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最終話 六人の食卓、はじまりの朝

六畳間は、息を止めたように静まり返っていた。


窓から差し込む昼前の光が、畳の上に四角い明るみを作っている。その中で、細かな埃がゆっくりと舞っていた。まだ温かい味噌汁の匂いと、い草の乾いた香りの隙間に、薄緑の魔石が、小さな羽虫のような音を立てている。


イアンは、石をトビアスの胸の刻印にかざしたまま、微動だにしなかった。


「……もう一度、呼ぶ」


低く言い、親指で石の縁をなぞる。


「室長。こちらの声は、届いているか」


雑音が、ざあっと広がった。


砂時計の砂が流れるような音の向こうで、ふっと、輪郭のある声が立ち上がった。


『——聞こえています』


理恵は、思わず息を呑んだ。


『ようやく、波が安定しました。イアン、トビアス。……理恵さん。そこにいますか』


「います」


理恵は、石に顔を寄せた。


「フィオナさん。お久しぶり、じゃないですね。昨日ぶりですか」


『こちらでは、一晩です。……顔が見えないのが惜しいわ』


声は、変わらず冷静で、けれどほんの少しだけ、掠れていた。徹夜をした人の声だった。


『時間がありません。手短に、説明します』


フィオナは、息を整える気配をさせてから続けた。


『昨夜、トビアスが糸を引き込んで、私は魔力炉の供給を切りました。門は閉じた。計器の上では、そうなっています。けれど夜明け前、魔力炉の余熱の中に、髪の毛一本ほどの細い波が、一本だけ残っているのに気づきました』


「俺の指に絡んだものだ」


トビアスが言った。


『ええ。糸の端は、あなたの胸の刻印に繋がっています。逆に言えば、刻印が受信機になって、残った波を受け止めている状態です』


「なぜ、閉じなかった」


『門は、三つの条件で開きます。座標、触媒、そして意思』


フィオナは、静かに言った。


『意思というのは、渡る人が、どこへ、誰のもとへ行くのかを決める力です。門は、それを量っている。……トビアス。あなたは、渡る直前に、誰かと何かを約束したまま、果たさずに来ませんでしたか』


トビアスの目が、大きく見開かれた。


「約束」


「陛下だ」


ほとんど同時に、イアンが言った。


「城の寝所で、陛下は言ったはずだ。いつか、手紙を一通くれと」


理恵は、はっとした。


トビアスは、押し黙った。


あの時、彼は何も答えなかった。ただ、深く頭を下げて、城門を出た。承諾の言葉は、口にしていない。けれど、胸の内では、確かに、頷いていたはずだった。


「……果たしていない約束が、門に残ったのか」


『そう考えるのが、一番自然です』


フィオナが答えた。


『門は、人の言葉ではなく、渡る瞬間の意思を量ります。あなたの意思の中には、理恵さんの隣で生きる、という強い芯と一緒に、陛下に手紙を届ける、という小さな結び目が残っていた。その結び目が、糸を完全には切らせなかった』


「結び目、か」


トビアスは、掌を握りしめた。


『もう一つ、大切なことを。——トビアスの刻印を、絶対に、力ずくで消そうとしないでください』


声が、わずかに低くなった。


『残った波は、細いけれど、刻印を通して座標に繋がっています。無理に断ち切れば、糸が裂けて、反動で門が再び開く。最悪の場合、あなたの体が、こちらへ引き戻されます』


六畳間の空気が、ぴんと張りつめた。


「引き戻される……」


コリンが、小さく呟いた。


「それは、困る」


トビアスが、低く、はっきりと言った。


「俺は、帰らない」


『分かっています。だから、正しい方法で閉じてほしいの』


フィオナの声に、微かな温かさが混ざった。


『結び目は、ほどけば消えます。約束を果たせば、門は役目を終えて、自然に閉じる。魔力炉の余熱が保つのは、およそ三十日。それまでに、手紙を届けてください』


「手紙は、どうやって届ける」


イアンが尋ねた。


『糸が細すぎて、物は通れません。声も、長くは持たない。けれど、想起の魔石に刻んだ再生の波なら、一度だけ、運べるはずです。映像と音を、半刻ぶんだけ。ただし、一方通行です。こちらから返事を返す余力は、残りません』


「半刻、一度きり」


『ええ。だから、何を送るか、よく考えて』


通信が、少しずつ遠のいていく。


『それと——』


ざざっと、雑音が跳ねた。


『陛下は、毎晩、窓辺に座っておられます。……待っておられます。どうか、急ぎすぎず、けれど、忘れずに』


声が、途切れた。


石の白い光が、すうっと落ち着いた。


静寂が、六畳間に戻ってくる。


トビアスは、しばらく、自分の胸元を見下ろしていた。


青白い光が、変わらず、ゆっくりと脈を打っている。


「……俺は、手紙の書き方を知らん」


ぽつりと、彼は言った。


「剣の振り方なら、教わった。命令書の読み方も。だが、人に何かを伝える文など、書いたことがない」


「書かなくていいんじゃない?」


理恵は言った。


「え?」


「だって、想起の魔石は、映像と音を送れるんでしょう。字で書く手紙じゃなくて、見せればいいんだよ。——陛下が言ったのは、『良い食卓を見つけたら、手紙を一通くれ』でしょう」


「ああ」


「だったら、見せればいい。トビアスが見つけた、良い食卓を」


理恵は、手の中の真鍮の鍵を握りしめた。


冷たかった金属が、さっきから、ずっと温かい。


「三十日。……三十日で、お店を開こう」


言葉が、思ったより自然に、口から零れた。


「ともだ亭を、もう一度開ける。その日に、みんなの食卓を、そのまま向こうへ届けよう」


六畳間に、一瞬の沈黙が落ちた。


そして。


「よっしゃあ!」


ルークが、拳を突き上げた。


「やっと言ったな。腕が鳴る」


「ぼく、看板描く」


メルが即座に手を挙げた。


「理恵ちゃん、店の名前は?」


「え、えっと」


理恵は、少し考えた。


向こうの世界で、いつも囲んでいた大きな卓。トビアスと、ルークと、コリンと、イアンと、メルと、そして自分。


「《六人の食卓》」


口にした途端、胸の奥で、何かが静かにはまった気がした。


「どう、かな」


「いいと思います」


コリンが、柔らかく笑った。


「僕たちは、あの卓の続きを、ここでやるんですね」


「悪くない」


イアンが、眼鏡を押し上げた。


トビアスが、理恵を見ていた。


何も言わなかった。ただ、静かに、一度だけ頷いた。


それだけで、十分だった。


   ◇ ◇ ◇


ともだ亭のシャッターが、鈍い音を立てて巻き上がったのは、その三日後のことだった。


商店街の端、八百屋とクリーニング店に挟まれた小さな間口。五年ぶりに差し込んだ光が、店内の埃を黄金色に染め上げる。


古い油の匂いが、鼻をついた。


その奥に、深くしみ込んだデミグラスソースの甘い香りが、かすかに残っている。


理恵は、入口で立ち尽くした。


カウンターが六席。小さな丸テーブルが二つ。壁には色褪せたメニューの短冊が、そのまま貼られている。「オムライス 六〇〇円」「ハンバーグ定食 七〇〇円」。祖父の字だった。


「……そのままだ」


呟く声が、少し震えた。


奥の厨房には、錆びた鉄のフライパンが吊るされ、壁際には、小さな木の踏み台が置かれていた。


トビアスがその踏み台に目を留めた。


「これは」


「私が、小さい頃に使ってたやつ」


「小さいな」


「そりゃ、三歳だもん」


トビアスは、踏み台の端を、指先でそっと撫でた。


節の浮いた、荒れた大きな手が、子供用の小さな台に触れている。


その光景を、理恵はしばらく見つめていた。


守ることと、支配しないこと。かつて旅の中で、彼女が何度も考えたその答えが、今、目の前の手の中にあるような気がした。


「……いい店だ」


トビアスが、静かに言った。


「あんたの匂いがする」


「それ、おじいちゃんの匂いだと思うけど」


「違う。あんたが作る飯の匂いと、同じだ」


理恵は、何も言えなくなって、慌てて掃除用具を取りに走った。


   ◇ ◇ ◇


それからの一月は、嵐のように過ぎた。


ルークは、毎朝、誰より早くシャッターを開け、金槌を握った。


傷んだ床板を剥がし、梁の歪みを直し、カウンターの天板を、一から削り直す。祖父が使っていた古い欅の板は、削るたびに、深い飴色の木目を現した。


「いい木だ。捨てるなんて、とんでもねえ」


額の汗を拭いながら、ルークは笑った。


「長く使われてきた木はな、人の手の癖を覚えてるんだ。ちゃんと手入れすれば、あと五十年はもつ」


「ルーク、作業台の設計図は?」


「できてる。見るか」


彼が胸を張って見せたのは、拙いけれど几帳面な線で描かれた、厨房用の作業台の図面だった。旅の間、野営のたびに、料理をする理恵のために、彼が設計図を描き溜めていたことを、理恵は思い出した。


「あんたの背丈に合わせて、高さを決めてある。これなら、腰を痛めねえ」


理恵は、図面の隅に書かれた寸法を見つめた。


——百五十八センチ。


ちゃんと、自分の身長だった。


「……ありがとう」


「礼は、完成してから言え」


ルークは、照れたように鼻を鳴らした。


イアンは、水道と換気扇と、ガスの配管を、一日中睨み続けた。


「圧力が、安定していない」


「それは、古いからだよ」


「分かっている。だから調べている」


彼は工具箱を抱えて、床下に潜り込んだり、天井裏に登ったりした。夜になると、持ち帰った部品を畳の上に広げ、分解して、また組み立て直している。


「冷蔵庫も分解したい」


「やめて」


「構造が気になる。冷気を作る仕組みが」


「それは、うちの冷蔵庫じゃなくて、お店のだからダメ!」


「……残念だ」


その横顔が、わずかに子供のように見えて、理恵は吹き出した。


コリンは、昼間は店の内装を手伝い、夜になると、二階の片隅で小さな灯りを点して、ノートに向かっていた。


覗き込むと、ひらがなが、一文字ずつ、丁寧に書き連ねてあった。


「あ、い、う、え、お」


「声は通じるのに、字は読めないの?」


「そうみたいです」


コリンは、少し恥ずかしそうに笑った。


「でも、整体の学校のパンフレットを、理恵さんのお母さんが送ってくださって。いつか、自分で読めるようになりたいんです」


「うん」


「治療師じゃなくても、人の痛みを楽にする仕事は、できるみたいですから」


その声は、静かで、揺るぎなかった。


メルは、看板を描いた。


大きな木の板に、墨で太く《六人の食卓》と書き、その周りに、スプーンとフォークと、湯気の立つ皿を、軽やかな筆で描き添える。


「どう? ちょっと可愛すぎる?」


「ううん、すごくいい」


「でしょ。ぼく、実は絵も得意なんだ」


「知らなかった」


「隠してたんじゃなくて、披露する機会がなかっただけ」


メルは筆を置いて、看板を見上げた。


しばらくして、ぽつりと言った。


「……兄さまにも、見せたいな」


「見せよう」


理恵は言った。


「その日に、絶対に、見せよう」


「うん」


メルは笑った。


軽口を叩く唇の端が、ほんの少しだけ、震えていた。理恵は、見なかったふりをして、隣に立った。


トビアスは、掃除と、運搬と、皿洗いを担った。


鍋を磨き、床を拭き、油汚れを落とす。誰より黙々と、誰より丁寧に。


「トビアス、そんなに磨かなくていいよ。もう十分ピカピカ」


「まだ、縁に汚れが残っている」


「縁なんて誰も見ないよ」


「俺が見る」


彼は、低く言って、また手を動かした。


その背中を、理恵はしばらく眺めていた。


剣を持って、仲間の前に立ち続けていた背中が、今は、古い鍋の縁を磨いている。


それが、どうしようもなく愛おしかった。


美咲は、三日に一度、店に顔を出した。


「先輩! やっぱり向こうの人と再会してたんじゃないですかぁ!」


初めて店を訪れた日、彼女は、五人を順番に見渡してから、腰に手を当てて勝ち誇った。


「私の予想、百パーセント当たりでしたね」


「……はいはい、当たりでした」


「で、誰が本命なんですか」


「美咲ちゃん」


「あっ、あの人ですね。奥で鍋磨いてる、無口な」


「ちょっと!」


「顔に書いてありますよ、先輩」


理恵は、真っ赤になって顔を覆った。


美咲はけらけらと笑いながら、手にしていた紙の束を差し出した。


「チラシ作りました。デザインは私が。ほら、看板と同じ絵、使いましたよ」


「ありがとう……」


「あと、うちの叔父が行政書士なんで、書類のこと、相談に乗れます。外国の方の手続きとか」


「えっ」


「人生の大先輩ですから、頼ってください」


胸が熱くなった。


異世界帰りの定番を、あれほど熱心に語っていた後輩が、気づけば誰よりも心強い味方になっていた。


会社には、退職の意思を伝えた。


課長は、少し驚いた顔をして、それから穏やかに頷いた。


「友田さんの作る弁当、前から評判だったからね。いつかそういう日が来ると思ってたよ」


引き継ぎを終え、最後の出社日に机を片付けて、理恵は小さな段ボール箱を抱えて帰路についた。


駅の向こうに、夕暮れの空が広がっていた。


ずっと、同じ道を歩いていたはずなのに。


今日は、少しだけ、違って見えた。


   ◇ ◇ ◇


開店の朝は、澄んだ秋晴れだった。


商店街のアーケードの隙間から、斜めに射す光が、新しい暖簾の白を眩しく浮かび上がらせている。ガラス戸の向こうでは、磨き上げられた欅のカウンターが、飴色に艶めいていた。


厨房には、湯気と、焦がしバターの匂いが満ちていた。


デミグラスソースは、前の晩から二日がかりで煮込んだ。牛すじと玉葱と、トマトと、赤ワイン。鍋の中で静かに揺れる褐色の海を、理恵はお玉でひと掬いして、味見をした。


濃厚で、深くて、どこかに、祖父の鍋と同じ甘さがあった。


「……よし」


小さく呟いて、理恵は顔を上げた。


「みんな、準備はいい?」


「おう」


ルークが、カウンターの端から手を振った。新品の白い前掛けが、筋肉の盛り上がった胸元に、はち切れそうに張りついている。


「ホールは任せろ。ただし、皿は割るなよって言うなよ」


「割ったら、ルークの給料から引くからね」


「ひでえ」


「ぼく、ホール一番手」


メルが、黒いベストの襟を整えながら、悠々と笑った。


「接客なら、任せて。全員、理恵ちゃんのファンにして帰す」


「そこまでしなくていいよ」


「ぼくが決めた」


コリンは、盛り付けの台で、真剣な顔でオムライスの皿を並べていた。薄桃色の髪を後ろで結び、白い三角巾をきちんと巻いている。


「卵の形、これでいいでしょうか」


「うん、完璧。コリン、上手になったね」


「理恵さんに教わった通りにやっているだけです」


イアンは、ガスの元栓と換気扇と、冷蔵庫の温度計を、一つずつ点検していた。


「問題ない。全て、想定内だ」


「想定外が起きたら?」


「その時は、俺が何とかする」


「頼もしい」


そして。


厨房の奥、洗い場の前に、トビアスが立っていた。


白いシャツの袖をまくり、新しいエプロンを腰に巻いている。


「……トビアス、緊張してる?」


「いや」


彼は、低く答えた。


「ただ、皿が多いな、と思っていた」


「開店前から、洗い物の心配?」


「あんたの料理は、皿を汚さずに食べたら失礼だからな」


その言い方が、あまりに真面目で、理恵は思わず笑ってしまった。


その背後で、シャッターの外から、小さな物音がした。


ガラス戸の向こうに、人影が並んでいる。


最初の客だった。


「いらっしゃいませ!」


メルが、軽やかに戸を開けた。


「《六人の食卓》へ、ようこそ」


先頭に立っていたのは、白髪の老人だった。杖をつき、ハンチングを被って、ゆっくりと店内を見渡している。


「……友田の爺さんの店が、また開いたって聞いてな」


しわがれた声だった。


「孫が帰ってきたと聞いて、来てみたんだ」


理恵は、厨房から顔を出した。


「いらっしゃいませ。……孫の、理恵です」


「おお」


老人は目を細めた。


「小さい頃は、そこの踏み台に乗ってたな。覚えてるか」


「覚えて……ます」


嘘ではなかった。


この一月で、少しずつ、思い出していた。踏み台の高さ、お玉の重み、祖父の大きな背中。


「オムライスをもらおうか。昔と同じやつを」


「はい」


理恵は、深く頷いた。


フライパンにバターを落とす。じゅわっと音が弾け、甘い匂いが立ち上る。溶き卵を流し込み、手首を返して半熟のまま包み込む。


向こうの世界では、竈と、石の鍋と、魔石の火で。


今は、ガスと、鉄のフライパンで。


けれど、手が、全部覚えている。


「お待たせしました」


湯気の立つオムライスが、老人の前に置かれた。


老人はスプーンを取り、一口食べた。


しばらく、何も言わなかった。


目を閉じて、ゆっくり、噛み締めて、飲み込む。


「……同じだ」


ぽつりと、彼は言った。


「友田の爺さんの味と、同じだ」


それは、何よりの褒め言葉だった。


理恵は、胸の奥から込み上げるものを、必死に抑えた。


「ありがとうございます」


「また来る」


「はい、お待ちしてます」


その後は、あっという間だった。


商店街の人々が、次々に暖簾をくぐった。八百屋の主人。クリーニング店の奥さん。向かいの文房具屋の老夫婦。子供連れの母親。祖父の古い常連客たち。


「ハンバーグ、二つ」


「オムライス、大盛りで」


「煮込みも頼む!」


注文が飛び交い、フライパンが唸り、皿が運ばれていく。


「ルーク、三番テーブル!」


「おう!」


「メル、二番にお水!」


「はーい」


「コリン、盛り付け、卵もう一つ!」


「はい!」


「イアン、火力!」


「上げる」


厨房の中で、全員が、息を合わせて動いていた。


向こうの世界の旅の途中、野営の夜に、大鍋を囲んで食事を作った時と、同じだった。誰が何をやるか、言葉にしなくても、体が覚えている。


洗い場では、トビアスが、黙々と皿を洗い続けていた。


洗い終えた皿が、積み上がっていく。水の音と、皿の触れ合う音が、一定のリズムで響く。


理恵は、フライパンを振りながら、ちらりとその背中を見た。


「……ありがとう、トビアス」


「何がだ」


「洗ってくれて」


「それが、俺の仕事だ」


短い声が、返ってきた。


けれど、その響きは、どこか誇らしげだった。


昼を少し過ぎた頃、ガラス戸が、またそっと開いた。


「あらあら、すごい賑わいねえ」


高くて、のんびりした声。


母だった。


その後ろには、背の高い、無口な男の人が立っていた。日に焼けた顔に、短く刈った白髪混じりの髪。手には大きな風呂敷包みを提げている。


「お父さん……来てくれたの」


「ああ」


父は、短く答えた。


店内を、ゆっくりと見回す。祖父の店の、見慣れた梁と、柱と、カウンターを。


「父さんの店だ」


「うん」


「綺麗にしたな」


「みんなが、手伝ってくれたから」


父は、厨房の方へ視線を向けた。


トビアスが、皿を洗いながら、ふと顔を上げた。


二人の視線が、交わった。


トビアスは、手を止めて、背筋を伸ばし、深く頭を下げた。


「トビアス・ワーナーです。……理恵の父上」


「ああ」


「お世話に、なっています」


「そうか」


父は、それ以上何も言わなかった。ただ、少しだけ、頷いた。


そして、カウンターの席に腰を下ろし、風呂敷包みを置いた。


「新米だ。炊いて、出してくれ」


「お父さん、うちはオムライスの店だよ」


「オムライスにも米は使うだろう」


「それはそうだけど」


「うまい米で作れ」


母が、くすくすと笑った。


「お父さんね、昨日の夜から、そわそわしてたのよ。朝一番の電車で来るって言い張って」


「……言うな」


「言うわよ。可愛いんだから」


理恵は、笑いながら、涙が滲むのを感じた。


その新米で、特別なオムライスを作った。


ふっくらと炊き上がった米は、ひと粒ひと粒が輝いて、バターと玉葱の香りを吸い込んだ。ケチャップで味をつけ、卵で包み、褐色のソースをたっぷりとかける。


父の前に、皿を置いた。


父は、しばらく、皿を見つめていた。


それから、無言でスプーンを取り、一口食べた。


目を閉じる。


噛む。飲み込む。


沈黙が、数秒続いた。


「……うまい」


小さな声だった。


けれど、確かに、そう言った。


「うまいぞ、理恵」


理恵の目から、堪えていた涙が、ぽろりと零れた。


厨房の奥から、トビアスが、水を止めて、こちらをじっと見ていた。


   ◇ ◇ ◇


最後の客を見送ったのは、夜の八時だった。


暖簾を下ろし、鍵を閉め、店内の灯りを少し落とす。


静かになった店内に、洗い物の余韻と、ソースの甘い匂いが、柔らかく漂っていた。


「……終わった」


理恵は、カウンターの内側にへたり込みそうになるのを堪えて、天井を見上げた。


「終わったね」


「終わったな」


「お疲れ様でした」


「はあ、足が棒だ」


六人が、カウンターに並んで座った。


ルークは両足を投げ出し、メルは腕を枕に突っ伏している。コリンは、疲れた顔で、けれど満ち足りた笑みを浮かべていた。イアンは、眼鏡を外して、目頭を揉んでいる。


賄いは、オムライスの端の卵で作った、形の崩れた小さなオムライスだった。


「これが、一番おいしいんだよな」


ルークが、スプーンを口に運びながら言った。


「形がどうとか関係ねえ」


「分かる」


「分かる」


「分かります」


何でもない、崩れたオムライス。


けれど、六人で囲む、一日の終わりの食卓。


食べ終えた頃、イアンが、懐から想起の魔石を取り出した。


青い光が、ほのかに店内を満たす。


「……時間だ」


「うん」


理恵は頷いた。


三十日目の夜。


魔力炉の余熱が尽きるのは、今夜が限度だと、フィオナは言っていた。


「手順を確認する」


イアンが、カウンターの上に石を置いた。


「記録は、石に向かって話しかけるだけでいい。映像は、店の様子を自動で拾う。再生の波は、トビアスの刻印を通して、向こうへ送る」


「俺の胸を、通るのか」


「そうだ。刻印が受信機なら、送信にも使える。ただし、一度きりだ。半刻のうちに、全てを済ませろ」


「分かった」


トビアスは、静かに頷き、石の前に立った。


胸の刻印が、いつもより強く、青く脈打っている。


「……何を、言えばいい」


「好きに話していいんだよ」


理恵は、そっと言った。


「今日あったことを、そのまま。手紙の代わりだから」


トビアスは、しばらく黙っていた。


石を見つめる。


それから、ゆっくりと息を吸った。


「陛下」


低い声が、店内に響いた。


「トビアス・ワーナーです。……約束を、果たしに来ました」


石の青い光が、細い糸のように伸び始めた。


糸は、トビアスの胸の刻印へ吸い込まれ、そこから、見えない方向へ、静かに流れていく。


「俺は、あなたに、手紙の書き方を教わっていません。だから、言葉で、伝えます」


トビアスは、そこで言葉を切った。


窓の外で、街灯が、静かに揺れている。


「良い食卓を、見つけました」


その声は、掠れていた。


「ここは、俺の仲間の店です。仲間が、俺の隣にいます。そして」


彼は、ちらりと理恵を見た。


「毎日、飯を作ってくれる人がいます。何を作っても、旨い。……だから俺は、毎日、ここで食べます」


飾り気のない言葉だった。


けれど、一つ一つが、石の青い光に包まれて、遠い世界へ運ばれていく。


「陛下のおかげで、俺は、俺の足で、ここまで来ました。勇者の名を捨てて、一人の人間として、立てています」


トビアスは、深く頭を下げた。


「ありがとうございました。……どうか、お体を、お大事に」


石が、柔らかく明滅した。


「次は、俺たちだ」


イアンが言った。


「室長。イアンです。研究室の皆に、よろしく伝えてほしい。俺は元気にやっている。——この世界の、冷蔵庫の構造を調べるのに、夢中だ」


「それと。扉は閉じるが、俺は諦めない。いつか自分の手で、もう一度開ける方法を見つける。返事は要らん。聞いておけ」


「何それ」


メルが吹き出した。


「ゼクセル兄さま」


彼は、石に向かって笑った。


「ぼくは、毎日、おいしいものを食べてるよ。理恵ちゃんの卵焼きは、世界の味方だった。いつか、兄さまにも、食べてもらいたい。……いつか、必ず」


軽い口調だった。


けれど、最後の一言には、確かな芯があった。


「リゼさん。コリンです」


コリンが続けた。


「薬草帳、大切にしてください。僕は、こちらで、新しい勉強を始めました。いつか、あなたと、どこかで繋がれたら嬉しいです」


「おう、こっちからも言わせろ!」


ルークが、身を乗り出した。


「俺は、立派な作業台を作ったぞ! 見ろ、この欅のカウンターを! 向こうの大工連中にも自慢してくれ!」


「声が大きいよ」


「大きくなきゃ、届かねえだろ!」


店内に、笑い声が弾けた。


最後に、理恵が、石の前に立った。


「……陛下」


言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。


「理恵、です。料理人の」


石の光が、柔らかく揺れた。


「あの時、戻る前に、何もお返しできませんでした。だから、今日、お見せします」


彼女は、カウンターの上を、ゆっくりと示した。


飴色の天板。白い皿。スプーン。


そこに並ぶ、五人の笑顔。


「これが、私たちの食卓です」


声が、少し震えた。


「毎日、小さなことで笑って、喧嘩して、おなかを空かせて。……何でもない一日を、一緒に囲んでいます」


理恵は、微笑んだ。


「どうか、陛下も、温かいものを召し上がってください。一緒に食べているつもりで」


静寂が、店内に落ちた。


石の光が、一際強く瞬いた。


青から白へ。


そして、光の糸が、壁を、天井を、ふわりと駆け上がるように伸びて、窓の向こうの夜空へ、吸い込まれていった。


   ◇ ◇ ◇


トビアスの胸の刻印が、ふっと、金色に染まった。


「……あ」


理恵は、息を呑んだ。


その光は、これまでの青白さとは違っていた。温かくて、柔らかくて、まるで蝋燭の灯のような色だった。


光の糸は、窓を抜け、商店街の屋根を越え、夜空の一点へ向かって伸びていく。細く、細く、髪の毛一本ほどに。


誰も、口を開かなかった。


返事は、なかった。


当たり前だ、と理恵は思った。糸は細すぎる。こちらから送るだけで、精一杯なのだから。


遠話の魔石は、カウンターの隅で沈黙している。雑音も、声も、ない。ただ、金色の灯だけが、静かに脈を打っていた。


「……届いたかな」


メルが、窓の外を見つめたまま、小さく呟いた。


「兄さま、聞こえたかな」


「分からん」


イアンが答えた。


「受信側の確認は、できない。そういう設計の波だ」


「そっか」


メルは、軽く笑った。笑って、窓の方を向いたまま、しばらく黙っていた。


「手紙ってね」


理恵は、そっと言った。


「返事を待たずに出すものなんだよ。届いたって信じて、ポストに入れるの」


「ぽすと」


「手紙を入れる箱。……帰ったら、見せるね」


「ここが家だぞ」


ルークが突っ込み、小さな笑いが広がった。


その時だった。


トビアスの肩が、ぴくりと動いた。


「……今」


「どうしたの」


「糸が、一度だけ、軽く引かれた」


彼は、胸の灯りに掌を当てた。


「引っ張るような力じゃない。……手を、握り返されたような」


「向こうから?」


「たぶん」


トビアスは、目を閉じた。


「陛下の指に、似ていた。別れの日、俺が頭を下げた時に、肩に置かれた手だ。骨ばって、軽くて、それでも、温かかった」


誰も、何も言わなかった。


ただ、六人の呼吸が、静かな店内で重なっていた。


やがて、金色の灯が、ゆっくりと薄れ始めた。


髪の毛一本ほどの、細い糸が、指先から解けていくのを、トビアスは感じた。


静寂が戻った店内に、街灯の光が、窓から斜めに差し込んでいた。


「……切れた」


イアンが、魔石を拾い上げた。


石は、ただの冷たい青い石に戻っていた。


「門は、閉じた」


「向こうのみんな、ちゃんとご飯、食べてるかな」


理恵がぽつりと言うと、イアンは魔石を握り直して、短く答えた。


「室長は、研究に没頭すると食事を忘れる。……だが、ゼクセル様とヴァルガがいる。放っておかれはしない」


「それなら、安心かな」


「少なくとも、俺よりはまともに食っているだろう」


小さな笑い声が、店内に戻ってきた。


メルが、笑いながら袖で目元を拭った。ルークは、天井を見上げて、鼻を鳴らしている。コリンは、胸の前で両手を合わせていた。


トビアスは、シャツの襟元をそっと開けた。


胸の中央には、薄い痕が残っていた。


光は、もうない。ただの、傷痕のような、白い印だった。


「……消えた」


理恵が、小さく呟いた。


「ちょっと、寂しいね。毎晩、常夜灯みたいだったのに」


「光らなくても」


トビアスは、静かに言った。


「ここにある」


彼は、自分の胸に、そっと掌を当てた。


「約束を、果たした証だ。……俺は、これでいい」


理恵は、何も言わず、その手の上に、自分の手を重ねた。


温かかった。


   ◇ ◇ ◇


翌朝。


ともだ亭の二階の六畳間に、薄い朝の光が差し込んでいた。


障子の向こうで、雀が鳴いている。窓の外の商店街は、まだ静かだった。階下から、微かに、木材と出汁の匂いが昇ってくる。


理恵は、布団の中でゆっくりと目を開けた。


天井の木目を、ぼんやりと見上げる。


昨日までの疲れが、体の芯にまだ残っている。けれど、不思議と、心は軽かった。


隣の部屋から、微かな寝息が聞こえる。ルークの大きないびき。メルの寝言。コリンの規則正しい呼吸。


そして。


台所の方から、水の流れる音がした。


理恵は、そっと起き上がり、階段を降りた。


厨房の灯りが、ぼんやりと点いている。


洗い場に、トビアスが立っていた。


昨夜の皿の残りを、一枚ずつ、丁寧に洗っている。


「……早いね」


「目が、覚めた」


彼は、振り返らずに答えた。


「習慣だ」


「寝てた?」


「寝た」


「ほんとに?」


「……少しだけ、な」


理恵は、小さく笑って、彼の隣に立った。


蛇口から流れるお湯の音。皿の触れ合う音。窓の外の、街灯が消える気配。


並んで皿を洗う、何でもない時間。


かつて旅の中で、何度も重ねてきた、後片付けの時間だった。


「トビアス」


「何だ」


「明日の朝は、何が食べたい?」


理恵は、いつもの言葉を口にした。


トビアスは、手を止めた。


ゆっくりと、理恵の方を向いた。


その瞳が、朝の光を映して、柔らかく細まった。


「あんたが作るなら」


「うん」


「何でもいい」


「うん」


「毎日、これでいい」


理恵は、笑った。


声を立てて、笑った。


それは、昨日までのどんな笑いよりも、軽やかで、あたたかかった。


「じゃあ、何でもない朝ごはんにするね」


「ああ」


「お味噌汁と、卵焼きと、焼き鮭」


「それがいい」


エプロンを締め直し、理恵は炊飯器のスイッチを入れた。


小さな電子音が、静かな厨房に響く。


階段の上から、ルークの大きな欠伸が聞こえた。


メルの「おはよー」が続く。コリンの慌てた足音。イアンの「おい、まだ六時だ」という文句。


今日も、また、長い一日が始まる。


世界を救った勇者も、魔王の弟も、元・攻撃魔術師も、獣人の治療師も、豪快な戦士も、そして、ただの料理人も。


みんな、ただの人として、同じ卓を囲む。


理恵は、湯気の立ち上る鍋の前で、そっと目を閉じた。


世界を救うより、恋愛模様より、ずっと大切なもの。


それは、何でもない一日の、何でもない食卓を、一緒に囲んでくれる人がいること。


「いただきます」は、また今日も、誰かと分け合える。


「みんな、朝ごはんだよ!」


理恵の声が、ともだ亭の朝の空気に、明るく響いた。


(完)

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