第110話 転界室の夜、最初に門を越える二人
転界室の石壁は、夜になるといっそう冷たかった。
床一面に刻まれた魔法陣の溝を、七つの水晶が青白く縁取っている。魔力炉の低い唸りが足の裏から伝わり、空気は微かに焦げた鉄のような匂いを含んでいた。壁の燭台では蝋燭が揺れ、石に映る影が呼吸するように伸び縮みしている。
その魔法陣の外周に、五つの影が並んでいた。
「間に合ったな」
ルークが短く言った。
床の中央で紫の光が弾け、魔法陣の縁に一人の男が現れた。
トビアスだった。外套の裾に王都の埃を残したまま、肩で息をしている。胸元がうっすらと青く光っていた。
「遅くなった」
「ほんとにな。三日で戻ってこれるなんて、思わなかったぜ」
ルークは言いながら、乱暴にトビアスの肩を叩いた。力が強すぎて、トビアスが小さく咳き込む。
「ヴァルガ経由で聞いていたが。紋の鍵を外す件か」
イアンが近づいて、トビアスの胸元を見た。灰色の瞳が、すぐに細まる。
「ああ。陛下が自ら、王印で解いてくださった」
「……綺麗に抜けてる。紋の痕の赤い光が、一本も残っていない。刻印の光だけが、中央に集まっている」
「そうか」
イアンは短く頷き、それから眼鏡を押し上げた。
「なら、予定通りに進められる。——室長、始めてくれ」
◇ ◇ ◇
フィオナは魔法陣の中心に立ち、両手を床にかざしていた。
銀縁の眼鏡の奥で、瞳が青白い光を映している。その足元から、細い白い糸が一本、天へ向かって立ちのぼっていた。
「手順を説明するわ」
静かな声が、石室に響いた。
「門を越えるには、三つの条件が要る。座標、触媒、そして意思」
彼女は糸を指で示した。
「座標は、この糸。理恵さんの波長が、向こうの世界へ続く道を作っている。あなたたちの《共食の刻印》が、その波長を道標として追う」
「触媒は、剥離される魔力、ですね」
コリンが言った。
「そう。門が払う魔力が、糸を太くする。最初に渡る者は、最も細い糸を渡る。だから、魔力の多い者から順に」
フィオナは視線を巡らせた。
「本来なら、最初はメルクリウス殿下よ。けれど殿下は、渡る直前に魔力を陛下へ譲渡する決まり。門が払う分を、陛下が先に受け取る。糸に払える燃料が残らないから、順番は最後尾。トビアスは、自分の意思で最後」
メルが小さく頷いた。ゼクセルを見る横顔が、ほんの少し強張っている。
「だから、魔力の多い順に並べ直すと、イアン君、コリン君、ルーク君、メルクリウス殿下、そしてトビアス。——イアン君。あなたが一番手よ」
「分かってる」
イアンの返事は簡潔だった。しかし、羊皮紙の束を握る指が、僅かに白くなっているのを、誰も見逃さなかった。
「最後の条件が、意思。渡る時に、どこへ、誰のもとへ行くのかを、はっきりと言葉にしなさい。迷いがあると、糸が逸れる」
「どこへ、誰のもとへ」
イアンは小さく繰り返し、陣の縁へ歩み寄った。
その前に、ゼクセルが立っていた。
車椅子に座り、ショールを肩に掛けている。後ろにはヴァルガが控えていた。三日の静養を経た彼の頬は、数日前よりもずっと血色が良い。しかし、その瞳の奥には、静かな寂しさが滲んでいた。
「イアン」
「ゼクセル様」
「お前の研究は、この世界に多くのものをもたらした。魔力炉の再調整も、転界術式の解析も、お前がいなければ成し得なかった」
「恐縮です」
「向こうの世界で、お前が何を見つけるのか、聞けないのが残念だ」
ゼクセルは穏やかに微笑んだ。
「だが、きっと、良いものを見つけるだろう。——行ってこい」
「……はい」
イアンは深く頭を下げた。
それから、フィオナに向き直った。
「室長」
「何」
「ありがとうございました。俺を、研究室に拾ってくれたこと」
フィオナは一瞬、言葉を失った。眼鏡のレンズの奥で、瞳が潤んでいた。
「馬鹿ね。……そんなこと、今言うんじゃないわよ」
「今しか言えない」
「……生きて着きなさい」
「ああ」
イアンは魔法陣の縁に立ち、胸元に手を当てた。《共食の刻印》が、青く脈打っている。
◇ ◇ ◇
「始めるわ」
フィオナが両手を高く掲げた。
七つの水晶が一斉に強く輝き、床の溝を青い光が駆け抜ける。白い糸が太く揺れ、渦を巻きながら魔法陣の中心へ収束していく。壁に映る影が激しく揺らぎ、蝋燭の炎が一斉に横へ傾いた。
イアンは陣の中央へ一歩踏み出した。
足元から冷たい風が吹き上がる。外套の裾が翻り、灰色の髪が逆立つ。胸の刻印が、眩しいほど強く光り始めた。
「意思を」
フィオナの声が響く。
イアンは目を閉じ、静かに息を吸った。
「行き先は、理恵のところ」
声は低く、はっきりとしていた。
「あいつの隣で、俺は、まだ知らない法則を学ぶ」
光が彼の全身を包んだ。
次の瞬間、イアンの身体から、無数の白い光の粒が溢れ出した。それは魔力だった。彼が一生をかけて磨いてきた術式の素養、波長を読む目、組み上げた回路。それらが光となって、細い糸へ吸い込まれていく。糸が、ぐんと太く、強く、鮮やかに脈打った。
イアンの口から、抑えた呻き声が漏れた。
膝がわずかに折れる。それでも、彼は倒れなかった。
「……軽いな」
かすれた声で、呟いた。
「身体が、驚くほど、軽い。何かが、抜けた」
その唇が、微かに緩んだ。
「悪くない」
光が収束し、彼の姿が薄れていく。
最後に見えたのは、眼鏡を押し上げる、いつもの仕草だった。
そして、イアンは消えた。
石室に、重い静寂が落ちた。
◇ ◇ ◇
フィオナは膝を折り、床に手をついた。
額に汗が滲み、肩が小さく上下している。しかし、その目は、水晶の脈動を見つめたまま離れなかった。
「着いた?」
メルが小さく尋ねた。
「……待って。波形を読むから」
フィオナは眼鏡を外し、目を細めた。床の溝の青い光が、微かに明滅している。しばらくして、彼女は顔を上げた。
「渡ったわ。糸が、確かに太くなってる。——次、コリン君」
コリンが静かに前へ出た。
薄桃色の髪は後ろで結ばれ、袖はきちんと整えられている。懐から、一通の封書を取り出した。
「ヴァルガさん。お願いがあります」
「何でしょう」
「この手紙を、僕の母に届けてください。故郷の村に、治療院を作る夢は、僕が果たせなくなりました。けれど、見習いのリゼという子がいます。彼女に、僕の薬草帳と、治療院の設計図を託すと、書きました」
「承りました」
ヴァルガは恭しく封書を受け取った。
「必ず、お母上のもとへ」
「ありがとうございます」
コリンは頭を下げ、それから魔法陣の縁に立った。
胸元に手を当て、彼は静かに微笑んだ。
「理恵さんに、笑って見送ると言いました。あの時の笑顔は、嘘でした。けれど、今は」
息を吸う。
「今度は、本当の笑顔で、会いに行きます」
フィオナが頷き、両手を再び掲げた。
光が奔る。
「意思を」
「行き先は、理恵さんのところ。あの人の隣で、僕は、何も持たない手で、粥を煮ます」
コリンの全身が、白い光に包まれた。
魔力の粒子が溢れ出す。上級治癒術の素養、解毒の術式、回復の光。数え切れないほどの人を救ってきた力が、静かに糸へ溶けていく。コリンの瞳に、一瞬だけ、涙が浮かんだ。
「……ああ」
小さな声が、漏れた。
「やっぱり、少し、寂しいですね」
けれど、その顔には、確かな笑みがあった。
「でも、大丈夫です」
そして、コリンも消えた。
糸がまた一段、太くなった。青白い光が、天井近くまで伸びていく。
◇ ◇ ◇
フィオナは立ち上がろうとして、よろめいた。
ルークが慌てて腕を支える。
「大丈夫か」
「平気よ。……ただ」
彼女は水晶の一つを見つめたまま、眉を寄せた。
「おかしい」
「何がだ」
「最初の波長が、向こうに着いたの。確かに着いたんだけど」
フィオナの声が、緊張を孕んだ。
「座標が、理恵さんの部屋じゃない」
石室の空気が、凍りついた。
「どこだ」
トビアスが低く尋ねた。
「分からない。……でも、屋内じゃない。何か、広い場所の、真ん中」
フィオナは羊皮紙に、震える手で図形を書きつけた。
「それと、もう一つ。糸が、誰かに引かれている」
「引かれる?」
「向こう側から。強く、必死に。——まるで、迎えに来ているみたいに」
トビアスの胸元の刻印が、どくん、と大きく脈を打った。




