↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
112/116

第112話 門の問いかけ、勇者が置いていくもの

転界室の空気が、きしんでいた。


天井近くまで立ち昇る光の柱は、青から赤へ、赤から白へと不規則に色を変えている。魔力炉の唸りは低い雷鳴のように床を揺らし、足の裏から骨の芯へ震えが這い上がってくる。舌の奥には錆びた金属の味が広がり、鼻の奥を焦げた空気が刺した。蝋燭の炎は全て横倒しになり、壁に映る影が悲鳴を上げるように伸び縮みしている。


トビアスは、糸の端を握ったまま動けずにいた。


「トビアス! 手を離しなさい!」


フィオナの声が、轟音の向こうから響いた。


「糸が暴れてる! このまま握っていたら、身体が引き裂かれる!」


「離せば、道が閉じる」


トビアスの声は低く、掠れていた。


「そうなれば、イアンたちが——」


『見つけた』


また、あの声が降りてきた。


低く、平坦で、男とも女ともつかない。耳ではなく、胸の奥、《共食の刻印》のあたりから直接響いてくるようだった。


『最後の一人。最も深い魔力を持つ者。そして、最も多くを背負う者』


「誰だ」


トビアスは歯を食いしばった。


「何が、俺を呼んでいる」


『我は、門』


声が告げた。


『世界と世界の間に立つもの。渡る者に問いを課し、答えを量るもの』


石室にいた三人が、息を呑んだ。


ゼクセルが、車椅子の肘掛けを握りしめ、低く呟いた。


「……門の意思、か。古い文献にあった。条件の三つ目の『意思』は、ただ口にすれば足りるものではない。門が、その重さを量るのだと」


「陛下、ご存知で」


「半ば伝承だと思っていた」


ゼクセルは苦く笑った。


「だが、実在したか。——トビアス! 答えよ! 迷えば、糸が逸れる!」


トビアスは顔を上げた。


視界が白く染まっていく。足元の魔法陣が遠のき、フィオナの叫びが水の底のようにくぐもって聞こえなくなった。


   ◇ ◇ ◇


気がつくと、トビアスは白い空間に立っていた。


床も壁も天井もない。ただ、淡い光が静かに満ちている。足元に、一筋の細い道が、遥か彼方まで伸びていた。


その道の入口に、何かが立っていた。


人の形をしている。けれど、顔はなく、ただ輪郭だけが、陽炎のように揺らいでいた。


『問う』


声が告げた。


『お前は、何を置いていく』


トビアスは、静かに息を吸った。


「魔力を」


『それだけか』


「……何だと」


『お前が置いていくものは、魔力だけか』


輪郭が、ゆっくりと近づいてきた。


その手の中に、光る小さな塊が現れた。握り拳ほどの、赤黒い光。砕けた勇者紋の、最後の欠片のように見えた。


『これは、お前が背負ってきたもの。勇者という名。王国の期待。討伐の栄光。民の祈り』


光が、幾筋にも分かれて、トビアスの周りに浮かび上がる。


『お前はこの世界で、英雄と呼ばれる。留まれば、お前の名は永遠に語り継がれる。王は爵位を与え、民は花を撒く。お前は、世界で最も尊い者として、生涯を全うできる』


トビアスは黙って、光を見つめていた。


その光の中に、歓声が聞こえた。王都の大広場、祝賀の鐘、彼の名を呼ぶ無数の声。誰もが笑っていた。


『それでも、行くのか』


声が、静かに問うた。


『名も、地位も、力も、全てを手放して。魔力を持たない、何者でもない男として』


トビアスは、ゆっくりと目を閉じた。


胸の奥で、刻印が静かに脈打っている。


彼は思い出していた。


最初に食べた、理恵の粥のこと。腹に染みる温かさ。初めて、明日が来るのが楽しみだと思えた、あの朝のこと。


「……俺は」


声が、静かに空間に響いた。


「勇者と呼ばれるのが、嫌だった」


輪郭が、微かに揺れた。


「呼ばれるたびに、誰かの期待に応えなければならなかった。応えられなければ、価値がないと言われた。紋が命を握っていると知った時も、それが当然だと思った。俺は、道具だった」


『ならば、なぜ』


「あいつが、初めてだった」


トビアスは目を開けた。


「何者でもない俺に、『何が食べたい』と聞いてくれたのは」


静寂が落ちた。


「勇者でも、英雄でもない。ただのトビアスに、朝のごはんを作ってくれる人だ」


彼は赤黒い光に、真っ直ぐに視線を向けた。


「名は置いていく。地位も、力も、置いていく。全部、置いていって構わない。俺が持っていきたいのは、一つだけだ」


『それは』


「あいつの隣で、毎朝、同じ食卓につくこと」


声が、一瞬、止まった。


白い空間が、微かに震える。


『それは、願いか。覚悟か』


「どちらでもある」


トビアスは答えた。


「願いだから、行く。覚悟があるから、置いていく」


長い、沈黙があった。


やがて、顔のない輪郭が、ふっと、笑ったように見えた。


『……量った』


手の中の赤黒い光が、さらさらと砂のように崩れていく。それは光の粒となって宙に舞い、トビアスの胸元へ吸い込まれた。刻印が、柔らかく、強く、輝いた。


『お前の意思は、重かった。重く、温かく、澄んでいた。これまで量った誰よりも』


輪郭が薄れていく。


『行け。糸は、お前のために太く育てられた。お前が払う代価は、最後の道を作る』


「……ありがとう」


トビアスは、小さく呟いた。


『礼は要らぬ。ただ、一つだけ告げておく』


声が、遠ざかりながら響いた。


『向こう側で、お前を待つ者は、一人ではない。心して、渡れ』


白い光が、全てを包んだ。


   ◇ ◇ ◇


「トビアス!」


フィオナの叫びで、意識が戻った。


転界室の床の上だった。膝をつき、右手には糸の端を握ったままだ。光の柱は白く澄み、揺らぎはぴたりと止まっている。魔力炉の唸りも、低く安定した調子に戻っていた。


「……門に、量られた」


トビアスが呟くと、ゼクセルが深く頷いた。


「見ていた。お前の答えは、私にも聞こえた」


「陛下」


「立派な答えだった。——勇者などとは、とうに呼べぬ。お前は、一人の男として、立派に答えた」


ヴァルガが一歩進み出て、深々と頭を下げた。


「トビアス様。この数ヶ月、陛下の名代として、お供できたこと、光栄でございました」


「ヴァルガ」


トビアスは立ち上がり、彼に向き直った。


「陛下を、頼む」


「命に代えても」


その横で、フィオナが涙を拭いながら、陣の縁に立った。


「手順を、もう一度確認するわ」


声は震えていたが、手は確かだった。


「私が、魔力炉との接続を断つ。同時に、あなたが糸を引いて、向こうへ飛び込む。一拍遅れれば、道が開いたままになる。一拍早ければ、あなたが取り残される」


「分かっている」


「呼吸を、合わせるわよ」


トビアスは頷いた。


陣の中心に立ち、深く息を吸う。


ゼクセルが、車椅子の上から、静かに言った。


「トビアス」


「はい」


「あの娘に、伝えてくれ。——世話になった。ありがとう、と」


「必ず」


「そして」


ゼクセルは、微笑んだ。


「幸せになれ」


トビアスは、深く、深く頭を下げた。


顔を上げた時、彼の表情は、これまで誰も見たことのない柔らかさを湛えていた。


「行ってきます」


フィオナが叫んだ。


「今よ!」


彼女の両手が、陣から魔力炉への接続を切断する。同時に、トビアスは糸を力一杯に引いた。


世界が、反転した。


足元の魔法陣が、光の渦となって彼を呑み込む。耳をつんざく轟音。全身を貫く灼熱と冷気。胸元の刻印が、太陽のように輝いた。


(……理恵)


声にならない声で、呼ぶ。


身体の奥から、何かが引き剥がされていく。魔力、勇者の力、積み重ねてきた全てが、光の粒となって糸に溶けていく。痛みはない。ただ、ひどく軽く、心許なく、そして——自由だった。


(これで、いい)


遠ざかる転界室で、陣が静かに閉じていくのが見えた。フィオナの涙。ゼクセルの微笑。ヴァルガの敬礼。光の扉が、ゆっくりと、完全に閉じた。


最後の一瞬、道の向こうに、小さな光が見えた。


橙色の、暖かい灯り。


どこか懐かしい、出汁の匂いのような——。


   ◇ ◇ ◇


草の匂いがした。


湿った土と、夜露を含んだ草の匂い。遠くで、聞き慣れない低い唸りが途切れ途切れに通り過ぎていく。それに混じって、虫の声。見上げると、空には大きな月が浮かんでいた。


トビアスは、冷たい芝生の上に仰向けに倒れていた。


息を吸う。肺に入る空気が、驚くほど澄んでいて、そして、どこか薄かった。魔力の気配が、一切ない。身体の中が、からっぽになったように静かだった。


胸元に、そっと手を当てる。


刻印は、まだ微かに青く光っていた。


「……着いた」


呟いた時、足音が近づいてきた。


草を踏む、小さな足音。誰かが、息を切らして駆けてくる。


トビアスはゆっくりと身体を起こした。


月明かりの中、細い柱の先に灯る白い光の下に、一人の女性が立っていた。


見慣れない形の上着の肩が揺れている。片手には、淡く青い光を宿した石を握りしめている。ほどけかけた髪が、夜風に揺れていた。


その人は、息を整えるのも忘れたように、ただ、こちらを見つめていた。


「……トビ、アス?」


震える声が、夜気を裂いた。


トビアスは、静かに立ち上がった。


胸の刻印が、これまでになく強く、優しく、輝いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。