第107話 魔王の寝室、譲り渡される魔力と最後に門へ立つ者
魔王の寝室には、薬草茶の湯気がまだ薄く漂っていた。
分厚いカーテンが半分だけ引かれ、窓からは午後の斜光が細い帯になって床の絨毯を横切っている。壁際の暖炉には小さな火が灯り、乾いた薪が時折ぱちりと爆ぜた。ミントとカモミールを混ぜたような青い香りの奥に、古い革表紙の本と蝋燭の脂の匂いが沈んでいる。この部屋に入るたびに、誰もが無意識に声を落とした。
寝台の上に、ゼクセルは座っていた。
痩せた頬は先日より少しだけ血色を取り戻している。肩に掛けた灰色のショールの下で、細い指が膝掛けの端をゆっくりと撫でていた。穏やかな目だった。ただその奥に、五人を前にして覚悟を決めた者の静けさがあった。
傍らにはヴァルガが控え、一歩下がった位置で背筋を伸ばしている。
「全員、来たな」
ゼクセルは一人ひとりの顔を順に見た。
ルークの強張った顎。コリンの赤い目。イアンの寝不足の隈。トビアスの沈黙。そして、ショールの端を握りしめて兄を見つめるメル。
「聞こう。何を知った」
「《魔力剥離》です」
イアンが、半歩進み出て言った。
「門を越える者は、身に宿す魔力の全てを払う。理恵さんの波長に残された痕跡で、確認しました」
ゼクセルは目を閉じた。
短い沈黙のあと、ゆっくりと息を吐く。
「そうか。……辿り着いたか」
「ゼクセル様は、ご存知だったんですね」
「知っていた」
即答だった。誰も責める声は上げなかった。ゼクセルはその沈黙に、ほんのわずか、唇の端を緩めた。
「あの子にも、先に伝えてある。『知るべき者はいずれ自ら辿り着く』と。……そして、あの子は黙って帰ることを選んだ。お前たちに選ばせたくなかったのだろう」
「ルークから聞きました」
「あの子らしい」
ゼクセルは小さく笑った。
「だが、私は彼女の願いに従って黙っていた訳ではない。私自身が、お前たちに言うべきではないと思っていた」
「なぜです」
「お前たちが勇者パーティーだからだ」
静かな声だった。
「世界を救った者たちが、更に一人の女のために全てを捨てて異界へ渡る。……それを、王として、あるいは一人の男として、軽々しく薦めてよいものか。私にはわからなかった」
部屋の空気が、少し重くなった。
◇ ◇ ◇
「ひとつ、聞いてもいいですか」
コリンが、控えめに手を挙げた。
「ゼクセル様は、僕たちが行くことに、反対ですか」
「反対はしない。ただ、止める資格もない」
ゼクセルは首を横に振った。
「私は理恵に命を救われた。この粥が、私の命を繋いだ。……それを、彼女の傍にいたいと願うお前たちが追うのを、どうして止められる」
「ゼクセル様……」
「ただし」
視線が、メルに向いた。
メルは小さく息を呑んだ。
「メルクリウス。お前の魔力は、私と繋がっている。私が床に伏していた間、お前の魔力が絶えず私を支えていた。私が持ち直せたのは、お前のおかげでもある。……お前が門を越えるなら、そのままでは私はまた倒れるだろう」
「兄さま……」
メルの声が震えた。
「ぼく、やっぱり——」
「話は最後まで聞け」
ゼクセルは穏やかに遮った。
「方法がある。《魔力譲渡》だ」
イアンの目が光った。
「共鳴の陣を使った、魔力の移譲ですね。通常は魔石を介して行う」
「そうだ。メル、お前の魔力を、剥がされる前に私へ移せ。門が払う分を、先に私が受け取る」
「でも、兄さまの身体が、受け止めきれるかどうか」
「受け止める」
ゼクセルは言い切った。
「私は魔王だ。この城の魔力炉を預かる者だ。お前一人の魔力ごとき、受け止められなくてどうする」
ヴァルガが静かに口を挟んだ。
「陛下。ただし、譲渡の儀は、お体に負担がございます。三日はご安静を」
「三日で済むなら安いものだ」
ゼクセルは薄く笑い、メルに視線を戻した。
「お前が行くのは、私のためでもある。お前は、もう兄の支えではなく、自分の人生を生きていい。……理恵に、また粥を作ってもらえ。私の代わりに、礼を言ってくれ」
メルの目から、ぽろりと涙が落ちた。
小さな手の甲で乱暴に拭っても、後から後から溢れてくる。
「兄さま……ぼく、ぼく」
「泣くな。お前は、いつも泣き虫だ」
「だって」
「ほら」
ゼクセルは細い手を伸ばし、メルの頭を撫でた。弟は寝台の縁にすがるように顔を埋めた。その背中を見つめる誰もが、胸の奥で何かが温かく崩れるのを感じていた。
◇ ◇ ◇
涙が落ち着いた頃、ゼクセルは声の調子を変えた。
「次に、渡り方について話す。これが、最も重要だ」
彼は膝掛けの上で指を組み、一同を見渡した。
「《共食の刻印》は、道標だ。理恵の波長を辿り、糸に沿って門を越える。ここまでは、すでに聞いただろう」
「はい。糸は十日から半月で細って消える、とフィオナ室長が」
「それは正しい。だが、もうひとつ事実がある」
ゼクセルは言葉を区切った。
「門が払った魔力は、消えるのではない。糸に吸われる」
「……吸われる?」
「剥離された魔力は、門の構成に還元される。つまり、越える者が増えれば増えるほど、糸は強くなる。魔力の多い者が通れば通るほど、後に続く者の道は安定する」
イアンの目が見開かれた。
「そうか。剥離は喪失ではなく、通行の燃料……!」
「ああ。理恵のように魔力を持たない者が一人で開いた門は、細く脆い。だが私たちが払う魔力は、その細い糸を太く育てる。五人が順に渡れば、最後の者が通る頃には、糸はほとんど道になっているはずだ」
「順に、ですか」
ルークが唸るように言った。
「つまり、渡る順番が重要になる」
「そうだ。最初の者は、最も細い糸を渡る。危険は大きい。魔力の少ない者ほど、糸に払える燃料が少なく、道を保てない」
ゼクセルの視線が、順に動いた。
「一番に渡るべきは、魔力の最も多い者だ」
全員が、一斉にメルを見た。
メルは慌てて首を振った。
「ぼくは、兄さまに魔力を渡してから行くから、ぼくの魔力は糸に払えないよ」
「そうだな。では、次に魔力の多い者は」
視線が、イアンに、コリンに、ルークに、そして——トビアスに移った。
「トビアス」
名前を呼ばれた男は、顔を上げた。
勇者紋を失った右手を、無意識に握りしめている。
「お前の勇者紋は、すでに砕けている。魔力は残っているが、紋に溜まっていた分は戻らない。……それでも、お前の魔力は、四人の中で最も深い」
「……」
「そして、もうひとつ」
ゼクセルは静かに続けた。
「《共食の刻印》の光は、理恵への想いが強い者ほど強く脈打つ。お前の刻印は、今も最も強く光っている」
トビアスは、無言で胸元を押さえた。
誰も目を逸らさなかった。コリンは小さく唇を結び、ルークは天井を仰ぎ、イアンは眼鏡を押し上げ、メルは唇を噛んだ。それぞれの胸に、複雑な感情が渦巻いているのが、はっきりとわかる沈黙だった。
トビアスは、ゆっくりと口を開いた。
「俺は、最後に行く」
低い声だった。
「最初の者が、魔力の最も多い者であるべきなのはわかる。だが、俺は最後だ。順番は、他の者で決めてくれ」
「理由を聞こう」
「門を閉じる者が、要るからだ」
トビアスの視線が、ゼクセルを真っ直ぐに射た。
「入口が開いたままだと、糸を伝って、こちらの魔力や魔物が向こうに流れ込む危険がある。誰かが、最後に残って、こちらから扉を閉めなければならない。そして、扉を閉めた者は、閉めてから渡る。……それは俺がやる」
ゼクセルは、静かに目を細めた。
「お前は、それが何を意味するか、わかっているのか」
「わかっている」
「最後の者は、一人で門に立つ。他の者は、既に向こうにいる。糸は細く、道は不安定になる。……もし閉め損ねれば、お前は渡れない」
「承知の上だ」
「では、もう一度聞こう」
ゼクセルの声が、更に静かになった。
「それは、勇者としての責任か。それとも、一人の男としての意地か」
トビアスは答えなかった。
長い沈黙のあと、ようやく、唇が動いた。
「……あいつに、明日の朝は何が食べたいかと聞かれた」
誰もが息を止めた。
「俺は、答えていない」
「トビアス」
「答えを持って、行きたい。それだけだ」
低い声が、部屋の隅々に染みた。
ゼクセルは、長く目を閉じていた。やがて、ゆっくりと瞼を開き、ふっと柔らかく笑った。
「……わかった。ならば、お前が最後だ。だが、約束しろ」
「何を」
「必ず、渡れ」
「……ああ」
その短い応えを、ゼクセルは確かに受け取った。
窓の外で、午後の斜光が少しだけ傾いた。暖炉の火が小さく揺れ、五人の影が、絨毯の上で静かに重なった。
その時、ヴァルガがごく小さく咳払いをした。
「陛下。もう一点、お耳に入れておくべきことが」
「何だ」
「王都より、使者が。——勇者トビアス様への、召喚状でございます」
トビアスの目が、一瞬だけ細くなった。




