第109話 王の私室、署名のない召喚状と砕けた紋の鍵
王城の最上階にある私室は、昼だというのに薄暗かった。
厚い天鵞絨の帳が窓の半分を覆い、細く漏れる光が古い樫の机の角を淡く照らしている。香炉から立ちのぼる薬草の煙は甘く苦く、喉の奥に絡みついた。壁際の大時計が刻む音だけが、規則正しく部屋に響いている。三日間の道標の旅を終えたばかりのトビアスの外套には、まだ街道の土埃が染みついていた。
扉の脇に立つ書記官長が、深々と頭を下げた。
白髪混じりの小柄な男で、インクの染みた指先が震えている。手には彼自身が書いたらしい召喚状の写しが握られていた。
「勇者殿……このような形での召喚、まことに申し訳なく」
「署名がなかった」
トビアスの声は低く、平坦だった。
「それは、陛下の……お手が」
書記官長が言い淀んだ時、奥の肘掛け椅子から、掠れた声が響いた。
「余が言う。下がっていなさい」
椅子の背に、毛布を重ねた老人の背中があった。
アルケディア王は、ゆっくりと身体をこちらに向けた。白くなった髪は薄く、頬は痩せて落ち窪み、肩には痛々しいほど骨が浮いている。かつて王座に就いた折の肖像画の面影は、もうほとんど残っていなかった。膝に載せた右手の指先が、小刻みに震えている。長く盛られた薬は、コリンの解毒で抜けた後も、身体に深い爪痕を残していた。意識は戻っても、筋は痩せ、手の震えは抜けきらない。署名ができない理由は、一目で分かった。
「来てくれたか、トビアス」
「陛下」
トビアスは片膝をつき、頭を垂れた。
「よい。立ちなさい。もう、そのような礼を取る必要はない」
王は苦く笑った。
「お前にそんな礼をさせる資格が、余にあるとは思えん」
◇ ◇ ◇
「宰相の陰謀が暴かれ、薬が抜けて頭が晴れて以来、余はずっと考えていた」
王は毛布の端を指でつまみ、言葉を選ぶように続けた。
「お前たちが命がけで魔王を討ち、戦争を終わらせた。その裏で、王国は勇者紋にお前の命の鍵を仕込み、都合が悪くなれば消せるようにしていた。余はそれを、薬で霞んでいたから知らなかったと言い訳をした。だが、霞むまで薬を飲み続け、知ろうとしなかったことが、罪だ」
「陛下は、あれを仕組んだわけではありません」
「止められた立場にいた。それで十分だ」
王は静かに首を振った。
「だから、お前に会わねばならなかった。召喚という形でしか、お前を呼べない自分が情けないが」
トビアスは何も言わなかった。
ただ、胸元で拳を握った。
「お前に、いくつか申し出たい」
王は机の引き出しに手を伸ばそうとして、震える指で何度も取っ手を掴み損ねた。書記官長が慌てて駆け寄り、代わりに引き出しを開ける。
取り出されたのは、一枚の羊皮紙と、掌ほどの大きさの金の印章だった。
「ひとつ。お前に公爵位と、北の大領地を与えたい。勇者としての功に報いる、せめてもの印だ」
「お断りします」
即答だった。
王は予想していたかのように頷いた。
「ふたつ。王国は、お前に対して今後一切の義務を課さない。勇者という籍を抹消し、一人の市民に戻す」
「それは、お受けします」
「みっつ」
王は震える指で金の印章を持ち上げた。
「《解印》を施したい」
トビアスの眉が、僅かに動いた。
「解印?」
「お前の胸に刻まれた勇者紋は、砕けた。だが砕けたというのは、紋が機能を失っただけのことだ。紋に仕込まれた命の鍵は、まだお前の身体の内側に痕として残っている。そして、その鍵を完全に外せるのは、王の持つこの《王印》だけだ」
王は印章を机に置いた。金の表面に刻まれた王家の紋が、薄暗い部屋の中で鈍く光る。
「痕を残したまま、お前が王国の外へ出れば、命の鍵は、お前をこの国に繋ぎとめようとする。国境を越える程度なら、苦痛で済むだろう。だが、世界を越えるとなれば——」
「引き裂かれる、ということですか」
「そうだ」
トビアスは目を見開いた。
「陛下は、なぜ、俺が世界を越えると」
「ヴァルガ殿が、書状を寄越した」
王は穏やかに言った。
「魔王殿は、余よりも先に、お前のために動いていたようだ。理恵という名の娘が帰った先を、お前が追うと。そして、お前たちが門を越える時、紋の痕が障害になる、と」
トビアスは唇を結んだ。
ゼクセルは、何も言わずに、手を回していたのだ。
◇ ◇ ◇
解印の儀式は、短かった。
王は震える手で王印を握り、トビアスは上衣をはだけて胸を晒した。そこには、砕けた勇者紋の痕が、赤黒い蜘蛛の巣状の傷として残っている。その中央から、わずかに青い光が滲んでいた。
《共食の刻印》だった。
「……これは」
王が息を呑んだ。
「勇者紋の痕と、別の何かが重なっている」
「理恵の、刻印です」
「理恵、か」
王は王印を、そっとトビアスの胸の中央へ当てた。冷たい金属の感触が肌に触れた瞬間、トビアスの背筋に痺れが走った。
「始める。息を止めるな」
「は」
王が低く唱えた。
「王の名において、この者を王国の鎖より解く」
王印の紋が、白く輝いた。
次の瞬間、胸の傷の赤黒い光が、ぶわりと広がった。トビアスの喉から、押し殺した呻きが漏れる。胸の奥で、何かが捻れ、きしみ、剥がれていく。それは焼かれるような痛みだったが、同時に、長年身体の奥にこびりついていた錆びた鎖が、一本ずつ砕けていくような感覚でもあった。
「耐えよ。あと少しだ」
王の額に、脂汗が滲んでいる。
痩せた手が小刻みに震え、王印を握る指から血の気が引いていく。書記官長が思わず前に出かけたが、王が目で制した。
「ここで、止めるわけにはいかん」
「陛下——」
「これは、余が果たすべき、最後の務めだ」
王印の光が一際強くなり、パキン、と乾いた音を立てて弾けた。
トビアスの身体から、重い何かがすとんと抜け落ちた。
荒い息を吐きながら顔を上げると、胸元の傷痕から赤黒い光が消え、代わりに、柔らかく澄んだ青い光だけが、胸の中央で静かに脈打っていた。
《共食の刻印》が、これまでになく鮮やかに、輝いていた。
王は肘掛けにもたれ、力なく息をついた。
「……成功した、ようだ」
「陛下」
「大丈夫だ。少し疲れただけだ」
王は穏やかに笑い、それから、青く光る胸元を見つめた。
「美しい光だな」
「……はい」
「その娘は、よほど良い娘なのだろう」
トビアスは一瞬、答えに詰まった。
胸元の光が、ほんのわずか、強まった。
「世界で、一番です」
低く、静かに、しかしはっきりと言った。
王は目を細めた。
「そうか。ならば、その娘の隣で、ちゃんと笑ってやれ。お前は、笑うのが下手だ」
「……努力します」
「それと」
王は書記官長に目配せした。老書記官長が、一通の封書を恭しく差し出す。
「これは、除籍の証書だ。勇者の籍を抜き、お前を王国の務めから解くと記してある。向こうの世界では紙切れに過ぎぬだろう。だが、お前がこの国で何を成したか、余が確かに見届けたという証だ。持っていけ」
トビアスは封書を受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は要らん」
王は小さく首を振り、窓の隙間の光に目を向けた。
「ただ、もし、その先で良い食卓を見つけたなら、いつか、手紙を一通くれ。……それだけで、余は救われる」
◇ ◇ ◇
城門を出たのは、夕刻だった。
王都の石畳は夕日に染まり、人々の足音と露店の呼び声が行き交っている。屋台からは焼き栗の香ばしい匂いと、煮込みの湯気が漂ってきた。トビアスは通りの端で立ち止まり、フィオナから預かった革袋を取り出した。
《緊急転移の魔石》。
掌に載せた石は、淡い紫の光を宿し、微かに脈打っている。
使う前に、彼は一度だけ、王都の空を見上げた。
戦いの後、仲間と祝った夜の灯り。理恵が屋台の串焼きを頬張って、目を輝かせたこと。ルークが調子に乗って食べ過ぎて、腹を壊したこと。全てが、遠い昔の出来事のように思えた。
だが、どれも、確かにここにあった。
「……行くか」
呟き、石に魔力を流し込もうとした、その時だった。
懐の奥で、小さな石が震えた。
イアンが持たせた《遠話の魔石》だった。対になった石同士で、離れた相手とその場で声を交わせる。
取り出して耳に近づけると、砂を撒くような雑音の向こうから、切迫した声が響いた。
『トビアス、聞こえるか』
「イアンか」
『糸の減衰が予測より早い。魔力炉の出力を上げても、もう三日と持たない。——今夜、最初の四人が渡る』
トビアスの目が鋭くなった。
『お前は、すぐ戻れ。最後の一人として、門に立つ準備がいる』
「分かった」
『もう一つ』
イアンの声が、少しだけ低くなった。
『さっき、俺の石が、勝手に反応した。理恵の石の方から、今度は、はっきりと波が来た。言葉じゃない。ただ、強く、俺たちを呼んでいる』
トビアスは息を止めた。
胸元の刻印が、どくん、と大きく脈を打った。
「……待っている、のか」
『ああ。たぶん、な』
通信が途切れる。
トビアスは魔石を握りしめ、魔力を流し込んだ。紫の光が膨れ上がり、足元に魔法陣が描かれる。夕日に染まる王都の景色が、ゆっくりと溶けていく。
最後に目に映ったのは、城の最上階の窓だった。
帳の隙間から、痩せた老人が、こちらに向かって小さく手を振っているように見えた。
トビアスは、深く頭を下げた。
そして光に呑まれ、王都から消えた。




