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第9話 五人の帰還、砦で見たもの

五人が発ってから六日目の夕方、理恵は宿の窓辺で、王都の空を眺めていた。


 夕焼けが、屋根瓦の連なりを赤銅色に染めている。風に乗って、市場の喧騒がここまで薄く届いていた。焼き菓子の甘い匂いが漂ってくるたび、理恵は無意識に、あの騒がしい食卓を思い出してしまう。


 この六日間、理恵はギルドでの研究協力と、宿での自炊だけを繰り返していた。フィオナとの検査は毎日少しずつ進んでいたが、決定的な進展はまだない。買い出しに出ても、市場の賑わいがどこか遠く感じられる。


 指先で窓枠の木目をなぞりながら、理恵はふと、自分の変化に気づいていた。


 ――静かすぎる。


 一人で過ごす夜も、一人で食べる食事も、日本にいた頃は当たり前のことだった。それなのに、同じはずの静けさが、今はまるで違う手触りで胸に沁みてくる。


   ◇ ◇ ◇


 その音が聞こえたのは、日が完全に沈む直前だった。


 石畳を踏む、複数の足音。聞き覚えのある、雑然とした話し声。理恵は弾かれるように窓の外を見た。


「――帰ってきた!」


 理恵は部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。宿の入り口に姿を現したのは、土埃と、かすかに焦げた匂いを纏った五人だった。


「おーい、理恵さーん! ただいまー!」


 ルークが、いつもの調子で手を振る。だが、その顔には、疲労の色が濃く滲んでいた。腕には包帯が巻かれ、鎧のあちこちに深い傷跡が残っている。


「ルークさん、その怪我!」


「かすり傷だって! いつものやつ!」


「それ、前も同じこと言って結構な出血してましたよね」


 コリンの耳が、力なく垂れている。彼自身も、頬に小さな擦り傷があった。だが、それ以上に目を引いたのは、その表情の重さだった。いつもの元気さが、どこか薄れている。


 イアンは、眼鏡のレンズに小さなひびが入ったまま、無言で荷物を下ろした。メルは、いつも通りの笑みを浮かべていたが、その笑みの端に、微かな疲労が滲んでいる。


 そして、トビアス。


 彼の纏う空気が、これまでとは明らかに違っていた。


「――お帰りなさい」


 理恵は、努めて明るく声をかけた。


「ああ」


 トビアスは、短く答えるだけだった。その目に浮かぶ色を、理恵はすぐには読み取れなかった。


   ◇ ◇ ◇


 その夜、理恵は五人のために、ありったけの食材を使って料理を作った。


 ぐつぐつと煮込んだ肉のシチュー。焼きたての薄焼きパン。市場で仕入れていた蜂蜜を使った甘い菓子。厨房いっぱいに立ち込める湯気と匂いが、久しぶりに宿の食堂を満たしていく。


「うわあ……!」コリンが、久しぶりに目を輝かせた。「これ、全部一人で作ったんですか」


「暇だったので。作りすぎちゃいました」


「いや、これは全然、多すぎるってほどじゃ――」ルークが、すでにシチューに匙を伸ばしながら言う。「むしろ、五人で食っても足りるかどうか」


「六人ですよ」


 理恵が訂正すると、ルークは一瞬きょとんとしたあと、照れくさそうに笑った。


「そうだった。六人、だな」


 食卓に、少しずつ、いつもの空気が戻ってくる。だが、それでも、どこか完全には元に戻りきらない何かが、確かにそこにあった。


   ◇ ◇ ◇


「――ノルド砦では、何があったんですか」


 食事も終盤に差し掛かった頃、理恵は思い切って尋ねた。


 場の空気が、一瞬だけ、張り詰めた。


「魔物の巣は、想定より大きかった」トビアスが、静かに口を開いた。「掃討には成功した。だが……」


「だが?」


「敵の動きが、妙だった」


 トビアスは、言葉を選ぶように続けた。


「これまでの記録では、魔族側は基本的に、侵攻的な動きを見せることが多い。だが今回、ノルド砦周辺の敵は――どちらかといえば、防衛的な布陣を取っていた」


「防衛的、というと」


「攻めてくるんじゃなくて、守ってる感じだった」ルークが、珍しく真面目な顔で補足する。「まるで、俺たちが向こうの領地に踏み込むのを、必死に食い止めようとしてるみたいに」


「単なる戦術の変化、という可能性もある」イアンが冷静に付け加える。「だが、これまでの侵攻パターンとは、明らかに毛色が違っていた」


 理恵は、その話を聞きながら、ふと、これまで聞いてきた「魔王軍は人間を滅ぼそうとしている」という説明との、微かな食い違いを感じた。


   ◇ ◇ ◇


 メルだけが、その話題の間、ずっと静かに皿を見つめていた。


「メルさん、大丈夫ですか」理恵は、その様子に気づいて声をかけた。


「うん? ああ、大丈夫だよ」


 メルは、いつもの笑みを浮かべた。だが、その声には、わずかな硬さが混じっていた。


「ただ、ちょっと考えごとしてただけ」


「考えごと?」


「魔族にも、色々事情があるんだろうな、って」


 メルは、それだけ言うと、話題を変えるように明るく笑った。


「それより、このシチュー、めちゃくちゃ美味いね。理恵ちゃん、腕上げたんじゃない?」


「褒めても、何も出ませんよ」


 理恵は、そう言いながらも、メルの視線がどこか遠くを見ていたことに、気づかないふりをした。


   ◇ ◇ ◇


 食事のあと、理恵はコリンの傷を確認しがてら、彼と少し話す時間を持った。


「コリンさん、体は大丈夫ですか」


「はい、傷自体はもう治しました。ただ……」


 コリンは、少し言葉を濁した。


「今回、味方の兵士さんたちも、結構な数、怪我をしてて。……僕、砦付きの治癒術師たちと一緒に、ずっと治療に回ってたんです」


「大変だったんですね」


「魔力飢餓には、気をつけたので、大丈夫でした」コリンは、少しだけ誇らしげに言った。「イアンさんに教わった通り、限界の兆候が出る前に、ちゃんと休憩を取るようにして」


「成長してますね」


「理恵さんのおかげです」


 コリンは、そう言って、耳を軽く持ち上げた。


「あの日、休んでいいって、教えてもらったので」


 理恵は、その言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。


   ◇ ◇ ◇


 夜も更けた頃、理恵は宿の裏手で、一人剣の手入れをしているトビアスを見つけた。


「まだ起きてたんですか」


「……ああ」


「今日の話、まだ何か、言ってないことがあるんじゃないですか」


 トビアスの手が、剣を拭う動きを止めた。


「――鋭いな」


「毎日一緒にいれば、それくらい分かります」


 トビアスは、しばらく無言だった。やがて、静かに口を開く。


「敵の中に……妙に統率の取れた一団がいた。ただの魔物じゃない。明らかに、意図を持って動く『兵』だった」


「それは、危険なことなんですか」


「危険というより……分からなくなった」


 トビアスの声は、いつもより低く、そして疲れていた。


「俺たちが戦っている相手は、本当に、俺たちが教えられてきた通りの存在なのか。……最近、時々、そう思うことがある」


 その言葉は、理恵の胸に、静かに、しかし確かに残った。


   ◇ ◇ ◇


 王都での日々は、こうして少しずつ、単なる「異世界での日常」から、もっと大きな何かへと繋がる気配を見せ始めていた。


 理恵はまだ知らない。


 この小さな違和感の一つ一つが、やがて、六人がこれまで信じてきた「戦争の意味」そのものを、根底から揺るがすことになるということを。


 だが今はまだ、その入り口に立ったばかり。


 王都の夜は、静かに更けていく。


 そして数日後、理恵の運命を大きく揺さぶる、あの知らせが――ついに、術師ギルドから届くことになる。

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