第111話 譲渡の光、剣を置いた男と涙を拭いた弟
転界室の空気は、さっきまでと違う熱を帯びていた。
イアンとコリンが渡った後の魔法陣は、まだ余韻のように青白い光をたゆたわせている。床の溝を流れる光の筋は、先ほどより明らかに太く、脈が強い。足の裏に伝わる魔力炉の唸りも、低く重く、どこか満足げに聞こえた。蝋燭の火が風もないのに一斉に揺れ、石壁の影が深呼吸するように膨らんでは縮む。
フィオナは床に片膝をつき、水晶の波形を読んでいた。
「……間違いない。座標は固定されていないわ」
額の汗を手の甲で拭い、彼女は顔を上げた。
「最初は広い場所の真ん中。でも、今の読みでは、さっきと違う。糸の先が、動いてる」
「動く?」
ルークが眉を寄せた。
「理恵さんが、動いているのよ」
フィオナは羊皮紙に素早く図を描いた。
「向こう側から糸を引いているのは、理恵さん自身。彼女が石を握ったまま、どこかへ向かっている。座標は、彼女の現在地に追従する」
「つまり、あいつが外にいる、ってことか」
「ええ。屋内でも、小さな部屋でもない。広い、開けた場所。——彼女は、私たちを迎えに来ているのかもしれない」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
トビアスは、胸元に手を当てていた。青い光が、掌の下で静かに脈打っている。
「いつ、気づいた」
「糸が引かれ始めたのは、イアン君が渡った直後」
「石の共鳴か」
「そう。想起の魔石は、イアン君の波長を刻んだ石。彼が渡って、向こう側で波長が揃った瞬間、理恵さんの石が、反応したのよ」
ルークが大きく息を吐き、それから、乱暴に頭を掻いた。
「そりゃ、待たせるわけにはいかねえな」
「次は、あなたよ」
フィオナが言った。
◇ ◇ ◇
ルークは、陣の縁に歩み寄る前に、腰の剣を外した。
長く彼の相棒だった大剣である。幾多の戦場をくぐり抜けた鞘は傷だらけで、握りの革は汗で黒く擦り切れている。彼はそれを、両手で恭しく掲げ、ヴァルガの前に差し出した。
「預かってくれ」
「よろしいのですか」
「向こうに持っていっても、ただの鉄の塊だ。身体強化がなくなったら、俺には重すぎる」
ルークは苦笑した。
「それにな。もう、振り回す必要がねえ。……ああ、守るもんは変わらねえけどよ」
ヴァルガは剣を受け取り、深く一礼した。
「確かに。この剣は、魔王城の武具庫に、誇りとともに収めておきます」
「頼む」
ルークは懐から、丸めた羊皮紙の束を取り出した。
「こっちは持ってく」
それは、彼が夜ごと描いていた店の青写真だった。焼き窯の配置、作業台の高さ、仕込みの動線。ところどころに、インクの染みと、書き直しの跡が残っている。
「向こうに行ったら、まず、でけえ作業台を作る。理恵に約束したんだ。『お前の台所に、俺が作業台を据える』ってな」
彼は羊皮紙を胸に抱き、陣の縁に立った。
その背中に、トビアスが声をかけた。
「ルーク」
「あん?」
「先に行って、待っていてくれ」
ルークは振り返り、ニッと歯を見せた。
「おうよ。お前が来たら、焼きたてのパンを用意しといてやる」
「楽しみにしている」
フィオナが両手を掲げた。
光が奔る。
「意思を」
「行き先は、理恵の台所だ」
ルークの声が、石室に太く響いた。
「あいつの隣で、俺は、毎朝パンを焼く」
白い光が、彼の巨躯を包んだ。
魔力の粒が溢れ出す。身体強化の回路、闘気の流れ、鍛え上げた肉体に宿っていた力の全てが、光となって糸へ吸い込まれていく。巨木のような腕が、一瞬だけ、かすかに震えた。
「……こりゃ、すげえな」
ルークは自分の拳を見つめて、呟いた。
「身体が、ふわっと軽くなる。……いや、違うな。今まで、ずっと重い鎧を着てたんだ、俺は」
彼は顔を上げた。
「悪くねえ。——じゃあな、みんな!」
太い腕が、大きく振られた。
光が弾け、ルークの姿が掻き消えた。
糸が、ぐんと唸りを上げた。青白い光が、天井に届くほど太く立ち昇る。
◇ ◇ ◇
メルは、ゼクセルの車椅子の前に立っていた。
肩が、ほんのわずか、震えている。それでも、顔は上げていた。唇を真一文字に結び、兄を見つめている。
「兄さま」
「ああ」
ゼクセルは、穏やかに微笑んだ。
「怖いか」
「怖くないよ」
メルは首を振った。
「怖くないけど、寂しい」
「そうか」
ゼクセルは、ゆっくりと両手を差し出した。細く、骨張った、けれど温かい手だった。メルは一瞬だけ躊躇し、それから、その手をぎゅっと握った。
フィオナが傍らに膝をつき、小さな魔法陣を床に描いた。ゼクセルの車椅子とメルの足元を結ぶ円である。
「《魔力譲渡》を始めます」
静かな声だった。
「メルクリウス殿下。あなたの魔力を、陛下へ。流れに逆らわず、身体の力を抜いて」
「うん」
円が、柔らかな金色に光った。
メルの身体から、金の糸のような魔力が、ふわりと立ちのぼる。それは握り合った二人の手を伝い、ゼクセルの腕から肩へ、胸へと流れ込んでいく。温かい、春の日向のような光だった。
ゼクセルの頬に、みるみる血色が差した。
痩せていた指に、力が戻る。肩に掛けたショールが、わずかに持ち上がる。彼は目を閉じ、深く、ゆっくりと息を吸った。
「……温かいな」
呟きが、零れた。
「お前の魔力は、いつも温かかった。小さい頃から、変わらない」
「兄さま……」
メルの瞳から、ぽろぽろと涙が落ちた。
「ごめん、ぼく、泣かないって決めてたのに」
「いい。泣け」
ゼクセルは握った手に、少しだけ力を込めた。
「泣いて、笑って、美味しいものを食べて。——お前は、これから、自分の人生を生きるんだ」
「うん」
「理恵に、礼を言ってくれ。私の命を繋いでくれたこと。お前を、笑顔に変えてくれたこと」
「うん……っ」
魔力の流れが、細くなっていく。
最後の一筋が、ゼクセルの胸に吸い込まれた。金色の光が静かに消え、円が元の石床に戻る。メルの肩が、ほんの少し、軽くなったように見えた。
ゼクセルは目を開き、弟の肩を軽く叩いた。
「よく頑張ったな。——行ってこい」
メルは袖で乱暴に涙を拭き、鼻をすすった。
それから、深く息を吸い、顔を上げた。
「兄さま、ぼく、行ってきます」
「ああ」
「必ず、また、会いにくるから」
「待っている」
メルは陣の縁に立ち、フィオナに向かって頷いた。
フィオナは、静かに両手を掲げた。
「意思を」
「行き先は、理恵ちゃんのところ」
メルの声は、掠れて、けれど真っ直ぐだった。
「ぼくは、理恵ちゃんの隣で、もう一杯、粥を食べたい」
光が、彼を包んだ。
魔王の血に由来する魔力は、もう彼の中には残っていない。それでも、身体に染みついた微かな魔力の残滓が、ふわりと糸に吸い込まれた。メルは目を閉じ、胸の前で両手を合わせた。
「……兄さま、大好き」
最後に、小さな声が響いた。
そして、メルの姿は、光の中に溶けていった。
ゼクセルは、微動だにしなかった。
ただ、車椅子の肘掛けを握る指が、白くなっている。
背後から、ヴァルガが静かに歩み寄り、主の肩に外套を掛けた。
「陛下」
「大丈夫だ」
声は、驚くほど穏やかだった。
「あの子は、もう、私の手を離れた。……良いことだ」
けれど、その頬を、一筋、涙が伝っていた。
◇ ◇ ◇
石室に、トビアスとフィオナ、ゼクセル、ヴァルガの四人だけが残った。
青白い光は、いまや柱のような太さで立ち昇っている。四人が払った魔力が、糸を道にまで育て上げたのだ。その光が、石壁を昼間のように照らし、トビアスの影を足元に濃く落としていた。
フィオナは立ち上がろうとして、またよろめいた。
トビアスが腕を伸ばして支える。
「無理をするな」
「平気、と言いたいところだけど」
彼女は苦笑し、眼鏡を押し上げた。
「さすがに、三人を続けて送り出すと、堪えるわね」
「あとは、俺が一人で行く」
「そうはいかないの」
フィオナは真剣な目で、トビアスを見上げた。
「ここからが、一番大事な話よ。最後の者は、扉を閉める」
トビアスは黙って頷いた。
「手順を言うわ。あなたが渡る瞬間、私はこの陣への魔力供給を断つ。魔力炉との接続を切るの。同時に、あなた自身が陣の中心で、糸の端を握って、向こうへ引き込む。そうしないと、糸が切れて、こちらの世界に開いた道が、そのまま残ってしまう」
「道が残れば」
「魔物でも、魔力でも、何でも向こうへ流れ込む。逆に、向こうの世界の何かが、こちらに入ってくる可能性もある」
ゼクセルが、静かに口を挟んだ。
「道を閉じる役は、最後の者だ。……しくじれば、お前は渡れず、あの子たちの世界に災厄が流れる」
「分かっています」
トビアスの答えは、迷いがなかった。
「俺は、必ず閉める。そして、渡る」
「約束だぞ」
ゼクセルは、トビアスの胸元を見た。青い光が、いつにも増して、強く脈を打っている。
「その光は、嘘をつかない。お前が、あの娘をどれほど想っているか、私の目にも見える」
「……」
「トビアス。ひとつ、聞いていいか」
「何を」
「あの娘に聞かれた、『明日の朝は何が食べたい』。その答えは、決まったのか」
トビアスは一瞬だけ視線を落とし、それから顔を上げた。
「決まっています」
「聞かせてくれるか」
「いえ」
彼は静かに首を振った。
「言うのは、あいつにだけです」
ゼクセルは、ふっと破顔した。
「そうか。……ならば、それでよい」
フィオナが、陣の縁を指し示した。
「準備はいいわね」
トビアスは頷き、陣の中心へ歩み寄った。
足元の光が、彼の靴に絡みつく。胸の刻印が、眩しいほどに輝いている。その光に導かれるように、白い糸の端が、彼の指先へ降りてきた。
指に触れた瞬間、トビアスの全身に、鳥肌が立った。
糸の向こうから、何かが伝わってくる。
温かい。懐かしい。そして、微かに震えている。
(……理恵)
声に出さず、呼んだ。
その時だった。
足元の魔法陣が、突然、激しく脈打った。魔力炉の唸りが跳ね上がり、水晶が一斉に悲鳴のような音を立てる。糸の光が、一瞬、赤く濁った。
「な……っ」
フィオナが叫んだ。
「待って、糸が——何かが、混ざってる!」
トビアスの手の中で、糸がぐいと引かれた。
向こう側から。強く。必死に。
そして、石室全体に響く、聞き覚えのない低い声が、糸を伝って降りてきた。
『——見つけた』




