石を置いて座った。
石の霧がゆっくりと渦を巻いている。いつもより少し明るかった。
「今日ね後輩が来てくれたの」
語りかけると霧が静かに揺れる。
「煮込みを食べてもらったんだけどあの子の体は光らなかった。魔力がないんだから当たり前なんだけど」
小さく笑った。
「イアンさんが言ってた通り。私の波長は向こうの人にしか効かないんだね」
霧が揺れる。
「でもね。あの子が言ったの。異世界帰りは大体向こうの人と再会するのがお約束だって」
理恵は魔石を両手で包んだ。
「そんな簡単なものじゃないって分かってる。でも」
声が震える。
「もし会えるなら。会いたいな」
その瞬間だった。
魔石の霧がふいにぱっと明るく膨らんだ。
白い光が座卓の天板に細い線を描く。
線は幾筋にも分かれ一つの紋様を結びかけて——消えた。
理恵は息を呑んだ。
「今のは……」
見間違いではなかった。あれは転界室の床に描かれた紋様の断片。座標の糸が一瞬だけ形を成したのだ。
魔石の中の霧がゆっくりと静まっていく。
まるで遠い誰かが今まさにこの糸を手繰っているのだと告げるかのように。
理恵は魔石を胸に抱き台所の窓を見上げた。
夜空には月が静かに浮かんでいた。




