↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
104/116

第104話 日曜の雨と六人前の習慣、石の向こうの返事

雨の音で目が覚めた。


窓の外でトタンを叩く細かい音がして部屋の中まで湿った土の匂いが入り込んでくる。理恵は布団の中で天井を見たまましばらく動かなかった。向こうの世界の朝は鳥の声と薪の爆ぜる音で始まっていた。ここには冷蔵庫の低い唸りと遠くを走る車の水音しかない。


起き上がって湯を沸かしお茶を淹れた。


薬草茶ではない。ティーバッグの安いほうじ茶だ。それでも湯気を吸い込むと喉の奥がほどけた。


「……まず朝ごはんだよね」


声に出してみて自分で少し笑う。誰に聞かせるでもない独り言が癖になっていた。冷蔵庫を開けると卵と昨日の残りの煮込みと半端な長ネギがある。理恵は鍋を火にかけて煮込みを温め直し卵を落として蓋をした。蓋の下でぷつぷつと小さな音がする。


   ◇ ◇ ◇


雨が小降りになった昼過ぎに傘をさして商店街へ出た。


魚屋の前を通り八百屋の軒先で足を止める。段ボール箱に林檎が山盛りになっていた。赤い皮が雨粒を弾いて艶やかに光っている。


「お姉さん今日のは蜜が入ってるよ」


店のおじさんがそう声をかけてきた。理恵は一つ手に取って掌で重みを確かめた。ずしりと冷たい。メルが皮ごと齧って「甘い」と目を丸くした顔が不意に浮かんだ。


「じゃあ……これを四つください」


言ってから気づく。四つでは足りない。足りないと思った自分がいる。


「やっぱり六つで」


「おお気前がいいね。パイでも焼くのかい」


「コンポートにします。……少し多めに作る癖がついちゃって」


おじさんは笑って林檎を袋に詰めてくれた。袋の持ち手が指に食い込む。六つ分の重みだ。理恵はその重みを確かめるように袋を持ち直した。


帰り道に肉屋で豚バラを買い乾物屋で出汁昆布を買った。レジで財布を出すたびに金額の細かさに戸惑う。向こうでは銀貨と銅貨で数えていた。ここでは全部が小さな数字で割り切れてしまう。


   ◇ ◇ ◇


台所に林檎を並べて皮を剥いた。


包丁の刃が果肉に入るたびに甘い香りが立ちのぼる。砂糖を少し白ワインを少し。鍋に入れて弱火にかけると蜜と水分が混ざり合って透明な泡がゆっくり浮かんできた。


火加減を見ながら理恵は気づいた。


手が勝手に動いている。大きい鍋を出し六人分の皿を出しかけて慌てて一枚に戻していた。コリンの粥を煮る時の水の量を無意識に量っていた。ルークの好きな焼き色をつけようと豚バラを多めに焼いていた。


「……染みついてるなあ」


呟いた声が台所に落ちて消えた。


寂しいのとは少し違う。欠けた場所を指で撫でて形を確かめているような感覚だった。確かにここに六人分あったのだと身体が覚えている。それがわかるのが嬉しくてそれが少し痛い。


鍋の火を止め余熱で煮含ませているうちに部屋の空気が甘い匂いで満ちていった。


   ◇ ◇ ◇


夜になって雨は止んだ。


食卓には豚バラと大根の煮物と林檎のコンポートと白いご飯。一人分の皿が並んでいる。理恵は手を合わせた。


「いただきます」


一口食べて箸を置く。美味しい。ちゃんと美味しい。けれど向こうで食べた「あたたかさ」とは何かが違う。味の問題ではないのだとわかっていた。


鞄から想起の魔石を取り出して食卓の端に置いた。石は淡く青い光を宿している。二晩目からは毎晩この時間に喋る。理恵が話しかけるのを待っているみたいに。


「ねえイアン。今日ね林檎を六つ買っちゃったの」


石は答えない。録音された声は決まった時間にだけ再生される。理恵はそれを知っていて話し続ける。


「《共食の刻印》ってさ。本当にみんなの中に残ってるのかな。私がいなくなっても光ってるのかな。魔力炉の近くにいると光るって言ってたでしょう」


自分で言って胸の奥がちくりとした。


「……トビアスも光ってるといいな。あの時みたいに」


その名前を口にした途端に頬が熱くなった。誰も見ていないのに理恵は掌で顔を覆った。


   ◇ ◇ ◇


その夜の再生はいつもと少し違っていた。


石の光が一度すっと弱まりそれから小さく脈を打つように明滅した。いつもなら静かな「記録済」の一言で始まるはずの声が来ない。代わりに石の表面に細い白い線が走り蜘蛛の巣のように広がった。


線は転界室の紋様の別の一片を描いた。先日よりも長い。はっきりしている。


理恵は息を止めた。


線の一本一本がまるで誰かの指先でなぞられているように震えている。「糸」を引いているのは誰だろう。フィオナか。イアンか。それとも——。


石が低く震えた。


ざ、という砂を撒くような雑音。その奥から途切れ途切れに声が滲んできた。


『……え……こ……か……』


録音ではなかった。録音の声は静かで平坦で理恵の返事の後にしか続かない。今の声は息遣いが混じり不安定で何かに追われるように急いでいた。


「イアン……?」


呼ぶと石の光が強く跳ねた。


『……理恵……聞こ……る……? こっち……は——』


声はそこで途切れた。白い線が一斉に砕け光の粒になって消えていく。残ったのは普段の淡い青だけだった。


理恵は食卓に両手をついたまま動けなかった。


今のは確かにイアンの声だった。録音ではない。リアルタイムで向こうから誰かが糸を辿っている。


石を握りしめると掌が汗で湿っていた。


「……聞こえてるよ」


小さく言った。


「聞こえてる。ちゃんと聞こえたから」


答えは返らない。窓の外で最後の雨粒が屋根から落ちる音がひとつだけした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。