第113話 夜の河川敷、降ってくる五人と言えなかった本当のこと
水曜の夜の空気は、少しだけ冷たかった。
会社を出たのは二十二時過ぎ。コンビニの袋をぶら下げて帰宅し、玄関の鍵を回し、靴を脱いだところまでは、いつもと同じだった。けれど部屋の灯りをつけた瞬間、理恵は鞄の底が熱を持っていることに気づいた。
「……え?」
慌てて鞄を開けると、想起の魔石が青い光を放っていた。
今までの穏やかな明滅ではない。心臓の鼓動のように強く、速く、石の表面に白い線が蜘蛛の巣のように走っている。線は部屋の壁に影を落とし、窓の方向へ、細く長く引かれていた。
「どこ……? どっちに行けばいいの?」
石を握りしめ、窓を開ける。
夜風が頬を撫でた。川の匂いがした。アパートから歩いて五分ほどの場所に、広い河川敷の公園がある。線は、まっすぐそちらを指していた。
「迎えに、来てくれたの?」
呟く声が震えた。
理恵はコンビニの袋を玄関に放り出し、パンプスを脱ぎ捨てて、買ったばかりのスニーカーに足を突っ込んだ。鍵だけを握って、部屋を飛び出した。
◇ ◇ ◇
河川敷の公園は、闇に沈んでいた。
土手を駆け降りると、湿った草の匂いが濃くなる。刈ったばかりの芝生が、足元でさくりと鳴った。虫の声が、波のように寄せては引いていく。川面は街の灯りを細かく砕いて、ゆらゆらと揺れていた。
石の光は、ますます強くなっている。
「あ……」
広場の真ん中、背の低い街灯の下に、誰かが倒れていた。
灰色の髪。見慣れた眼鏡。膝を抱えるように丸まった長身の男が、夜露に濡れた芝生の上で、ぐったりと動かずにいる。
「イアン!」
駆け寄って膝をつき、肩を揺する。
「イアン、イアンってば! しっかりして!」
「……うるさい」
聞き慣れた掠れ声が、返ってきた。
イアンはゆっくりと目を開け、焦点の合わない視線を理恵に向けた。眼鏡のレンズに、月が小さく映っている。
「……理恵か」
「そう! 私だよ!」
「……そうか。着いたんだな」
イアンは、苦しげに息を吐きながら、ふっと口元を緩めた。
「予測より、五分遅れた。ここの座標の補正を、見誤った」
「そんなこと今どうでもいいでしょ! どこか痛いの?」
「痛くはない。ただ、頭が……軽すぎて、平衡感覚が合わない」
イアンは額に手を当て、小さく唸った。
「魔力が全部抜けると、こうなるのか。初めての経験だ。《魔力酔い》と呼ぶべきかもしれない」
理恵の胸が、きゅっと冷えた。
「……魔力が、全部、抜けた?」
「ああ」
イアンはあっさりと頷いた。
「門を越える時に、剥離される。知っていたんだろう、お前は」
「それは……」
理恵は言葉を失った。
「でも、なんで。なんで来たの。知ってるなら、どうして」
「お前が黙っていたから、俺たちは自分で調べた」
イアンの灰色の瞳が、理恵をまっすぐに見据えた。
「ルークから聞いた。お前は、俺たちに選ばせたくなかった。……だが、それは違う。選ぶのは、俺たちだ」
「イアン……」
「お前が決めることじゃない」
静かな言葉だった。
理恵の視界が、じわりと滲んだ。
「ばか」
絞り出すように、言った。
「ばか、ほんとに、ばか。魔術が好きだったでしょ。研究が全部だったでしょ」
「今も好きだ」
イアンは、眼鏡を押し上げようとして、指先が震えていることに気づき、苦笑した。
「だが、ここには、魔力とは別の法則がある。電気。光。通信。……さっき見上げた、あの柱の上の灯りも、魔術ではないんだろう?」
「え……うん、街灯だけど」
「ガイトウ」
イアンは、その単語を舌の上で転がすように繰り返した。
「面白い」
理恵は、思わず笑い出してしまった。涙がこぼれた。
「ほんっと、ばかなんだから」
その時だった。
広場の隅で、空気が震えた。
淡い光の粒が舞い上がり、芝生の上に人影を描いていく。薄桃色の髪が、風になびいた。
「あ……理恵さん」
穏やかな声が、夜気に響いた。
「コリンくん!」
駆け寄ろうとして、理恵は足を止めた。
コリンは、一歩踏み出そうとして、よろけたのだ。慌てて理恵が腕を支えると、彼は子供のように、照れくさそうに笑った。
「すみません。足元が、ふわふわして」
「大丈夫? 座って、座って」
「はい。……ああ、本当に、理恵さんだ」
コリンの瞳が、みるみる潤んでいく。
「夢じゃ、ないんですね」
「夢じゃないよ」
「良かった。……すごく、会いたかったです」
彼は、ふにゃりと笑って、そのまま理恵の肩に額を預けた。堪えていた涙が、ぽろぽろと落ちる。
「僕、ちゃんと、笑って見送ったつもりだったんです。でも、本当は、毎晩、泣いてました。……今度は、嬉し涙ですね」
「うん……うん」
理恵は、コリンの背中を撫でた。
「ありがとう、来てくれて」
「僕の方こそ、です」
◇ ◇ ◇
それから、ルークが降ってきた。
比喩ではなく、文字通り降ってきた。光の粒が収束した瞬間、巨体が地面から一メートルほどの高さに現れ、ドスン、と重い音を立てて尻餅をついたのだ。
「いってえ!」
「ルーク! 大丈夫!?」
「大丈夫じゃねえ! 尻が割れた!」
怒鳴りながらも、ルークの顔は笑っていた。日焼けした頬を緩め、丸めた紙束を胸に抱えたまま、彼は理恵を見上げた。
「よお、理恵。しばらくぶりだな」
「たった数日でしょ!」
「俺には一年くらいに感じたぜ」
彼は立ち上がろうとして、またふらつき、イアンの隣に座り込んだ。
「ちっ、身体強化がねえと、立つのもひと苦労だ。こんなに地面が遠いとは思わなかった」
「ルーク……」
理恵は言いかけて、唇を噛んだ。
「ごめん。ごめんね。私、黙って帰ったから」
「謝るな」
ルークが、低く遮った。
「お前は、俺たちを巻き込みたくなかった。それは分かってる。けどな」
彼は理恵の目を、真っ直ぐに見つめた。
「俺たちは、自分で選んで、ここに来た。お前が気に病むことじゃねえ」
「でも」
「でももヘチマもねえ。……ほら、見ろ」
彼は抱えていた紙束を、芝生の上に広げた。月明かりの下、ところどころ染みのついた羊皮紙に、見覚えのある図面が描かれている。
「作業台の設計図だ。お前の台所に据えるって、約束したろ」
理恵の胸が、いっぱいになった。
「……覚えててくれたの」
「忘れるかよ」
ルークは照れくさそうに鼻をこすった。
「ここの木材は、手に入るのか?」
「ホームセンターに行けば、あるよ。たぶん」
「ホームセンター」
ルークも、その単語を繰り返した。イアンと同じ表情で。
「この世界の言葉は、面白えな」
その時、また空気が震えた。
光の粒が収束し、細身の影が形を成す。
芝生を踏む音がして、軽い足取りの影が近づいてきた。
「やあ、理恵ちゃん。久しぶり」
メルだった。
乱れた髪を片手でかき上げ、いつもの飄々とした笑みを浮かべている。足元はまだ少しふらついているのに、立ち姿だけは気取って、芝生の上で大げさに両手を広げてみせた。
「ここが理恵ちゃんの世界か。地面が硬いし、空気が薄いし、何より、魔力の匂いが全然しない。……ほんとに、何もないんだね」
「メル……」
「あ、そうそう。着地、僕が一番上手かったと思わない? ルークみたいに尻餅はついてないし、イアンみたいに伸びてもいないし」
「誰が伸びてたって?」
イアンの低い声が、芝生から飛んだ。
「事実でしょ」
軽口を叩き合う二人を見て、理恵は思わず笑った。笑いながら、気づいてしまった。
メルの笑顔が、少しだけ、強張っている。
目元が赤い。口の端が、笑いの形のまま、ほんのわずか震えている。
「……メル」
「ん?」
「ゼクセルさんは?」
メルの笑みが、一瞬、止まった。
「……元気だよ」
軽い声のまま、彼は言った。
「僕の魔力を、全部受け取って、すっかり顔色が良くなった。ヴァルガが泣きそうな顔で喜んでた。だから、心配いらない」
「そっか」
「それとね」
メルは視線を逸らし、夜空を見上げた。
「兄さまが、理恵ちゃんにありがとうって。そう伝えてくれ、って」
声が、掠れた。
メルは慌てて咳払いをして、肩をすくめた。
「いやあ、まいったな。目に、虫が入っちゃったみたい」
「……うん」
理恵は何も言わず、メルの隣に並んで、同じ夜空を見上げた。
しばらく、二人とも黙っていた。
やがて、メルが小さく息を吐いた。
「ねえ、理恵ちゃん」
「なに?」
「僕、ちゃんと笑えてる?」
「……うん。ちょっとだけ、下手だけど」
「そっか」
メルは笑った。今度は、飾りのない、少し情けない笑顔だった。
「後で、粥、食べさせてよ。もう一杯、って決めてたんだ」
「うん。いくらでも作るよ」
頬を伝う一筋を、メルは見ないふりをして袖で拭った。理恵も、見なかったことにした。
四人が、芝生の上で、互いに寄り添っていた。
夜風が吹き、遠くで電車の音が通り過ぎていく。月が雲間から顔を出し、五人の影を長く伸ばした。
◇ ◇ ◇
理恵は、袖で涙を拭いて顔を上げた。
「そうだ、みんな。着替えとか、泊まるところとか、どうしよう。私のアパート、1DKだし、六人は——」
言いかけて、気づいた。
数えた人数が、合わない。
「……あれ?」
四人。ここにいるのは、四人だ。
「トビアスは?」
返事は、すぐには返らなかった。
イアンが、ゆっくりと口を開いた。
「最後だ」
「最後?」
「門を閉める役目だ。あいつが、自分で選んだ」
理恵の心臓が、どくんと鳴った。
その時、握っていた想起の魔石が、これまでにない強さで輝いた。
眩しい白い光が、広場の向こうを照らした。理恵の身体が、勝手に動いていた。石の光が指し示す方向へ、足が走り出す。
「理恵! 待て!」
ルークの声が、背後で遠ざかった。
草を蹴り、土手の影を抜け、街灯の下へ。
そこに、人影が一つ、芝生の上に起き上がろうとしていた。
黒い髪。広い肩。見慣れた外套の裾。
胸元から、青い光が漏れている。
理恵の足が、止まった。
息が、出来なかった。
「……トビ、アス?」
自分の声が、ひどく震えているのが分かった。
彼は、ゆっくりと立ち上がった。月明かりの中、こちらを見つめる瞳は、これまでに見たことのないほど、穏やかで、澄んでいた。
「理恵」
名前を呼ばれた。
たった、それだけで、世界の音が消えた。
「……本当に、来たんだ」
「ああ」
「魔力、全部、なくなっちゃったんだよ。勇者じゃ、なくなったんだよ」
「構わない」
トビアスは、静かに一歩、近づいた。
「俺は、お前に、答えを持ってきた」
「……答え?」
「お前が、聞いただろう。『明日の朝は何が食べたい』と」
理恵の目から、堰を切ったように涙が溢れた。
あの夜明け、別れ際に残した置き手紙。返事を聞かないまま帰ってきた、小さな問い。
トビアスは、彼女の目の前に立った。
月が、二人の影を一つに重ねた。
「聞いてくれるか」
「……うん」
理恵は、涙で霞む視界の中で、頷いた。
トビアスが、息を吸った。
「明日の朝は——」




