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第108話 王都からの召喚状と、焦がさなかった粥

魔王城の正門前の石畳は、夜明け前の雨でまだ濡れていた。


灰色の空の端に薄い橙の筋が滲み始めている。馬の鼻息が白く立ちのぼり、濡れた革と鉄の匂いが冷たい空気に混じった。門の前で待っていたのは、王国の紋章を胸に縫い付けた騎士だった。外套の肩は雨に濡れて黒く光り、泥のはねた長靴は、長い道を急いで来たことを物語っている。


トビアスは門の内側に立ち、差し出された封書を受け取った。


蝋で閉じた封には王城書記局の印が押されていた。割ると、乾いた紙の匂いがした。


「謁見の日取りは、本日より七日以内。場所は王城の私室。お一人にて参られよ、とのことです」


騎士の声は硬かった。目はトビアスの胸元、勇者紋の砕けた場所に一瞬だけ向けられ、すぐに逸らされた。


「書記局から、か」


「はい」


「陛下の署名は」


「……ございません」


トビアスは書状を二つに折り、何も言わずに懐へ収めた。


   ◇ ◇ ◇


「行く必要、あるのかよ」


ルークは門柱に背を預け、腕を組んでいた。朝の冷えで、日焼けした頬がわずかに赤い。


「陛下の署名がない召喚状だ。罠かもしれねえぞ」


「罠なら、なおさら行く」


トビアスの答えは短かった。


「放っておけば、俺たちが向こうへ渡る前に、王都が動く。勇者の籍が残ったままだと、国から出られない。……籍は、自分の手で返す」


「それは、そうだけどよ」


「ルーク」


「あん?」


「お前は残れ。魔力譲渡の儀に、人手が要る」


ルークは何か言いかけて、やめた。喉の奥で唸り、乱暴に頭を掻く。


「帰りは、どうするつもりだ。王都まで《結界の道標》を使っても片道三日だろ。往復なら六日。糸が持たねえ」


「それは私が用意するわ」


低い声が横から割り込んだ。


術師ギルドの外套を羽織ったフィオナが、小さな革袋を手に立っていた。いつもの銀縁眼鏡の奥に、昨夜から眠っていない目がある。


「《緊急転移の魔石》。一度きりの片道切符よ。魔王城の魔力炉に紐づけてあるから、使えば、この城へ直接戻れる」


彼女は革袋をトビアスの掌に載せた。


「行きは道標で三日。帰りはこれで一瞬。謁見に何日かかっても、合計五日以内に収まるはず。……糸の寿命には間に合う」


「恩に着る」


「礼なら、生きて帰ってから言いなさい。あなたは最後の一人なのよ。他の四人が渡った後、一人で門に立つ。この石を失くしたら、あなたの席は無くなる」


トビアスは頷き、袋を懐に入れた。


「それと」


フィオナは眼鏡を押し上げた。


「魔石は魔力で動く。王都に着いたらすぐに使いたくなるでしょうけれど、堪えて。魔力剥離が起きるのは門を越える時だけ。この石は、あなたが渡る前なら動く」


「分かった」


その横顔を、少し離れた場所から見つめている影があった。


   ◇ ◇ ◇


出立の前夜、厨房には粥の湯気が立っていた。


竈の火は弱く保たれ、鍋の中で麦がゆっくりと膨らんでいる。薄い乳白色の湯気が、換気窓から差し込む月の光に溶けていった。甘い麦の香りと、塩を少しだけ振った温かい匂いが、石壁の台所を満たしている。


トビアスは鍋の前に立っていた。右手に木べら。左手に理恵のレシピ帳。


「水は麦の三倍です。ここまでは、もう大丈夫ですね」


隣でコリンが穏やかに言った。袖をまくり、薄桃色の髪を後ろで結んでいる。いつもの笑みが、今夜は静かに落ち着いていた。


「ああ」


「焦がさないコツは、火を弱くして、混ぜ続けないことです。混ぜすぎると粘りが出ます。底が焦げ付きそうな時だけ、底から一度、大きく」


「底から」


「そうです。そこで、足し水」


コリンが水差しを傾けると、ぱしゅ、と小さな音が立ち、麦の表面にうっすら波が走った。


「……見ていいか」


「どうぞ」


トビアスは鍋の中を覗き込んだ。湯気が顔に触れて、睫毛が少し濡れた。


「理恵は、いつも、こうしていたのか」


「ええ。僕が教わった時も、こうでした。『焦げそうなら足し水』って、いつも歌うように言っていましたよ」


「歌うように、か」


トビアスの口元が、ほんのわずか、緩んだ。


しばらくの間、二人は黙って鍋を見ていた。木べらが麦をかき分ける音と、薪の爆ぜる小さな音だけが厨房に流れる。


「トビアスさん」


「何だ」


「僕、ずっと、あなたに言えなかったことがあるんです」


コリンは鍋から目を離さずに言った。


「理恵さんの隣に立つのは、僕じゃないって、最初から分かっていました。あなたが勇者紋を失った夜に、理恵さんが一番先に駆け寄ったのも、あなたでしたから」


「……コリン」


「だから、羨ましいとか、悔しいとか、そういうのは、もう通り越しました。ただ」


そこで彼は、ようやく顔を上げた。


「僕は、あなたが理恵さんに『何が食べたい』と聞かれて、答えを持たないまま向こうへ行くのが、嫌なんです」


トビアスは目を見開いた。


「だから、今夜、一緒に粥を作ってもらっています。……理恵さんに会った時、あなたの口から答えが出るように」


沈黙が落ちた。


鍋の湯気がゆっくりと立ちのぼり、トビアスの横顔を柔らかく撫でた。


やがて、トビアスは低く言った。


「俺は、ずっと、答えが分からなかった」


「はい」


「何を食べたいかなんて、考えたことがなかった。腹が満ちればいい、そう思って生きてきた。……あいつの飯を食うまでは」


木べらを握る手が、わずかに震えた。


「あいつの粥を食って、初めて、明日の朝が楽しみだと思った。あんなふうに思えたのは、生まれて初めてだ。だから、答えは、もう決まっている」


「聞かせてください」


「……会った時に、言う」


トビアスは短く言い、鍋に視線を戻した。


コリンは苦笑し、それから小さく頷いた。


「分かりました。それなら、僕は何も聞きません」


鍋の麦が、とろりと艶を帯びてきた。ふつふつと細かな泡が弾け、底から立ちのぼる香りが、少しだけ甘くなる。


「そろそろです。火を止めて、蓋をして、余熱で」


「ああ」


蓋を閉じる。待つ。静かな時間が、一つ一つ、ゆっくりと過ぎていく。


「開けますよ」


コリンが蓋を持ち上げた。


白い湯気が、ふわりと広がった。


鍋の中には、柔らかく炊きあがった乳白色の粥が、なめらかに光っていた。焦げ目はひとつもない。


トビアスは匙で一口すくい、口に含んだ。


目を閉じる。


ゆっくり飲み込む。


「……どうでしょう」


「ああ」


トビアスは、少し間を置いて言った。


「あいつの味とは、違う」


「そうでしょうね」


「でも、悪くない」


コリンは吹き出しそうになって、慌てて口を押さえた。


「トビアスさんが『悪くない』って言うの、最高の褒め言葉ですよね」


「うるさい」


その声は、ほとんど笑いに近かった。


   ◇ ◇ ◇


夜明けの門の前で、メルが小さな布包みを差し出した。


「これ、持っていって。林檎のコンポート。保存の魔術はかけてないけど、瓶に入れたから三日は大丈夫だよ」


「ありがとう」


トビアスは包みを受け取り、鞄の奥に収めた。


ヴァルガが馬の手綱を引いて控えている。騎士が既に鞍に跨がり、出立を待っていた。イアンは少し離れた場所から、黙って腕を組んでいた。


「トビアス」


そのイアンが、短く言った。


「道標の途中、糸の揺れを感じたら、すぐ俺に遠話の魔石で連絡しろ。魔力炉の出力で、増幅できる」


「分かった」


「それと」


灰色の瞳が、眼鏡の奥で細くなった。


「署名のない召喚状というのが、気に入らない。裏を取る時間はないが、気をつけろ」


「ああ」


トビアスは頷き、馬に跨がった。


門が軋みながら開いていく。朝の光が石畳を斜めに照らし、濡れた表面がきらきらと光った。


背後から、ルークの声が飛んだ。


「必ず戻れよ! お前が最後なんだからな!」


トビアスは振り返らず、片手を軽く上げた。


蹄の音が石畳を叩く。道標の最初の石柱が、淡い青の光で彼の行く手を示した。


その胸元で、《共食の刻印》が、微かに脈を打った。


いつもよりほんの少しだけ、速く。


まるで、遠い異国の誰かが、彼の名前を、そっと呼んでいるかのように。

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