第114話 何でもいい朝の答えと、1DKに集まった六人のカレー
街灯の白い光が、芝生の上に二人の影を長く落としていた。
夜風が川面を撫でて土手を駆け上がり、刈草の青い匂いを運んでくる。遠くの高架を、電車が光の帯になって通り過ぎていった。虫の声は途切れず、その合間に、理恵の乱れた呼吸だけが聞こえる。
トビアスは、すぐには口を開かなかった。
目の前の理恵を、ただ見ていた。夜気で乱れた髪。泣き腫らした目。握りしめた想起の魔石の青い光が、彼女の頬を淡く照らしている。その全部を、胸の奥の一番深いところに刻み込むように。
「……明日の朝は」
もう一度、言った。
声が少しだけ、掠れた。
「あんたが作るなら、何でもいい」
理恵の瞳が、大きく見開かれた。
「それが、答えだ」
「え……」
「献立の希望じゃない。決めたくないんでもない。何を出されても、あんたの作ったものなら、俺は食べる。明日の朝も、その次の朝も」
トビアスは、そこで一度言葉を切り、ゆっくりと息を吸った。
「毎日、これでいい」
静寂が、二人の間に落ちた。
理恵の唇が、わなないた。何か言おうとして、言葉が出てこない。代わりに、涙が一粒、また一粒と頬を滑り落ちた。
「……それ、答えになってないよ」
ようやく絞り出した声は、泣き笑いに近かった。
「何が食べたいか、聞いたのに」
「分かっている」
「肉とか、魚とか、卵とか、あるでしょ」
「ない」
トビアスは、静かに首を振った。
「何を食べるかより、誰が作るかだ。……あんたの飯が、俺の朝を決める」
理恵は両手で顔を覆った。肩が小刻みに震えている。指の隙間から、笑い声とも嗚咽ともつかない音が漏れた。
「ずるい」
「何がだ」
「そんなの、ずるいよ。……私、何時間もかけて、いろんな答えを想像してたのに」
「すまない」
「謝らないで。……嬉しいの」
理恵は顔を上げ、涙に濡れた目でトビアスを見つめた。
「何でもない朝ごはんで、いいんだね」
「ああ。それがいい」
トビアスは、ゆっくりと手を伸ばした。
理恵の頬に触れる寸前で、指が止まる。ためらうように、ほんの少し震えて、それから、指の背でそっと涙を拭った。
大きな手は、驚くほど温かかった。
「ゼクセル様から、伝言を預かっている」
「うん」
「世話になった。ありがとう、と」
理恵の目から、また涙が溢れた。
「……うん。ちゃんと、受け取った」
◇ ◇ ◇
「おーい、もういいかー?」
土手の上から、ルークの大声が降ってきた。
見ると、四人が芝生の斜面に並んでこちらを覗き込んでいる。イアンは腕を組み、コリンは頬を緩め、メルは口元を押さえて肩を揺らしていた。
「あんた達、いつから……」
「最初から見てたぞ」
ルークが堂々と胸を張った。
「いやあ、いい答えだったな、トビアス。『何でもいい』か。俺なら、三日は悩む」
「うるさい」
トビアスの耳が赤くなった。
「でも、理恵さんのお顔を見たら、僕たちが出る幕じゃないって、すぐ分かりました」
コリンが穏やかに言うと、メルが続けた。
「僕はてっきり、トビアスがもっとこう、物語みたいに長々と喋ると思ってた。意外と、ストレートだったね」
「全部聞かれていたのか」
「大体ね」
トビアスは額を押さえて空を仰いだ。
理恵は涙を拭いながら、思わず声を上げて笑った。
「もう……みんな、ほんとに」
「で、理恵」
イアンが、冷静な声で割り込んだ。
「感動の再会の後で悪いが、現実的な問題がある」
「え?」
「俺たちは、今、深夜の屋外にいる。住居がなく、通貨もなく、衣服は明らかに周囲と異なる」
彼は自分の外套の裾をつまんで見せた。確かに、五人の服装は、夜の河川敷にはあまりに不似合いだった。
「通報される危険性が高い」
「あ……」
理恵はさあっと青ざめた。
「そうだった。どうしよう。誰かに見つかったら、警察呼ばれちゃう」
「ケイサツ」
「えっと、この世界の、衛兵みたいなもの」
「なるほど」
イアンは頷き、素早く周囲を見回した。
「ならば、人目につかない経路で移動するべきだ。理恵の住居までの距離は」
「歩いて五分。……でも、ワンルームの、1DKで」
「ワン……」
「一部屋と台所だけ。六人は、絶対入らない」
「入れる」
ルークがきっぱりと言った。
「詰めれば、入る」
「無理だってば!」
「戦場の野営に比べりゃ、屋根があるだけ天国だ」
「それはそうだけど……」
理恵は頭を抱えたが、すぐに顔を上げた。
「とにかく、今夜は私の部屋に来て。明日のことは、明日考える」
「異論はない」
トビアスが短く言った。
◇ ◇ ◇
深夜の住宅街は、静まり返っていた。
理恵が先頭に立ち、五人を引き連れて裏道を進む。外套の裾が風に翻る六人組は、はたから見ればどう見ても怪しい一団だった。電柱の影に隠れ、曲がり角で様子を窺い、理恵が手招きするたびに、全員が忍び足で走る。
「理恵、あの箱は何だ」
イアンが路地の角を指さした。
淡い光を放つ四角い箱が、闇の中に立っている。
「自動販売機。お金を入れると、飲み物が出てくるの」
「自動で? 誰が箱の中で作っているんだ」
「誰も作ってないよ。冷えたのが中に入ってるだけ」
「……意味が分からない」
イアンが眉をひそめて箱を睨みつけた。ルークは感心したように腕を組んだ。
「夜通し冷たい飲み物が出るのか。便利だな。うちの店にも置きてえ」
「置かないで」
「理恵ちゃん、あの建物、夜なのに昼みたいに明るいよ」
メルが目を輝かせて、コンビニの方を指さす。
「あれはコンビニ。二十四時間やってるお店。……あ、ちょっと寄ってもいい? お米と、卵と、牛乳も欲しい」
「理恵さん、猫がいます。塀の上に」
コリンが、塀の上を指さした。
月明かりの下、白い猫が丸くなってこちらを見ている。コリンが近づくと、猫は逃げずに、ゆっくり瞬きをした。
「可愛いですね」
「コリンくん、お願いだから目立たないで」
「はい」
コリンは名残惜しそうに猫に手を振り、列に戻った。
コンビニでは、理恵がカゴに食材を放り込んでいく間、五人は店の外で壁に張り付いて待たされた。店員が窓越しに怪訝そうな顔を向けたので、理恵は慌てて会計を済ませ、大きな袋を両腕に抱えて飛び出した。
「ごめん、お待たせ! 早く、行こう!」
「理恵」
トビアスが、袋に手を伸ばした。
「持つ」
「え、でも」
「重いだろう」
言うが早いか、彼は袋を二つとも軽々と持ち上げた。
けれど、一歩踏み出した瞬間、彼の顔がわずかに歪んだ。
「……重いな」
「え?」
「こんなに重かったか、この荷物は」
「トビアス、魔力がなくなったんだよ。身体強化がない分、普通の人と同じになったの」
「そうか」
トビアスは自分の掌をしばらく見つめ、それから、ほんの少し笑った。
「悪くない。重さが、実感できる」
その横顔を、理恵は黙って見つめていた。
◇ ◇ ◇
築十五年の小さなアパートの二階、一番奥の部屋。
鍵を回して扉を開けると、見慣れた玄関の匂いがした。洗剤と、昨夜の味噌汁と、少しだけ埃の混じった、自分の部屋の匂い。
「どうぞ。靴は、脱いで」
「靴を脱ぐ」
「うん。ここでは、そういうものなの。床に座るから」
六人は順番に靴を脱ぎ、狭い廊下を進んだ。ダイニングキッチンと、襖で仕切られた六畳の部屋。ローテーブルを端に寄せても、全員で座ると、肩と肩が触れ合うほどの距離になる。
「……近いな」
ルークが膝を折り曲げて、窮屈そうに言った。
「戦場の野営より近い」
「だから言ったでしょ」
「いや、悪かねえ。むしろ、落ち着く」
イアンが部屋を観察していた。壁のコンセント。天井の蛍光灯。冷蔵庫の唸り。炊飯器のデジタル表示。
「全て、魔力なしで動いているのか」
「そう。電気っていうのが、動力なの」
「後で、詳しく聞かせてもらう」
「うん、いくらでも」
理恵はエプロンを締め、台所に立った。
冷蔵庫を開ける。半端なじゃがいもと、人参と、玉ねぎ。コンビニで買ったばかりの豚バラのパック。棚の奥に、カレールーの箱が一つ。
「……そうだ」
理恵は、箱を手に取って、しばらく見つめた。
向こうでは、スパイスから調合して、何種類もの香辛料を試して、結局、満足のいく味にならなかった。それがここでは、割って入れるだけで、あの香りが出る。
「みんな、お腹空いてる?」
「すいてる」
五人の声が、見事に揃った。
「じゃあ、今夜は、カレーにしよう」
「カレー」
トビアスが、その言葉を繰り返した。
「前に、あんたが話してくれた」
「うん。私の世界の、定番の料理。……ちょっと待ってて」
まな板を出し、包丁を握る。玉ねぎの皮を剥くと、鼻の奥がつんとした。涙が滲んだのは、玉ねぎのせいだけではなかった。
「理恵さん、僕に何かお手伝いできることは」
コリンが台所の入口から顔を覗かせた。
「ありがとう。でもね、台所は一人用の広さなの。三歩歩いたら壁だから」
「確かに、僕が入ったら、動けなくなりそうです」
「だから、料理は私に任せて。みんなは、向こうで座って待ってて」
「俺は何もしなくていいのか」
トビアスが、六畳間の側から低く言った。膝の置き場に困るように、窮屈そうに正座している。
「後片付けをお願いしてもいい? お皿を洗うの、手伝ってほしいな」
「分かった」
トビアスはほっとしたように頷いた。
襖を開け放した六畳間から、四つの視線が、台所の理恵の背中に注がれていた。
「米は、水の量が大事なんだろ?」
ルークが炊飯器を指さす。理恵は振り返らずに答えた。
「目盛りに合わせてあるから大丈夫。あとは、ボタンを押すだけ」
「ボタンを、押すだけ」
「それが一番すごいんだけどね」
イアンは、取り出した小さな石を卓上に置いて、台所の様子を黙って記録していた。想起の魔石ではない。魔力を失った後も、波長で動く石だ。
「理恵、今のは火を使っていないのか」
「ガスコンロ。ガスっていう燃える空気が、管を通って来てるの」
「管で、燃える空気を」
「うん。栓をひねると出る」
「……仕組みを聞くのは、後にしよう」
イアンはそう言いつつも、記録の手を止めなかった。
じゅう、と豚バラが鳴った。玉ねぎがしんなりして、甘い匂いが部屋に広がる。人参とじゃがいもを加え、水を注ぎ、鍋に蓋をする。アクを取りながら待つ間、理恵は背中に視線を感じて、そっと肩の力を抜いた。
狭い台所に一人で立つのは、帰ってきてからの毎日と同じなのに、背後に気配があるというだけで、まるで違って感じられた。
ルーを割り入れると、湯気の中に甘く深い香りが広がった。
「いい匂い……」
メルがうっとりと目を閉じた。
「これが、理恵ちゃんの世界の匂い」
「うん。ちょっと、安っぽい匂いだけどね」
「そんなことない。すごく、あったかい」
◇ ◇ ◇
深夜一時。
六畳間の真ん中に置かれた小さなローテーブルを、六人が囲んでいた。
皿の数が足りなかったので、大皿と鍋のまま持ち寄ったものと、マグカップと、どんぶりと、紙皿まで総動員した。スプーンは三本しかない。フォークと箸と、レンゲまで、手当たり次第に並べた。
「いただきます」
理恵が両手を合わせると、五人がぎこちなく真似をした。
「イタダキマス」
「それ、ここの作法か」
「うん。食材と、作ってくれた人への、お礼の言葉」
最初に口をつけたのは、ルークだった。
大きな口でスプーンを突っ込み、咀嚼して、動きが止まる。
「……」
「どう? 辛すぎた?」
「うめえ」
低い声が、震えていた。
「なんだこれ。香辛料の匂いが、鼻に抜けて。肉が、とろけて。飯と合う。……うめえ」
「ルーク、泣いてる」
「泣いてねえ」
「泣いてるよ」
「玉ねぎだ」
「玉ねぎはもう入ってるよ」
メルの冷静な指摘に、ルークは顔を背けた。肩が小刻みに震えている。
コリンはスプーンを持ったまま、湯気を見つめていた。
「理恵さん」
「ん?」
「今の僕、魔力がないのに、すごく満たされてます」
静かな声だった。
「向こうでは、理恵さんのご飯を食べると、魔力が巡って、身体が温まる感覚がありました。でも、これは違う。魔力じゃなくて……もっと、身体の奥の、芯の方が、ほどけていく感じです」
「うん」
「これが、ただの食事なんですね」
「そうだよ。何でもない、ただのカレー」
コリンは微笑み、一口、またひと口と、ゆっくり味わった。
イアンは黙々と食べながら、ふと手を止めた。
「理恵」
「なに?」
「刻印が」
彼は自分の胸元を押さえていた。
「光が、弱くなっている」
理恵は、はっとした。
見ると、コリンも、ルークも、メルも、それぞれ胸元に手を当てている。夜の闇に浮かんでいた青い光が、スプーンを動かすごとに薄れていくのが、シャツ越しに分かった。
「《共食の刻印》は、理恵の波長を道標にして、門を越えるためのものだ」
イアンが静かに言った。
「役目が終わったら、光が消えていくんだろう。……おそらく、完全に消えた時、俺たちは本当に、ただの人間になる」
「それって」
「悪いことじゃない」
イアンは、小さく笑った。
「刻印という名の鎖から、解放されるということだ。ここから先は、波長ではなく、自分の足で、お前の隣に立つ」
最後の青い光が、四人の胸元から、すうっと消えていった。
そして、トビアスの胸元からは、まだ微かに、青い光が洩れていた。
「……あれ」
メルが気づいた。
「トビアスの、まだ光ってる」
トビアスは、自分の胸に手を当てた。
確かに、薄く、けれど確かに、光が脈打っている。
「なぜだ」
「俺にも分からん」
イアンは眼鏡を押し上げ、トビアスの胸元をじっと見つめた。
「ただ、お前の刻印は、他の四人とは、違う何かを宿しているのかもしれない」
「違う、何か」
「後で調べる。今夜は、食え」
「……ああ」
トビアスは、静かにスプーンを口に運んだ。
甘辛い、ありふれた、家庭のカレーの味だった。
一口、また一口。ゆっくりと咀嚼して、飲み込んで、彼はふっと息を吐いた。
「理恵」
「うん」
「これが、いい」
短い言葉だった。
けれど、理恵には、その全てが伝わった。
「うん。……私もだよ」
六畳間に、スプーンの音と、息を吐く音と、小さな笑い声が満ちていた。
窓の外では、夜がゆっくりと更けていく。冷蔵庫が唸り、炊飯器が保温に切り替わる電子音を鳴らした。
理恵は、湯気の向こうの五人の顔を、一人ずつ見渡した。
こんなにたくさんの人と、同じ食卓を囲んでいる。
それだけで、胸がいっぱいになった。
◇ ◇ ◇
食後、台所に立ったのは、理恵とトビアスとコリンの三人だった。
「ここを、ひねる」
理恵が蛇口のレバーを持ち上げると、水がざあっと流れ出た。
「水が、管から出てくる」
コリンが目を丸くした。
「井戸から汲まなくていいんですか」
「うん。全部の家に、水が通ってるの。こっちが水で、こっちを動かすとお湯が出る」
「お湯まで」
トビアスは恐る恐る指を水流に差し出し、それから、レバーを少し横へ動かした。お湯に変わった瞬間、彼の肩がぴくりと跳ねた。
「温かい」
「でしょ。冬でも、手が冷たくならないの」
「……便利すぎる」
「でしょ」
理恵がスポンジに洗剤を垂らして皿をこすり、トビアスが受け取ってすすぐ。コリンが布巾で拭いて重ねていく。三人の動きは、向こうの世界の厨房にいた頃と、不思議なほど変わらなかった。
「こうしていると」
コリンが、皿を拭きながらぽつりと言った。
「向こうに戻ったみたいですね」
「ああ」
「でも、違います」
「うん」
理恵は小さく頷いた。
シンクの脇に置いたスマートフォンが、短く震えたのは、その時だった。
理恵は濡れた手を拭いて、画面を覗き込んだ。
『お母さん:明日そっち寄るから。新米持ってく。朝の電車で着くよ』
指が、凍りついた。
「……え?」
もう一度、読み返す。
新米。明日。朝。
背後で、六人分の寝息混じりの笑い声が聞こえる。畳の上に敷かれた布団の数が足りなくて、床に直接丸まっているルークの大きな背中が見えた。
「うそ、でしょ」
理恵は、カウンターに手をついて、天を仰いだ。
「お母さん、明日の朝、ここに来るの……?」




