第105話 理恵のいない朝の厨房、糸の先に空いていた穴
魔王城の厨房には湯の沸く音だけがあった。
石壁に囲まれた広い部屋である。天井近くの小窓から白い朝の光が斜めに差し込み、磨かれた銅鍋の縁を鈍く光らせていた。かまどの灰はまだ温かい。壁際の棚には理恵が最後の晩に並べていった香草の瓶が六つ。ラベル代わりの小さな木札には丸みを帯びた字で「ローリエ」「タイム」「胡椒(辛い!)」と書いてある。
鼻をくすぐるのは焦げた麦の匂いだった。
「……焦げたな」
トビアスが鍋の底を覗き込んで低く呟いた。
勇者紋を失った右手の甲に火傷の赤い跡がある。肩幅の広い背中が今朝はやけに小さく見えた。黒髪を雑に一つに括り、袖を肘までまくった彼は理恵の残したレシピ帳を片手に鍋の前で固まっている。
「トビアス、それ粥じゃなくて炭だよ」
コリンが後ろから覗き込んで笑った。
いつもと同じ柔らかい声だ。けれど目の下には薄い隈が浮いている。笑顔の形は崩れていないのに口の端だけがほんの少し震えていた。
「理恵ちゃんの水加減、もっと多かったよね。僕が教わった時は麦の三倍だったと思う」
「三倍……メモには『麦の三倍。焦げそうなら足し水』とある」
「足し水を足さなかったんだね」
「足すつもりだった。……ただ、メモの字を見ていたら手が止まった」
「理恵ちゃんの字を?」
「『焦げそうなら足し水』の横に、小さく丸が書いてある。あいつの癖だろう。それを眺めているうちに、鍋のことを忘れた」
トビアスは黙った。耳の先が赤い。コリンは鍋を代わりに受け取って洗い場へ運びながら、背中越しに言った。
「大丈夫。焦げ付きは水に浸けとけば落ちるから。……僕が作り直すよ」
◇ ◇ ◇
食卓には四人分の皿が並んでいた。
ルークは腕を組んで椅子に沈み込み、パンを千切っては皿の端に置くだけで口に運ばない。いつもの豪快な食べっぷりが消えていた。小麦色の肌の上で、眉間の皺が一本深くなっている。
メルは両足を椅子の上で抱え、林檎の砂糖煮を匙の先でつついていた。
「……ちゃんと甘いよ」
小さな声だった。
「理恵ちゃんのレシピ通りに煮たのに、どうしてかな。味見したら同じはずなのに、食べてるとなんだか薄い気がする。一人足りないだけでこんなに味が薄くなるんだね」
「味は同じだ」
ルークがぶっきらぼうに言った。
「薄いのは舌のほうじゃねえ。腹の中だ」
「……ルーク、今のちょっと詩的だったね」
「うるせえ」
メルがいつもの調子で茶化そうとしたが、声に張りがなかった。ルークも乗る気力がないのか、短く言い返して水を呷っただけだった。メルは匙を咥えたまま笑おうとして、笑えずに俯いた。
トビアスは立ったまま立て付けの悪い戸棚に寄りかかっていた。席に着かない。着けばそこが理恵の隣だった場所だと思い知るからだ。
胸元に手を当てる。服の下で《共食の刻印》がほのかに脈打っていた。理恵がいた夜ほどは光らない。けれど完全に消えてもいない。糸のように細く、頼りなく、しかし確かに温かい。
「なあ」
低い声が厨房に落ちた。
「イアンはまだ寝てないのか」
「寝てないよ。三日連続で」
コリンが粥の鍋を混ぜながら答えた。
「転界室にこもりっぱなし。差し入れに行ったら、眼鏡を額に上げたまま紙の山の中で唸ってた」
◇ ◇ ◇
魔王城の地下、転界室は冷たい空気に満ちていた。
床に刻まれた巨大な魔法陣の外周で、イアンは膝をついたまま羊皮紙に数式を書きつけていた。灰色の髪は寝癖で四方に跳ね、眼鏡の片方のレンズにはインクの指紋が付いている。彼の周りには計測用の水晶が七つ、等間隔に置かれ、それぞれが淡い青で脈動していた。
部屋の隅には術師ギルド異界事象研究室室長、フィオナ=クレスタが立っていた。銀縁の眼鏡の奥から、疲れた目で魔法陣の中心を見つめている。
「室長。昨夜の同調、もう一度記録を見せてください」
「見せるのは構わないけれど。ねえ、イアン君。あなた、自分の顔を鏡で見た?」
「見てません」
「死人みたいよ」
「死人には解析はできませんから大丈夫です」
軽口の応酬の最中も、イアンの視線は魔法陣から離れなかった。
床に走る線の一本が頼りなく震えている。転界の門が閉じた後に残る「糸」だ。フィオナが言う通りなら、門は閉じても世界と世界の間に細い通り道を残す。それを辿れるのは、門を開いた者の固有魔力波長と一致する何かを持つ者だけ。
イアンの手元には、理恵の鞄に忍ばせたのと対になるもう一つの石があった。
《想起の魔石》。記録と再生を担う魔石は、二つで一組だった。片方が録った声をもう片方が受け取る。ただし本来は同じ世界の中での話である。
「昨夜の通信は、成立した」
イアンは羊皮紙の端を指で叩いた。
「ほんの数秒でした。僕は魔力炉の出力を共鳴の陣で増幅して、糸に石の波長を流し込んだ。向こうの石が反応して、理恵さんが『イアン』と呼んだ——と思います。聞こえたのではなく、波形で」
「波形で、ね」
「ええ。声は届かなかった。ただ、糸の向こうで石が共振した痕跡はあった。理恵さんは確かに石を握っている」
「それは朗報じゃない」
「はい」
イアンは顔を上げた。
「朗報は、次です。向こうからの返信波に、理恵さんの固有魔力波長が乗っていた。波長が生きているということは、彼女は無事です」
フィオナが息を吐いた。ほんの少しだけ肩の力が抜けたのがわかった。
「それでも、顔が晴れないのね」
「……波長の中身がおかしいんです」
イアンは羊皮紙を引き寄せ、二本の曲線を並べて描いた。
一本は理恵が向こうへ渡る前に採取した波長。理恵さん自身は魔力を持たない。けれど半年こちらの食事を口にし続けたことで、身体にごく微量の魔力が馴染み、波長には細かな山と谷が重なっていた。もう一本は昨夜の返信波。骨格はほとんど同じだった。けれど、その細かな山と谷が、ところどころ抜け落ちている。
「ここ。この部分が、削ぎ落とされたみたいに空白になっている。波長の骨格は残っているのに、こちらで身についた魔力の成分だけが、まるごと」
フィオナの顔色が変わった。
眼鏡を押し上げる指が止まる。
「……待って。見せて」
彼女は羊皮紙をひったくるように取り上げ、食い入るように曲線を見つめた。唇が小さく動く。何かを計算し、何かを思い出し、そして、ある結論に辿り着いた時の人間の顔になった。
「《魔力剥離》」
その言葉が転界室に落ちた。
「古い文献に一度だけ見たことがある。異界の門を越える者は、その身に宿す魔力を全て門に払う。生体魔力も、貯めた魔力も、魔石も、全て。越えた先の世界に持ち込めるのは、波長という形だけ……」
イアンの背筋が冷たくなった。
「じゃあ、理恵さんは、こちらで身についた魔力を——」
「ええ。でも彼女は元々魔力を持たない人だった。失ったのは馴染んだ微量だけで、元の人間に戻っただけとも言える。けれど、この痕跡が意味するのはそれだけじゃない。微量でもこれだけ綺麗に剥がれるのよ。生まれつき魔力を持つ者が越えたらどうなるか」
フィオナは羊皮紙から顔を上げた。
「《共食の刻印》を持つ者が、糸を辿って門を越えたら。同じことが起きる」
沈黙が転界室を満たした。
水晶の脈動だけが、一定の拍で青く瞬いている。
イアンは唇を噛んだ。眼鏡の奥の瞳が、静かに、しかし鋭く、何かに気づいた色を宿した。
「室長。ひとつ確認させてください」
「……何かしら」
「ゼクセル様は、僕たちに刻印のことを教えてくださった。『渡れる』とだけ。代償については一言も触れなかった」
「そうね」
「ゼクセル様がこの文献を知らないはずがない。知っていて黙っていた。——そして、理恵さんも」
イアンは立ち上がった。膝が鳴った。
「理恵さんは、ゼクセル様の寝室で長く話した夜があった。あの夜以来、彼女はどこか、思い詰めた顔をしていた。僕はあれを寂しさだと思っていた。違ったんだ」
足音が転界室の階段を降りてくる。
扉の向こうに、ルークの影が立った。
イアンはゆっくり振り向いた。
「ルーク」
静かな声だった。
「君は、知っていたね」
大柄な戦士の肩が、ほんのわずか、震えた。




