第112話 門の問いかけ、勇者が置いていくもの
転界室の空気が、きしんでいた。
天井近くまで立ち昇る光の柱は、青から赤へ、赤から白へと不規則に色を変えている。魔力炉の唸りは低い雷鳴のように床を揺らし、足の裏から骨の芯へ震えが這い上がってくる。舌の奥には錆びた金属の味が広がり、鼻の奥を焦げた空気が刺した。蝋燭の炎は全て横倒しになり、壁に映る影が悲鳴を上げるように伸び縮みしている。
トビアスは、糸の端を握ったまま動けずにいた。
「トビアス! 手を離しなさい!」
フィオナの声が、轟音の向こうから響いた。
「糸が暴れてる! このまま握っていたら、身体が引き裂かれる!」
「離せば、道が閉じる」
トビアスの声は低く、掠れていた。
「そうなれば、イアンたちが——」
『見つけた』
また、あの声が降りてきた。
低く、平坦で、男とも女ともつかない。耳ではなく、胸の奥、《共食の刻印》のあたりから直接響いてくるようだった。
『最後の一人。最も深い魔力を持つ者。そして、最も多くを背負う者』
「誰だ」
トビアスは歯を食いしばった。
「何が、俺を呼んでいる」
『我は、門』
声が告げた。
『世界と世界の間に立つもの。渡る者に問いを課し、答えを量るもの』
石室にいた三人が、息を呑んだ。
ゼクセルが、車椅子の肘掛けを握りしめ、低く呟いた。
「……門の意思、か。古い文献にあった。条件の三つ目の『意思』は、ただ口にすれば足りるものではない。門が、その重さを量るのだと」
「陛下、ご存知で」
「半ば伝承だと思っていた」
ゼクセルは苦く笑った。
「だが、実在したか。——トビアス! 答えよ! 迷えば、糸が逸れる!」
トビアスは顔を上げた。
視界が白く染まっていく。足元の魔法陣が遠のき、フィオナの叫びが水の底のようにくぐもって聞こえなくなった。
◇ ◇ ◇
気がつくと、トビアスは白い空間に立っていた。
床も壁も天井もない。ただ、淡い光が静かに満ちている。足元に、一筋の細い道が、遥か彼方まで伸びていた。
その道の入口に、何かが立っていた。
人の形をしている。けれど、顔はなく、ただ輪郭だけが、陽炎のように揺らいでいた。
『問う』
声が告げた。
『お前は、何を置いていく』
トビアスは、静かに息を吸った。
「魔力を」
『それだけか』
「……何だと」
『お前が置いていくものは、魔力だけか』
輪郭が、ゆっくりと近づいてきた。
その手の中に、光る小さな塊が現れた。握り拳ほどの、赤黒い光。砕けた勇者紋の、最後の欠片のように見えた。
『これは、お前が背負ってきたもの。勇者という名。王国の期待。討伐の栄光。民の祈り』
光が、幾筋にも分かれて、トビアスの周りに浮かび上がる。
『お前はこの世界で、英雄と呼ばれる。留まれば、お前の名は永遠に語り継がれる。王は爵位を与え、民は花を撒く。お前は、世界で最も尊い者として、生涯を全うできる』
トビアスは黙って、光を見つめていた。
その光の中に、歓声が聞こえた。王都の大広場、祝賀の鐘、彼の名を呼ぶ無数の声。誰もが笑っていた。
『それでも、行くのか』
声が、静かに問うた。
『名も、地位も、力も、全てを手放して。魔力を持たない、何者でもない男として』
トビアスは、ゆっくりと目を閉じた。
胸の奥で、刻印が静かに脈打っている。
彼は思い出していた。
最初に食べた、理恵の粥のこと。腹に染みる温かさ。初めて、明日が来るのが楽しみだと思えた、あの朝のこと。
「……俺は」
声が、静かに空間に響いた。
「勇者と呼ばれるのが、嫌だった」
輪郭が、微かに揺れた。
「呼ばれるたびに、誰かの期待に応えなければならなかった。応えられなければ、価値がないと言われた。紋が命を握っていると知った時も、それが当然だと思った。俺は、道具だった」
『ならば、なぜ』
「あいつが、初めてだった」
トビアスは目を開けた。
「何者でもない俺に、『何が食べたい』と聞いてくれたのは」
静寂が落ちた。
「勇者でも、英雄でもない。ただのトビアスに、朝のごはんを作ってくれる人だ」
彼は赤黒い光に、真っ直ぐに視線を向けた。
「名は置いていく。地位も、力も、置いていく。全部、置いていって構わない。俺が持っていきたいのは、一つだけだ」
『それは』
「あいつの隣で、毎朝、同じ食卓につくこと」
声が、一瞬、止まった。
白い空間が、微かに震える。
『それは、願いか。覚悟か』
「どちらでもある」
トビアスは答えた。
「願いだから、行く。覚悟があるから、置いていく」
長い、沈黙があった。
やがて、顔のない輪郭が、ふっと、笑ったように見えた。
『……量った』
手の中の赤黒い光が、さらさらと砂のように崩れていく。それは光の粒となって宙に舞い、トビアスの胸元へ吸い込まれた。刻印が、柔らかく、強く、輝いた。
『お前の意思は、重かった。重く、温かく、澄んでいた。これまで量った誰よりも』
輪郭が薄れていく。
『行け。糸は、お前のために太く育てられた。お前が払う代価は、最後の道を作る』
「……ありがとう」
トビアスは、小さく呟いた。
『礼は要らぬ。ただ、一つだけ告げておく』
声が、遠ざかりながら響いた。
『向こう側で、お前を待つ者は、一人ではない。心して、渡れ』
白い光が、全てを包んだ。
◇ ◇ ◇
「トビアス!」
フィオナの叫びで、意識が戻った。
転界室の床の上だった。膝をつき、右手には糸の端を握ったままだ。光の柱は白く澄み、揺らぎはぴたりと止まっている。魔力炉の唸りも、低く安定した調子に戻っていた。
「……門に、量られた」
トビアスが呟くと、ゼクセルが深く頷いた。
「見ていた。お前の答えは、私にも聞こえた」
「陛下」
「立派な答えだった。——勇者などとは、とうに呼べぬ。お前は、一人の男として、立派に答えた」
ヴァルガが一歩進み出て、深々と頭を下げた。
「トビアス様。この数ヶ月、陛下の名代として、お供できたこと、光栄でございました」
「ヴァルガ」
トビアスは立ち上がり、彼に向き直った。
「陛下を、頼む」
「命に代えても」
その横で、フィオナが涙を拭いながら、陣の縁に立った。
「手順を、もう一度確認するわ」
声は震えていたが、手は確かだった。
「私が、魔力炉との接続を断つ。同時に、あなたが糸を引いて、向こうへ飛び込む。一拍遅れれば、道が開いたままになる。一拍早ければ、あなたが取り残される」
「分かっている」
「呼吸を、合わせるわよ」
トビアスは頷いた。
陣の中心に立ち、深く息を吸う。
ゼクセルが、車椅子の上から、静かに言った。
「トビアス」
「はい」
「あの娘に、伝えてくれ。——世話になった。ありがとう、と」
「必ず」
「そして」
ゼクセルは、微笑んだ。
「幸せになれ」
トビアスは、深く、深く頭を下げた。
顔を上げた時、彼の表情は、これまで誰も見たことのない柔らかさを湛えていた。
「行ってきます」
フィオナが叫んだ。
「今よ!」
彼女の両手が、陣から魔力炉への接続を切断する。同時に、トビアスは糸を力一杯に引いた。
世界が、反転した。
足元の魔法陣が、光の渦となって彼を呑み込む。耳をつんざく轟音。全身を貫く灼熱と冷気。胸元の刻印が、太陽のように輝いた。
(……理恵)
声にならない声で、呼ぶ。
身体の奥から、何かが引き剥がされていく。魔力、勇者の力、積み重ねてきた全てが、光の粒となって糸に溶けていく。痛みはない。ただ、ひどく軽く、心許なく、そして——自由だった。
(これで、いい)
遠ざかる転界室で、陣が静かに閉じていくのが見えた。フィオナの涙。ゼクセルの微笑。ヴァルガの敬礼。光の扉が、ゆっくりと、完全に閉じた。
最後の一瞬、道の向こうに、小さな光が見えた。
橙色の、暖かい灯り。
どこか懐かしい、出汁の匂いのような——。
◇ ◇ ◇
草の匂いがした。
湿った土と、夜露を含んだ草の匂い。遠くで、聞き慣れない低い唸りが途切れ途切れに通り過ぎていく。それに混じって、虫の声。見上げると、空には大きな月が浮かんでいた。
トビアスは、冷たい芝生の上に仰向けに倒れていた。
息を吸う。肺に入る空気が、驚くほど澄んでいて、そして、どこか薄かった。魔力の気配が、一切ない。身体の中が、からっぽになったように静かだった。
胸元に、そっと手を当てる。
刻印は、まだ微かに青く光っていた。
「……着いた」
呟いた時、足音が近づいてきた。
草を踏む、小さな足音。誰かが、息を切らして駆けてくる。
トビアスはゆっくりと身体を起こした。
月明かりの中、細い柱の先に灯る白い光の下に、一人の女性が立っていた。
見慣れない形の上着の肩が揺れている。片手には、淡く青い光を宿した石を握りしめている。ほどけかけた髪が、夜風に揺れていた。
その人は、息を整えるのも忘れたように、ただ、こちらを見つめていた。
「……トビ、アス?」
震える声が、夜気を裂いた。
トビアスは、静かに立ち上がった。
胸の刻印が、これまでになく強く、優しく、輝いた。




