第106話 地下室の告白、門が払うもの、それでも選ぶ五つの理由
転界室の空気は、冷たいというより重かった。
天井の低い円形の石室である。床一面に刻まれた魔法陣の溝を、七つの水晶が淡い青で縁取っている。壁に染みついた古い石の匂いと、魔力炉の熱が漏れ出す乾いた金属の匂い。足を動かすたびに靴底が砂を噛む小さな音が反響する。その音が妙に大きく聞こえるほど、誰も口を開かなかった。
階段の下に立ったルークは、動かなかった。
大柄な身体が入口を塞ぐように影を落としている。短く刈った髪の下で日に焼けた額に汗が一筋流れた。太い腕を組んだ指先は、白くなるほど自分の二の腕に食い込んでいる。
「……いつから気づいてた」
低くかすれた声だった。
「確信したのは、ついさっきです」
イアンは静かに答えた。眼鏡の奥の灰色の瞳は責める色をしていない。ただ、事実を確かめる者の目だった。
「でも違和感は前からありました。ゼクセル様の寝室から戻った夜の、理恵さんの顔。あなたが理恵さんを見る目。あなたが以前なら必ず口にした冗談を、あの数日だけ一度も言わなかったこと」
「……そうか」
ルークは長く息を吐いた。肩が少し落ちた。
「ああ。知ってた。理恵と一緒にな。ゼクセル様に聞いた夜に」
フィオナが口を挟みかけて、やめた。
ルークは石の床に目を落としたまま続けた。
「あの夜な。理恵は泣かなかった。ただ俺の顔を見て、『お願い、みんなには黙っててほしい』って言ったんだ。『知ったら、みんな私のために選ぶことになる。選ばせたくないの』って」
「……選ばせたくない?」
「あいつはな、お前らに付いて来いって言いたくなかったんだよ。付いて来いって言えば、お前らは来る。命を張って来る。全部捨てて来る。それがわかってるから、言えなかった。だから、黙って帰った」
最後の言葉は、ほとんど吐き捨てるようだった。
「俺は止められなかった。止める資格もなかった。あいつが決めたことを、俺がひっくり返していいのかわからなかった。……悪い」
ルークは頭を下げた。
大きな背中が深く折れた。
イアンは何も言わなかった。長い沈黙のあとで、小さく首を横に振った。
「謝る必要はないです」
「イアン——」
「僕だって、同じ立場なら黙っていたかもしれない。ただ」
彼は眼鏡を押し上げ、わずかに唇を歪めた。笑いに近いのに、笑いではなかった。
「選ぶのは僕たちです。理恵さんが決めることじゃない。そこだけは、あとで本人に直接言わせてもらいます」
◇ ◇ ◇
厨房に使いが走った。
十分後、階段を降りてくる足音が三つ重なった。先頭のコリンは、粥の入った鍋を抱えたまま現れた。トビアスが手ぶらでその後ろに続き、メルが最後に、小走りで追いついてきた。
「イアンさん、また何か見つけたんですか? ご飯を食べていないと聞いたので、これを持ってきたんですが……」
コリンの声が途中で止まった。
転界室の空気が、先ほどより更に冷えていることに気づいたのだ。ルークの青ざめた顔。フィオナの厳しい目。イアンの手の中の羊皮紙。
「何があったの?」
メルが小さく尋ねた。
イアンは羊皮紙を床に広げた。二本の曲線。抜け落ちた波長。そして、彼は《魔力剥離》の仕組みを、できるだけ平坦な声で説明した。
異界の門は、通る者の身体から魔力を剥ぎ取る。それは罰でも課税でもなく、世界の法則に近い。魔力が存在しない世界に魔力を持ち込めば、そこで歪みが生じる。門は歪みを防ぐため、通過の瞬間に、その者が持つ魔力の全てを払い落とす。生体魔力も、蓄えも、鍛え上げた術式の素養も。
「魔石に溜めた魔力も同様だ。炉のそばで貯めたものも、全て」
「……じゃあ」
コリンの声が震えた。
「理恵さんは?」
「彼女は元々魔力を持たなかった。失ったのは、この世界で馴染んだごく微量のものだけです。彼女自身は、ほとんど何も失っていない」
その答えに、コリンは胸を撫で下ろしかけて、すぐに気づいた。
表情が固まった。
「待ってください。僕たちが、《共食の刻印》で、道標を辿って門を越えたら——」
「全てを失います」
イアンは簡潔に言い切った。
「身体強化も、治癒も、魔術の素養も、魔王の血に由来する力も。越えた先では、魔力を持たない普通の人間になる」
誰もが、息を呑んだ。
◇ ◇ ◇
最初に動いたのはメルだった。
小さな手で胸元の服を握りしめ、俯いたまま立っていた。魔王の弟メルクリウス。見た目には幼い少年のようでも、その身に流れる魔力は、魔王の血を引く者にふさわしい桁外れのものだ。
「……ぼくは、魔王の弟だから」
声はか細かった。
「兄さまの魔力と、ぼくの魔力は繋がってる。兄さまがここまで持ち直せたのは、ぼくの魔力が兄さまを支えてるからでもあるんだ。ぼくが門を越えたら、兄さまは——」
「メル」
トビアスが、初めて口を開いた。
「無理に答えを出さなくていい」
「でも」
「今、ここで決めなくていい。決めるのは、ゼクセル様ともう一度話してからだ」
低い声だった。いつも通りの、感情の見えない声。しかしメルが顔を上げると、トビアスの視線は真っ直ぐだった。逃げていない。
メルは唇を結び、小さく頷いた。
コリンは粥の鍋を床に置いた。かがみ込んで鍋蓋に手を添えたまま、しばらく動かなかった。薄桃色の柔らかい髪が顔に影を落としている。
「……僕、ですね」
静かな声だった。
「理恵さんに、笑って見送ると言ったんです。ちゃんと笑って送り出すって」
「ああ」
「あの時は、本当に諦めるつもりでした。理恵さんが日本で幸せになるなら、それでいいって。でも」
鍋蓋を握る指が白くなった。
「でも、今日、粥を焦がしたトビアスさんを見て、ルークさんが何も食べられないのを見て、メルくんが『味が薄い』と言っているのを聞いて。……わかってしまったんです。僕、あの笑顔、本物じゃなかった」
顔を上げた。目は赤かったが、涙は落ちていなかった。
「僕の魔術がなくなっても、料理は作れます。粥だって焦がさずに作れます。理恵さんに教わった水加減は、手が覚えていますから。魔術を失うのは怖いことですけど、でも」
そこで言葉を切り、ゆっくりと続けた。
「何も持たない手でいいから、理恵さんの隣で粥を煮たいんです」
ルークが顔を覆った。
大きな肩が、一度だけ震えた。
「……俺は、身体強化がなくなったら、ただの大男だ」
低い声が指の隙間から漏れた。
「剣も、前みたいには振れなくなる。盾役もできなくなる。仲間を守れなくなる」
「ルーク」
「でもな」
顔を上げた。目は乾いていたが、頬骨のあたりが赤かった。
「向こうで俺が守るのは、魔物じゃねえ。店と、仲間と、あいつの台所だ。それなら、この腕だけで足りる。足りなかったら、鍛え直す」
彼は拳を握り、自分の胸を叩いた。ごつ、と鈍い音がした。
「俺は行く」
短い宣言だった。
イアンが、くすりと笑った。
「僕が最初に言うつもりだったのに」
「何だよ」
「いえ。順番が、少し狂っただけです」
灰色の髪をかき上げ、眼鏡の位置を直した彼は、ようやく疲れた笑みを浮かべた。
「僕の場合は、魔術を失うと、研究者としての根幹がなくなります。波長を読む目も、術式を組む指も。それは、確かに怖い。でも」
足元の魔法陣に目を落とした。
「向こうの世界には、僕の知らない法則が山ほどある。魔力のない世界で、科学というものが築いた文明。理恵さんが毎日使う電気とか、電車とか。それを理解するのは、魔術を極めるのと同じくらい、面白いはずです。……そう思わない人間は、たぶんこの場にいませんよね」
視線が、フィオナに向いた。
フィオナは眼鏡を外し、指で鼻筋を揉んだ。
「私は行かないわよ。ギルドの仕事もあるし」
「ええ、知ってます」
「でも、手伝うことはできる。道標の増幅、糸の維持、転界術式の調整。あなたたちを送り出す仕事は、私がやる」
彼女は眼鏡をかけ直した。レンズの奥の目が、少しだけ潤んでいた。
「条件があるわ。……必ず、生きて着きなさい。向こうで、ちゃんと幸せになりなさい」
◇ ◇ ◇
「ところで」
フィオナが空気を切り替えるように言った。
「時間の話をしておくわ。この糸は、永遠には保たない」
彼女は魔法陣の中央を指した。細い白い糸が、床から立ち上るようにかすかに揺れている。
「糸は、門を開いた者の魔力の残滓でできている。理恵さんには魔力がほとんどない。だから、残滓も、薄い。魔力炉の出力を共鳴の陣で増幅して、辛うじて保たせているけれど」
「いつまで?」
「早ければ十日。遅くても半月。糸が消えれば、道標が行き先を失う。《共食の刻印》は残っても、辿る道が無くなる」
十日。
その数字が、石室に落ちた。
「ひとつ聞いていいですか」
イアンが手を挙げた。
「僕が理恵さんの鞄に入れた想起の魔石は、なぜ向こうで動いているんでしょう。魔石は魔力を貯める殻のはずです。剥離されたら、ただの石になるはずなのに」
「それは私も考えていたの」
フィオナは頷いた。
「おそらく、石を動かしているのが魔力ではなく波長だからよ。あなたが石に刻んだのは、記録と、あなた自身の固有魔力波長。理恵さんの波長とも同調させていた。魔力は払われても、波長は門を越えられる。石は殻として残り、中身は波長で脈打っている」
「波長の、器……」
イアンの目が、ゆっくり見開かれた。
何かを、思いついた時の顔だった。
「もし、僕たちの波長を石に移して持っていけば。魔力は払われても、波長そのものは向こうに残せるかもしれない」
「やってみる価値はあるわね」
「それが、何かの役に立つのか、は」
「わからない。でも、あなたの顔を見る限り、何か考えがあるんでしょう」
イアンは答えず、羊皮紙の端に素早く何かを書きつけた。
その時だった。
階段の上から、乾いた足音が降りてきた。硬い靴底の音。規則正しく、静かに近づいてくる。
「失礼いたします」
穿影将ヴァルガが、石室の入口に立っていた。
漆黒の外套は埃ひとつなく、鋭い眼光が一同を順に撫でた。そして、最後にメルを見て、わずかに頭を下げた。
「ゼクセル様が、皆様をお呼びです。——全員、とのことです」
メルが息を詰めた。
ヴァルガは続けた。
「刻印と剥離の件、すでにお察しの上と。決める前に、お話ししておきたいことがあると」
トビアスの胸元で、《共食の刻印》がひときわ強く脈打った。
誰もそれに気づかなかった。ただ、彼自身だけが、服の上から胸を押さえて、静かに目を閉じた。




