第115話 新米と、母の来る朝と、閉じきらない門
カーテンの隙間から、薄い灰色の光が畳に細い線を引いていた。
遠くで、ゴミ収集車の低いエンジン音が唸っている。それを追いかけるように、ベランダの手すりで雀が二羽、せわしなく鳴き交わした。い草の乾いた匂いに、昨夜のカレーの甘辛い名残が染みついて、六畳の空気はまだ夜のぬくもりを抱いたままだった。
理恵は、毛布の中で目を開けた。
目覚ましは鳴っていない。ごはん係だった頃の体内時計が、この世界に戻ってもまだ生きているらしい。天井の染みを見上げて、数秒、ぼんやりと考える。
——夢、じゃない。
首をひねると、すぐそこに、人の寝息があった。
ルークは六畳間の対角線いっぱいに大の字になって、足の先を台所の板の間へはみ出させている。布団には最初から入っておらず、上着を丸めて枕にしていた。その隣では、メルが来客用の布団を半分蹴飛ばし、座布団を抱えて眠っている。長い手足を持て余したように、片膝だけが布団の外に出ていた。
コリンは部屋の隅で、バスタオルを幾重にも重ねた上に丸くなっていた。一番薄い毛布を、顎まで引き上げて。
理恵は、そっと起き上がった。
その足元の、襖の脇の壁際に、人影が座っている。
トビアスだった。
壁に背を預け、毛布を膝にかけて、目を開けている。入口がまっすぐ見える位置だ。旅の間、野営のたびに、彼がいつも選んでいた場所だった。
「……寝た?」
理恵は声を落として訊いた。
「少しな」
「布団、あったのに」
「ここなら、扉が見える」
「ここ、日本のアパートだよ。扉の外は、廊下」
「分かっている」
トビアスは短く答え、ほんの少しだけ口の端を動かした。
「癖だ。……すぐには、抜けない」
理恵は小さく笑って、頷いた。
抜けなくていい、と思った。抜けるまで、ここで何度でも朝を迎えればいい。
窓際に目をやると、もう一つの影があった。
イアンが、座布団の上で胡座をかいていた。膝の上には、掌ほどの真鍮の円盤。魔力残量計だ。針が一本、薄闇の中でかすかに揺れている。
◇ ◇ ◇
「起きてたの、イアン」
台所のシンクで手を洗ってから、理恵はそっと窓際へ寄った。
「寝てない」
イアンは眼鏡の奥の目を円盤から離さずに言った。
「ずっとここで、測っていた」
「何を?」
「全員の残量だ」
イアンは円盤を、理恵の方へ傾けた。
ガラス面の下で、針は盤の左端、零の目盛りのところに張りついていた。
「俺は零。コリンも零。ルークもメルも零。剥離のあとの状態としては、予想通りだ。この世界には、魔力を回復させる源がない。俺たちの体は、ただの——いや、すまん、ただの人間の体だ」
「ただの人間でいいよ」
「ああ。それは、いい」
イアンは短く言って、円盤の縁を指で叩いた。
「問題は、そっちだ」
彼の視線が、壁際のトビアスへ向いた。
トビアスは何も言わず、毛布の下から、シャツの襟元を指で引いた。
胸の中央に、青白い光が灯っていた。
昨夜、食卓で見たのと同じ光だった。ただ、夜明け前の薄闇の中では、それは驚くほどはっきりと見えた。常夜灯のように小さく、けれど消える気配もなく、一定の間隔で、ゆっくりと明滅している。
「共食の刻印」
理恵は思わず呟いた。
「他の四人は、消えたんだよね。昨夜、カレーを食べてる間に」
「消えた」
イアンは頷いた。
「共食の刻印は、本来、理恵の固有魔力波長に追従する紋だ。理恵が魔力を持たず、この世界で波長の元が空になった以上、追従先を失って消えるのが自然な挙動だ」
「でも、トビアスのは消えてない」
「そうだ。つまり」
イアンは、一度言葉を切った。
「あれは今、理恵以外のどこかに追従している可能性がある」
「理恵以外の、どこか……?」
「分からん。仮説はある。だが、確かめるまでは言わない。外れたら、お前を無駄に不安にさせるだけだ」
そう言いながら、イアンの指先は、円盤の縁を落ち着きなく叩き続けていた。
理恵は、その手を見た。
いつもなら、結論が出る前には口を開かない人だ。それでも今朝は、仮説があることだけを、先に差し出してくれた。
「……話してくれて、ありがとう」
「別に」
イアンは目を逸らした。
「知らせずに黙っているのは、違うと思っただけだ」
それから、声をさらに低くして続けた。
「もう一つある。午前三時十二分に、これが反応した」
イアンが懐から取り出したのは、小指の先ほどの、薄緑の石だった。
「遠話の魔石か」
トビアスが身を起こした。
「そうだ。ただし、お前に渡した片割れじゃない」
イアンは石を畳の上に置いた。
「道標の途中で、糸が揺れた時に連絡できるよう、予備の対を、もう一つ作っておいた。片方は俺が持っている。もう片方は、フィオナ室長に預けてある。魔力炉の脇の、いつもの席にな」
「室長の石が、反応した?」
「いや。室長の石はこちらの世界に届くはずがない。門は閉じた。魔力炉の供給も切った。糸は、トビアスが最後に引き込んだ。……はずなんだが」
石の表面が、ごく淡く、白い光を宿して、ふっと揺れた。
「三時十二分に、三秒だけ。誰も握っていないのに、勝手に震えた。向こうから、波が一本、細く届いた感触があった」
沈黙が落ちた。
冷蔵庫が唸る音だけが、台所の方から聞こえていた。
「……トビアス」
理恵は、壁際の彼を見た。
「門を閉じるとき、何か、変なことはなかった?」
トビアスは、しばらく黙っていた。
視線が宙をさまよい、昨夜の暗闇を辿るように、ゆっくりと細まる。
「最後の糸を引き込んだ時」
やがて、低い声で言った。
「指に、何かが絡んだ。細い、髪の毛一本ほどのものだ。振り払おうとして、その時にはもう、門が閉じていた。気のせいだと思った」
「気のせいじゃなかったかもな」
イアンが静かに言った。
「閉じきっていない、ということ?」
「断定はしない。髪の毛一本ぶんの隙間が、かろうじて残っている可能性、とだけ言っておく。人は通れない。物も通れない。だが」
イアンは石を握り込んだ。
「波なら、通るかもしれない」
理恵は息を吸って、吐いた。
怖くないと言えば、嘘になる。けれど、不思議と、足が竦む感じはしなかった。
昨夜、あの川沿いの公園で、全員が目の前に立っていた。それを知っているだけで、背中の芯が、一本通ったようだった。
「危ないものなの?」
「今のところは、害はない。刻印の光は、俺たちの誰の体も損なっていない。ただ、閉じたはずのものが閉じていないなら、その理由を知っておきたい」
「うん。……私も知りたい」
「だから、調べる。時間をくれ」
「いいよ。時間なら、これからたくさんあるから」
理恵が言うと、イアンは一瞬だけ目を丸くして、それから、わずかに口元を緩めた。
「そうだったな」
その時、六畳間の対角線上で、大きな欠伸が響いた。
「……なんだぁ。朝かよ」
ルークだった。
のそりと上体を起こし、頭をがしがしと掻いてから、自分の両手を見下ろす。
「おい。なんか、体がすかすかするぞ。軽すぎて、落ち着かねえ」
「魔力酔いの後遺症だ」
イアンが即座に答えた。
「剥離のあとは、体が余計な重さを失ったように感じる。三日もすれば、慣れる」
「慣れる前に飯だ。腹が減った」
「お前はそれしか言わんのか」
「それしか要らねえだろ、朝は」
ルークは悪びれもせず笑った。その笑い声に、メルが「うるさいなあ……」と寝返りを打ち、コリンがもぞもぞと毛布から顔を出した。
理恵は、思わず吹き出してしまった。
窓の外の灰色が、ほんの少しずつ、白に近づいていく。
◇ ◇ ◇
炊飯器のスイッチが、小さな電子音と共に入った。
理恵は、コンビニで買った二キロの米袋から、六合分を研いで釜に入れ、水を張った。透明な水が、白く濁って、また澄んでいく。指先を通る水の冷たさに、肩の力が抜けた。
向こうの世界では、竈の火加減を見ながら米を炊いた。こちらでは、ボタン一つだ。それでも、研ぐ手の動きは、不思議なほど変わらない。
味噌汁の鍋に水を張り、昆布を沈めて火にかける。豆腐を賽の目に切り、乾燥わかめを水で戻す。卵を割り、砂糖と出汁と醤油を混ぜて、四角い卵焼き器に流し込んだ。
じゅっ、と音が立った。
卵が泡を作って固まっていく。端から菜箸でそっと巻いていく。手首を返すたびに、黄色い層が重なっていく。
背中に、気配があった。
振り返らなくても分かる。三人が、六畳間との境の引き戸のところに立って、台所の手元を覗き込んでいた。
「いい匂いですね」
コリンが言った。
「卵と、出汁ですか」
「そう。だし巻き卵」
「甘いのとしょっぱいの、どっち?」
メルが寝癖のついた髪のまま、あくびを噛み殺しながら訊いた。
「ちょっと甘い方。……味見する?」
「する」
理恵は端を切り落として、メルの口に入れてやった。メルは目を閉じて、しばらく咀嚼してから、ふにゃりと笑った。
「朝から、人生が肯定された気分」
「大げさ」
「大げさじゃないよ。理恵ちゃんの卵焼きは、いつだって世界の味方なんだ」
軽口のあとで、メルはふっと声を落とした。
「……ここにいる朝に、これが食べられるんだなって思って。ちょっと、じわっと来ただけ」
「そっか」
理恵は卵焼きの角を整えながら、頷いた。
メルが泣きべそをかく人ではないことを、理恵はもう知っている。だから、それ以上は何も言わず、もう一切れ、切り落とした端を皿に取ってやった。
ご飯が炊き上がる頃には、六畳間の低いテーブルの上に、器がずらりと並んでいた。
足りない分は、まな板を二枚並べて即席のテーブルにし、そこに小鉢を載せた。皿が六枚しかなかったので、卵焼きは大皿に盛って、真ん中に置く。味噌汁の椀は、理恵のものとマグカップ四つ、それにスープ皿が一枚。不揃いだが、湯気はどれも、同じように立ち昇っていた。
最後の椀を、理恵はトビアスの前に置いた。
白いご飯と、豆腐とわかめの味噌汁。
並んだ卵焼きと、焼き海苔と、冷蔵庫の隅から救出したきゅうりの浅漬け。
「今日の朝ごはん」
理恵は言った。
「ごちそうじゃないよ。何でもない、普通の朝」
トビアスは、器をじっと見下ろした。
それから、箸を取った。昨夜、イアンから使い方を教わっていた箸を、まだぎこちない手つきで、卵焼きに伸ばす。
一口食べて、咀嚼して、飲み込む。
箸が、止まった。
「……ああ」
低い声が、洩れた。
「これだ」
「何が?」
「川で、言っただろう。あんたが作るなら、何でもいいと」
「うん」
「何でもいい朝の、実物が、これか」
トビアスは、器の中のご飯を見て、味噌汁を見て、最後に理恵を見た。
「こんなに、足りているものなのか」
理恵は、胸の奥が熱くなるのを感じて、慌てて笑ってごまかした。
「大げさだよ。ただのご飯とお味噌汁と卵焼き」
「いや。……大げさじゃない」
トビアスは静かに言って、ご飯を口に運んだ。
その胸元で、シャツの下の青い光が、いっそう柔らかく、一度だけ強く瞬いた。
イアンが、それを見逃さなかった。
「……食べると、光が強まるのか」
彼は短く呟いて、膝の上の円盤に目を落とした。針が、零の目盛りから、ほんの少しだけ離れていた。
◇ ◇ ◇
朝食が終わる頃には、時計は七時四十分を回っていた。
理恵は、スマートフォンを手に取って、上司への連絡文を打った。
『おはようございます。母が急に来ることになり、本日は有給をいただけないでしょうか。急な申請で申し訳ありません』
送信して、肩の力を抜く。
すぐに既読がつき、『了解。ゆっくりしてね』と返事が来た。ほっとした直後、別の通知が割り込んだ。
『美咲:先輩が有給って珍しい! 何かあったんですか!?』
『美咲:もしかして……向こうの人、来ましたか???』
理恵は、画面を見つめたまま固まった。
後ろでは、メルが覗き込んで、声を殺して笑い転げている。
「やめて」
「だって、この子、鋭すぎるよ」
「やめて、返信できなくなる」
理恵はスマートフォンを裏返して、深呼吸した。
返事は、後でいい。今は、それどころではない。
「みんな、聞いて」
六畳間の中央に、理恵は正座した。
五人の視線が集まる。
「あと一時間くらいで、私のお母さんが来ます」
「お母さん……理恵さんの」
コリンが、ごくりと唾を飲んだ。
「そう。新米を持って、電車で来るの。それで、このアパートに、五人の外国人男性がいるのを見られるわけ」
「何か、まずいのか」
トビアスが眉を寄せた。
「まずいというか……」
理恵は両手で額を押さえた。
「ええと、こっちの世界では、年頃の独り暮らしの女の部屋に、男の人が五人も泊まってるのは、普通じゃないの」
「俺たちは、仲間だろう」
「仲間なのは分かってる。でも、お母さんにはそれが通じないの」
「じゃあ、説明すればいいじゃん」
メルが気楽に言った。
「勇者パーティーで、魔王を倒して、異世界から来ました」
「それ、一番説明しちゃいけないやつ!」
理恵は叫んで、慌てて声を落とした。
「いい? 設定を決めます」
彼女は、指を一本立てた。
「みんなは、私が通ってる料理のオンライン教室で知り合った、外国の友達。日本の旅行に来て、ホテルが取れなくて、一晩だけ泊まってもらった。それだけ」
「ホテルとは、何だ」
ルークが首を傾げた。
「宿屋のこと。旅行者が泊まる宿」
「宿が取れなかったなら、もっと探せばいいんじゃねえか?」
「夜中に着いたの! 全部、満室だったの!」
「なるほど」
「納得しないで。設定なんだから」
イアンが静かに挙手した。
「俺は、嘘をつくのが得意じゃない」
「ぼくは得意だよ」
メルがにっこり手を挙げた。
「得意じゃなくていいの。必要なこと以外、喋らないで。魔力とか、勇者とか、剥離とか、そういう単語は全部禁止」
「……俺は」
トビアスが、低く言った。
「黙っている」
「それが一番助かる」
理恵は即答した。
「ただし、お母さんに話しかけられて無視はしないで。お辞儀して、名前を言って、笑って」
「笑う」
「そう。笑う」
トビアスは、難しい試験を課された人の顔をした。
コリンがおずおずと手を挙げる。
「この服はどうしましょう。旅装のままですが……」
「国のお祭りの民族衣装、ってことにします」
「お祭り」
「そう。向こうの国では、民族衣装を着て旅行する習慣があるの」
「理恵ちゃん、設定がだんだん雑になってない?」
「時間がないの!」
そのやり取りを遮るように、玄関の方から、機械的な音が響いた。
ピンポーン。
六畳間の空気が、一瞬で凍りついた。
理恵は、時計を見た。
八時五十二分。
朝の電車、とは言っていたが、早すぎる。
「……お母さん、一本早い電車に乗ったんだ」
呟いた声が、掠れた。
もう一度、ピンポーンと音が鳴る。続いて、ドアの向こうから、聞き慣れた、高くてのんびりした声が響いてきた。
「理恵ー? 起きてるー? お母さんよー」
◇ ◇ ◇
ドアを開けると、母が立っていた。
ベージュのカーディガンに、お気に入りの小さな帽子。足元にはキャリーカートがあり、その上に十キロの米袋が、紐でしっかりと括りつけてあった。手には梨の入った紙袋と、風呂敷包みを提げている。
「あら、起きてたの。顔色いいじゃない」
「お、お母さん。早かったね」
「一本早いのに乗れたのよ。朝ごはん、もう食べた? お母さん、おにぎり作ってきたから」
母は靴を脱ぎかけて、手を止めた。
玄関の三和土に、見慣れない靴が並んでいた。ルークの使い込んだ革のブーツ。コリンの編み上げ靴。イアンの細身の黒いブーツ。トビアスの、旅で使い込んだ茶色いブーツ。それに、理恵が出しておいた、来客用のサンダルが一足。
「……あら」
母の目が、ゆっくりと瞬いた。
「お客さん?」
「う、うん。ちょっと、いろいろあって」
「いろいろ」
母は靴をじっと見てから、理恵の顔を見て、それから奥の六畳間の方へ視線を移した。
そこに、五人が並んでいた。
誰がどう決めたのか、全員が引き戸の前に、横一列に正座していた。ルークだけが、太い膝を畳に折りたたんで、窮屈そうにしている。みんな、背筋をぴんと伸ばして、妙に真剣な顔で母を見上げていた。
沈黙が、三秒続いた。
「は、はじめまして」
最初に口を開いたのは、コリンだった。
深々と頭を下げる。
「コリンと申します。理恵さんには、いつも、本当にお世話になっています」
「まあ」
母は目を丸くした。
「日本語、お上手ねえ」
「あ、あの、みんな、勉強してて」
理恵が慌てて口を挟む。
「料理のオンライン教室で知り合った、外国の友達なの。日本に旅行に来てて、夜中に着いたから、ホテルが取れなくて……それで、一晩だけ」
「あらあら、それは大変だったわねえ」
母はにこにこと頷いた。信じたのか、信じていないのか、その顔からは読めない。
「ぼく、メルです」
メルが、すかさず愛想のいい笑顔で言った。
「理恵ちゃんの卵焼きの大ファンです。今朝も食べました。最高でした」
「まあ、嬉しいこと言ってくれるのねえ。この子の卵焼き、昔からおいしいのよ」
「知ってます」
「あら、もう知ってるの?」
「はい。ぼく、一目惚れならぬ、一口惚れでした」
「ふふ、面白い子」
母が笑った。メルの口の端が、満足そうに上がる。
その隣で、ルークが前のめりに頭を下げた。
「ルークだ。……です。世話になる」
ごつん、と鈍い音がした。
下げた額が、低い位置のローテーブルの角に当たったのだ。
「いってえ」
「ルーク!」
「へ、平気だ。頑丈だ」
ルークは額を押さえながら、豪快に笑って誤魔化した。母が思わず吹き出した。
「イアン、です」
イアンは、短く頭を下げた。
「世話に、なっています。よろしくお願いします」
「はい、こちらこそ。まあ、礼儀正しい」
母が会釈を返す。そして、最後に、一番右端へ視線を移した。
トビアスが、いた。
彼は、五人の中で誰よりも姿勢が良かった。背筋は定規で測ったようにまっすぐで、大きな手は膝の上にきちんと揃えられている。
母と目が合った。
トビアスは、ゆっくりと頭を下げた。
そして、顔を上げた。
「トビアス・ワーナー、です」
低い声だった。
「……理恵の母上。突然の訪問、申し訳ない。……ありがたい」
そこで、彼は笑おうとした。
口の端が、ぎこちなく持ち上がった。目元は真剣なまま、唇だけが引きつったように動いて、まるで、大型の獣が牙を見せないように精一杯努力しているような表情になった。
沈黙が降りた。
理恵は、目を覆った。
笑う、とは言ったけれど。
「……ぷっ」
最初に、母が堪えきれずに吹き出した。
「あはは、あはは! あなた、不器用ねえ!」
「……すまない」
「いいのよ、いいのよ。無理に笑わなくていいの。真面目な子なのね」
母は目尻を拭いながら、ひとしきり笑ってから、じっとトビアスの顔を見た。
その視線が、すっと、部屋の奥の理恵へ移る。
何かを確かめるように、一秒。
それから、ふっと柔らかく細まった。
「そう。……いい目をしてるわねえ」
「お、お母さん?」
「ううん、なんでもない。さあ、お邪魔するわよ。誰か、このお米、運んでくれる? 十キロあるの」
「おう、任せろ」
ルークが即座に立ち上がり、玄関に出ると、カートごと持ち上げようとした。
「ルーク、カートは転がせるの!」
「おお、そうなのか」
「そうなの!」
結局、ルークは十キロの米袋を片手でひょいと抱えて、台所の隅まで運んだ。母は目を丸くして、感嘆の声を上げた。
「力持ちねえ! 助かるわ」
「どうってことねえ。昔から、重いものは慣れてる」
「あら、お仕事は何を?」
「大工だ」
「大工さん。頼もしいわねえ」
嘘ではない。ルークは、理恵の知る限り、この世界で一番頼もしい大工だった。
◇ ◇ ◇
母が持ってきたおにぎりは、さすがに六人分には足りなかった。
けれど、理恵が朝のうちに炊いておいたご飯と、母の持参した梅干し、昆布の佃煮、自家製のたくあんが、ローテーブルの上に並べられると、なんとなく、その場は小さな宴会のようになった。
「どう、このお漬物。おいしいでしょう?」
「はい、とても」
コリンが目を輝かせて頷いた。
「歯触りが、素晴らしいです。これは、どのように作るんですか?」
「それはねえ、米ぬかに塩を混ぜて」
母が、嬉々として説明を始める。コリンは真面目にメモを取る勢いで耳を傾けていた。イアンも、少し離れた位置から、聞き耳を立てている。
ルークとメルは、梅干しを口に入れて、同時に顔をしかめた。
「す、酸っぱ……!」
「うわ、なにこれ、目が覚める」
「梅干しはねえ、最初は慣れないのよ」
母は笑いながら、湯呑に茶を注ぎ足した。
理恵は、台所の入口で、その光景をぼんやりと見ていた。
この狭い六畳間に、母がいて、五人がいる。
母の高くてのんびりした声と、ルークの大きな笑い声と、メルの軽口と、コリンの相槌と、イアンの短い相槌が、混ざり合っている。
——ずっと、一人で食べていた。
東京に出てきてから、何年もの間、小さなテーブルの上に、一人分の皿を並べて。
胸の奥に、じんわりと熱いものが広がった。
「理恵」
母が、ふと呼んだ。
「はい」
「あんた、この子たちといると、楽しそうね」
「え」
「お母さん、あんたのこんな顔、久しぶりに見たわよ」
母は湯呑を両手で包みながら、穏やかに言った。
「電話ではね、いつも『元気だよ』って言うでしょう。でも、声がちょっと、疲れててね。心配してたのよ」
理恵は、言葉に詰まった。
「……ごめん」
「謝らなくていいの。ただ、今日はほっとしたの」
母は、笑った。
「ちゃんと、楽しそうにしてる。それが分かっただけで、遠くから来た甲斐があったわ」
「お母さん……」
「それでね」
母はふと、膝をさすった。
「ちょっと、膝がね。電車の階段で、また痛くなっちゃって」
「膝、悪いんですか」
コリンが、すっと顔を上げた。
「あら、ちょっとね。年だから」
「失礼します。少し、見せていただいても」
コリンは母の前に膝をつき、そっと膝の周りに手を添えた。
その手つきは、柔らかく、迷いがなかった。指先で膝頭の周りを探り、筋肉の張りを確かめ、裏側の関節の位置を、丁寧になぞっていく。
「ここ、痛みますか」
「あ、そこそこ。そこよ」
「膝そのものより、周りの筋肉が固くなっているようです。階段で負担をかけすぎないよう、ふくらはぎから、ほぐしていきます」
コリンは、両手で母のふくらはぎを包み、親指の腹でゆっくりと圧をかけ始めた。
母が、ほう、と息を吐いた。
「あら、気持ちいい。お医者さんみたいねえ」
「そうなりたかったんです」
コリンは、手を止めずに言った。
「僕の国では、僕は、治療師でした。……今も、そのつもりです」
その声に、理恵の胸が静かに揺れた。
魔力は、もうない。癒やしの術は、使えない。
けれど、彼の手は、確かに人の痛みを知っていた。魔術などなくても、膝の周りの硬さを、迷いなく見つけられる手だった。
「……ちょっと楽になったわ」
母が膝を曲げ伸ばしして、目を丸くした。
「あんた、すごいじゃない。これ、仕事になるわよ」
「そうですか」
「なるわよ。こっちでも、整体とか、柔道整復とか、いろいろ資格があるのよ。ねえ、理恵」
「う、うん、あるよ」
コリンは、手を止めた。
ゆっくりと、自分の掌を見下ろす。
「……資格、ですか」
「ええ。勉強すれば、取れるの」
「勉強すれば」
コリンは、小さく繰り返した。
その瞳に、ほんの小さな光が、灯った気がした。
◇ ◇ ◇
食器を片付けて、お茶を淹れ直した頃、母は風呂敷包みを解いた。
「そうそう。大事なものも、持ってきたのよ」
中から出てきたのは、色褪せた茶封筒だった。
厚みのある封筒を、母は理恵の方へ差し出した。
「ほら、おじいちゃんのお店の話。覚えてる?」
「おじいちゃんの……洋食屋さん?」
「そう。ともだ亭」
理恵の胸が、小さく鳴った。
実家の駅前商店街にあった、小さな洋食屋だった。祖父が一人で切り盛りしていた店で、カウンターが六席、テーブルが二つ。看板のオムライスとハンバーグが、近所の子供たちの人気者だった。
祖父が亡くなって、もう五年。店は、シャッターを下ろしたままになっている。
「叔父さんがね、固定資産税もかかるし、建物も古くなってきたから、年内に手放すか、貸すか、決めたいって言うのよ」
「……そっか」
「でね、お父さんが言ったの」
母は、封筒の中から、古い真鍮の鍵を取り出した。
「『理恵が見たいかもしれないから、鍵を預けておけ』って」
理恵の手のひらに、冷たい鍵が置かれた。
小さな鍵だった。持ち手のところが擦り減って、艶やかな光沢を帯びている。祖父が毎朝、店の扉を開けるために握っていた鍵だった。
「あんた、小さい頃、あの店の厨房の踏み台に乗ってね」
母が、遠い目をした。
「おじいちゃんのお玉を握って、オムライスを作る真似をしてたでしょう。『大きくなったら、ここでお店やる』って、言ってたのよ」
「……覚えてない」
「そりゃそうよ、三つか四つだったもの」
母は笑った。
けれど、理恵の脳裏には、ふっと匂いが蘇っていた。
デミグラスソースをことこと煮込む、深い甘い香り。バターの溶ける音。鉄のフライパンの重さ。板張りの床に、踏み台がきしむ小さな音。
知らなかった記憶ではなかった。ただ、ずっと、忘れていただけだ。
「洋食、とは何だ」
トビアスが、低く訊いた。
静かにお茶を飲んでいた彼が、いつの間にかこちらを見ていた。
「ええと」
理恵は鍵を握ったまま、説明を探した。
「向こうの世界で言うと……煮込みとか、焼き物とか、そういう料理を、こっちの国の人たちが、独自に工夫して作り上げた料理、かな。ハンバーグとか、オムライスとか」
「おむらいす」
「卵でご飯を包んだやつ。……今度、作るね」
「ああ」
トビアスは、短く頷いた。
「楽しみだ」
「お店ってことは、食堂ですか?」
コリンが、控えめに訊いた。
「俺が、作業台を作ってやるぞ」
ルークが、身を乗り出した。
「カウンターも、椅子も、全部直してやる。得意だ」
「ぼく、ウェイターやるよ。接客なら任せて」
「俺は……厨房の配管と、火力の調整を見てやる」
イアンまでが、ぼそりと言った。
「ちょ、ちょっと待って。まだ何も決まってないよ」
理恵が慌てて手を振ると、母は、湯呑を持ったまま、楽しそうに笑った。
「あらあら。みんな乗り気ねえ」
「お母さん、からかわないで」
「からかってないわよ。……鍵は、持っておきなさい。使うか使わないかは、あんたが決めればいいの」
母は、そこで一度、真面目な顔になった。
「でもね、理恵。あの店は、あんたの好きにしていいって、お父さんも言ってたわよ」
理恵は、手の中の鍵を見下ろした。
冷たかった真鍮が、いつの間にか、体温で温まっていた。
◇ ◇ ◇
母が帰るのは、十一時過ぎの電車だった。
駅まで送ると言い張る理恵を、「大丈夫、道は分かるから」と制して、母は玄関の三和土で靴を履いた。
「じゃあ、みなさん、ごちそうさま。理恵をよろしくね」
「こちらこそ」
五人が揃って頭を下げる。ルークがまた額をぶつけそうになって、コリンが慌てて腕を引いた。
母は、そこでトビアスの方へ、ちらりと視線を向けた。
「トビアスさん」
「……はい」
「ご飯、ちゃんと食べさせてもらいなさいね」
「……ああ。いつも、食べている」
「そう。それがいいのよ」
母は、満足そうに頷いた。
それから、ドアの外へ出て、理恵にだけ聞こえる声で囁いた。
「あの、一番喋らない子」
「え」
「ずっと、あんたの方を見てたわよ。お母さん、何も聞かないけどね」
理恵の頬が、ぼっと熱くなった。
「聞かないって言いながら、言ってるじゃない……!」
「ふふふ。あんたが選んだ人なら、お母さんは何も言わないって、そういう意味」
母は軽く手を振って、キャリーカートを転がしながら、廊下を歩いていった。
小柄な背中が、階段の方へ消えていく。
理恵はドアを閉め、しばらく、その場に立ち尽くしていた。
「……お母さん、最高」
背後で、メルが拍手した。
「ぼく、あの人のファンになった」
「やめて」
「米、重かったなあ」
ルークが、腕をぐるぐる回しながら言った。
「運んだ自分を褒めてやりてえ」
「褒めるほど、運んでないでしょ、台所の隅までだよ」
「それでも褒めてほしいんだよ」
六畳間に戻ると、緊張が一気にほどけたような笑い声が、広がった。
理恵は、手の中の鍵を握り直した。
——ともだ亭。
その名前を、舌の上で転がす。
もしも。
もしも、あの店を、もう一度開けられるなら。
向こうの世界で、六人で囲んだ食卓を、この世界でも。
そこまで考えて、理恵はふるふると首を振った。
まだ早い。何も決まっていない。まずは、この六畳間で、みんなで暮らすことを考えなければ。
「理恵」
イアンの声が、静かに響いた。
振り返ると、彼は窓際で、膝の上の遠話の魔石を見つめていた。
薄緑の小石が、白い光を、ゆらゆらと強めている。
「……反応している」
「また?」
「さっきから、少しずつ強くなっていた。今は、はっきり脈を打っている」
イアンは立ち上がり、トビアスの方へ歩み寄った。
「トビアス。胸を、貸せ」
「……ああ」
トビアスはシャツの襟元を開けた。
青白い刻印が、胸の中央で明滅している。
イアンが、遠話の魔石を、その光のすぐ傍へそっとかざした。
その瞬間だった。
石の白と、刻印の青が、同じ間隔で脈を打ち始めた。
とく、とく、と。
二つの光が、まるで一つの心臓のように、重なる。
「やはりな」
イアンの声が、低く掠れた。
「刻印は、受信機になっている。糸の残りが、トビアスの胸を通して、向こうと繋がっている」
「向こうって」
理恵が息を呑んだ時、魔石から、ざらり、と砂の擦れるような雑音が洩れた。
六畳間の全員が、凍りついた。
雑音の向こうから、細く、途切れ途切れの声が、聞こえた。
『——……こえ、ますか。……イアン。……聞こえるなら……』
聞き覚えのある、冷静で、けれど今にも切れそうに張りつめた声だった。
「室長」
イアンが、石を握りしめた。
『お願い……聞いて。時間が、ありません。門が、まだ——』
ざざっ、と雑音が跳ね上がる。
『——トビアスの刻印を、絶対に、』
声が、ぷつりと途切れた。
白い光が、すうっと弱まる。
六畳間に、沈黙が落ちた。
冷蔵庫の唸りと、窓の外の遠い車の音だけが、聞こえていた。
トビアスの胸の青い光が、まるで何かを待つように、ゆっくりと、もう一度、脈を打った。




