第93話 コリンのミルク粥、同じ鍋で同じ味にならない理由
夜明け前の宿の厨房は青く沈んでいた。
窓の硝子には薄い霜が張り付いている。竈の灰を掻き出すと冷えた石の匂いに混じって昨夜の薪の甘い焦げ香が立ち上った。井戸から汲んだ水は指が痺れるほど冷たい。理恵は鍋に注ぎながら息を白く吐いた。
残りは三日。昨夜から頭の中でその数が消えない。
「理恵さん。もう起きてたんですか」
戸口に立っていたのはコリンだった。寝癖のついた髪の下で長い耳が眠たげに半分だけ垂れている。腕には羊皮紙の束とインク壺を抱えていた。
「レシピを書き留めたくて。早い方がいいかと思って」
「……早すぎない?」
「理恵さんこそ」
言い返されて理恵は小さく笑った。
「じゃあ一緒にやろうか。ミルク粥」
◇ ◇ ◇
鍋に米に似た穀物を入れて水で煮る。穀物がふっくらと開いたところで山羊の乳を注ぐ。理恵は木べらを動かしながら手順を口にした。
「火は弱めね。乳を入れたら沸騰させない。膜が張ったら味が濁るから」
「はい」
コリンは真剣な顔で羊皮紙に書きつけていく。羽根ペンが紙を引っ掻く音が湯気の向こうで続いた。
「塩はひとつまみ。甘みを足したいときは蜂蜜を最後に少しだけ」
「分量は?」
「目で見て。ねぇ、それが一番難しいか」
理恵は苦笑して匙で穀物の粒をすくった。
「柔らかさはこのくらい。歯がなくても潰れるくらいね。弱ってる人に出すものだから」
「弱ってる人……」
コリンの耳が小さく動いた。
「母にも作ってあげたいんです。村に帰ったら」
「お母さん喜ぶよ」
「理恵さんの味にできるかな」
その声には期待と不安が半分ずつ混じっていた。
◇ ◇ ◇
出来上がった粥を二つの椀に分けて理恵が先に口をつけた。
乳の優しい甘みが舌に広がる。腹の底からじんわりと温もりが回っていく感覚があった。
「できた。食べてみて」
「いただきます」
コリンも匙を口に運ぶ。ふっと肩の力が抜けた。
「おいしい……」
「でしょ」
食べ終えたコリンは懐から小さな水晶を取り出した。魔力残量計だ。覗き込んだ目が丸くなる。
「やっぱりすごい。針が一気に上がってます」
「ごはんで?」
「はい。一晩寝て半分くらいまでは戻っていたんですけど」
コリンは針の先を指でなぞった。
「今はほとんど満ちています」
コリンは理恵の顔と椀を見比べた。
「じゃあ今度は僕が作ります。見ていてください」
◇ ◇ ◇
一刻後。コリンの粥が鍋の底で静かに揺れていた。
手順はほとんど完璧だった。火加減も乳を入れるタイミングも理恵が口を挟む余地はなかった。
「どうですか」
理恵は一口すくって味見をした。
味は悪くない。むしろ優しい。けれど腹の底に落ちたときの温もりが確かに薄い。
匂いに釣られたのか戸口にイアンが現れた。書物を小脇に抱えている。目の下の隈を見れば徹夜明けなのは一目で分かった。
「少し貰う」
椀を受け取って一口含んだイアンは眉を寄せた。
「味は悪くない。だが魔力の立ち上がりが鈍い」
「分かるんですか」
「昨夜の理恵の食事と比べればな。コリン。残量計を」
コリンが差し出した水晶をイアンは握る。針は思ったほど上がっていなかった。
「材料も手順も同じだったのにね」
理恵がぽつりと言うとコリンは小さく頷いた。
コリンは自分の匙を見つめた。耳がゆっくりと下がっていく。
「僕には才能がないのかな」
「そうじゃない」
理恵は言い切った。
「手順は完璧だった。だからこれは腕の話じゃないと思う」
コリンが顔を上げる。
「どういうことですか」
「分からない。ただ」
理恵は自分の手のひらを見下ろした。あの戦いでもこの手は何も撃っていない。ただ鍋を振り続けてきただけだ。
それなのに仲間の魔力は理恵の料理でだけ巡った。
「イアンさんは何か知ってますか」
イアンは水晶を調理台に置いて眼鏡を押し上げた。
「前例はある。《固有魔力波長》が料理の媒体を通して相手の生体魔力に干渉する場合だ。調理者の波長が受け手と近いほど魔力は円滑に循環する」
「近い……」
「理恵とコリンの波長が近いわけではない。だが理恵の場合少し特殊だ」
イアンは書物の頁を指で叩いた。
「理恵は魔力を持たない。だから波長が無色に近い。無色の波長は誰の生体魔力とも衝突しない。結果として全員の魔力に最も無理なく馴染む」
「それが私の料理が効く理由?」
「仮説だ。確証はない」
イアンは声を低くした。
「ただこれは《共鳴の陣》の前提とも重なる。理恵が核になれた理由と同じ仕組みかもしれない」
理恵は息を呑んだ。
全員の魔力を束ねたあの感覚。自分は何もしていないのに皆の力が自分を通して繋がっていた。
「だとしたら」
理恵は小さく呟いた。
「日本に帰ったら私の料理はただの料理に戻るのかな」
イアンは答えなかった。答えられないのだと理恵には分かった。
「……それも含めて決めろ。三日ある」
イアンは書物を抱え直すと厨房を出ていった。残された鍋の前でコリンが黙って洗い物を始める。
「理恵さん」
「ん」
「もし理恵さんがここに残るなら僕は嬉しいです」
コリンは鍋から顔を上げずに言った。
「でも帰るなら僕は笑って送ります。粥の味が違っていてもそれは僕が練習すればいいことなので」
「コリンくん」
「十八歳ですから。そのくらいは背負えます」
洗い終えた鍋を拭きながら少年は静かに笑った。その笑顔は昨日までよりも少し大人びて見えた。
理恵は窓の外を見た。霜が溶けて朝日が硝子を白く透かしている。
残りは二日と半分。
自分の料理が誰のものなのか。この世界のものなのかそれとも自分のものなのか。
答えを探すように理恵は冷めかけた粥の鍋を見つめ続けた。
その時の理恵はまだ知らない。この疑問の答えが意外な場所で意外な人物の口から告げられることを。




