第89話 勇者紋を貫く剣
地下空洞に響く脈動は刻一刻とその速さを増していた。
魔法陣の光が壁面の導管を駆け上がり、空気そのものを青白く震わせている。焦げた魔力の匂いが喉を刺し、肌に触れる空気は焼けつくように熱かった。
「――その儀式、止めたいのであれば」
背後から静かな声が響いた。
振り返ると、二人の侍従に支えられたゼクセルが階段の上に立っていた。傍らのヴァルガが、はっと息をのんで主君を見上げる。
「兄上!」メルが叫んだ。「なぜここに」
「私の魔力が使われているのだ」ゼクセルは青ざめた顔で、しかし穏やかに言った。「ならば私自身がここに立つのが筋というものだろう」
「馬鹿なことを言わないでください!」
「メルクリウス」ゼクセルは弟を静かに見つめた。「私の命でこの戦争を終わらせられるのなら」
「やめて、兄上!」
メルの悲痛な叫びが地下空洞に響き渡った。
「――見事な覚悟だ、魔王」グレイヴが満足げに頷いた。「さあ、勇者殿」
その言葉と共に水晶が再び赤く輝く。
「ぐ――あああっ!」
トビアスの胸の紋様が灼けるような光を放った。彼は歯を食いしばりながらゆっくりと立ち上がる。
「トビアスさん!」理恵が叫ぶ。
トビアスの手の剣がゼクセルの方へと向けられた。
「――トビアス!」ルークが怒りの形相で駆け寄った。「やめろ、お前、本気か!」
「違う、体が」トビアスが苦しげに声を絞り出す。「勝手に動く」
「紋の干渉だ」イアンが杖を構えた。「このままでは本当に」
「兄上に手を出すな!」メルが結界を展開してゼクセルの前に立ちはだかる。
コリンは涙を流しながら叫んだ。
「トビアスさん、やめてください! お願いです!」
六人はトビアスを止めようと、そして彼を守ろうとそれぞれが全力で動いた。だがその動きは互いにぶつかり合い、絡まり合い、完全に統率を失っていた。
「ルーク、下がれ!」
「イアン、杖を向けるな、トビアスは操られてるだけだ!」
「じゃあどうすんだよ!」
怒号が飛び交う中、グレイヴの冷たい笑い声が響いた。
「結局、貴様らはこの程度か。仲間などという幻想はいとも簡単に崩れる」
◇ ◇ ◇
「――トビアスさん!」
理恵が人々の間をすり抜け、トビアスの前に立った。
「理恵、離れろ!」
「嫌です!」理恵は震える足で剣の切っ先の前に立ちはだかった。「勝手に一人で決めないでください! 私は、あなたに何も聞いてません!」
「――理恵」
トビアスの目がわずかに揺れた。
「戻ってきてください、トビアスさん。あなたは勇者じゃなくてもトビアスさんなんです!」
その叫びがトビアスの胸の奥深くに届いた。
「――そうか」
トビアスは苦しげに、しかし不思議なほど穏やかな声で呟いた。
「そうだったな」
次の瞬間、トビアスは剣を握る手に全身の力を込めた。
「ならば、俺は勇者をやめる」
剣が閃いた。
その切っ先が貫いたのは魔王ではなかった。
トビアス自身の胸に刻まれた《勇者紋》だった。
「――ぐあああっ!」
赤黒い光が爆ぜるように溢れ出し、胸の紋様が砕け散った。グレイヴの手の水晶がひび割れて粉々に砕ける。
「馬鹿な!」グレイヴが初めて狼狽の声を上げた。
トビアスは膝をつきながらも剣を床に突き立て、荒い呼吸の中で静かに言った。
「――これで俺は勇者じゃない」
◇ ◇ ◇
「だったら最初から説明してくださいよ!」
理恵が涙を流しながらトビアスに怒鳴った。
「失敗したら死ぬからな」トビアスは苦笑した。
「一人で勝手に死のうとしないでください!」
「怒ると思った」
「当たり前でしょう!」
理恵は泣きながらトビアスの肩を掴んだ。血の滲む胸元にコリンが慌てて駆け寄り治癒の光を灯す。
「――馬鹿が」ルークが目を潤ませながら呟いた。「本当に馬鹿な奴だ」
「ふざけるな」グレイヴが低く唸った。「勇者紋を失ったところで貴様らの状況は何も変わらん!」
「いいえ」トビアスが剣を支えにゆっくりと立ち上がった。その目にはこれまでにない迷いのない光が宿っていた。
「俺には仲間がいる」
その言葉に五人と一人がトビアスの周りに集まった。
誰も迷っていなかった。
六人と一人の本当の戦いが今、始まろうとしていた。




