第85話 決戦前夜、それぞれの祈り
丘の野営地は夜が更けるにつれ、静かな緊張に包まれていった。
遠くに見える魔王城の黒い輪郭が月明かりにうっすらと浮かび上がっている。焚き火の煙が冷えた夜気の中をまっすぐに立ち上っていた。草地に腰を下ろすと、冷たい夜露の気配が布越しにじわりと伝わってくる。
理恵は鍋の後片付けを終えたあと、一人ずつの様子をそっと窺っていた。
少し離れた場所で、ルークは一人、大剣の手入れをしていた。
いつもの快活さは鳴りを潜め、その横顔には静かな、しかし確かな覚悟が浮かんでいる。
「――ルークさん」
「ん、理恵さん」
「大丈夫ですか」
「大丈夫だって。ただ、ちょっと気合い入れてただけ」ルークは剣を見つめながら続けた。「明日、絶対みんな無事に帰らせるから」
その言葉に理恵は静かに頷いた。
コリンは少し離れた場所で薬草の調合に没頭していた。
「――コリンさん、まだやってるんですか」
「はい、少しでも回復薬の備蓄増やしておきたくて」コリンは集中した様子で答えた。「明日は誰も死なせたくないので」
その真剣な言葉に理恵は彼の成長を改めて感じた。
「――無理しすぎないでくださいね」
「分かってます。でも、今日ばかりは少しだけ無理させてください」
イアンは水晶板を前に最後の調整を重ねていた。
「《対隠形探知の陣》の出力係数を見直している」イアンは理恵に気づくと、そう説明した。「明日はヴァルガも同行する。計算式を組み直す必要がある」
「大変そうですね」
「――むしろ、やることがあって助かる」イアンは少し照れくさそうに続けた。「何もしないでいると、余計なことを考えてしまうからな」
その素直な一言に理恵は小さく微笑んだ。
メルは焚き火の傍らで一人、魔王城の方角を見つめていた。
「――メルさん」
「あ、理恵ちゃん」
「何を考えてたんですか」
「――兄上のことと、あと」メルは少し言葉を選ぶように続けた。「明日、全部が終わったあとのこと」
「終わったあと、ですか」
「うん。理恵ちゃんが、元の世界に帰るかもしれない。その現実と、ちゃんと向き合わなきゃって」
その言葉に理恵は、しばらく何も言えなかった。
ヴァルガは見張りに立ちながら静かに夜の闇を見据えていた。
「――眠らないんですか」
理恵が声をかけると、ヴァルガは静かに答えた。
「見張りは俺の仕事だ」
「交代、しましょうか」
「――気遣いは不要だ」ヴァルガはわずかに口元を緩めた。「それより、お前も休め。明日は長い一日になる」
◇ ◇ ◇
そして理恵は最後に、少し離れた場所に立つトビアスの元へと向かった。
「――トビアスさん」
「ああ」
「眠れそうですか」
「――分からない」トビアスは正直に答えた。「色々、考えることが多くて」
「明日の戦いのことですか」
「それもある」トビアスは静かに続けた。「だが、それ以上に、あんたと過ごせる時間が残り僅かかもしれない、ということの方が」
その言葉に理恵の胸が静かに震えた。
「トビアスさん」
「――すまない。柄にもないことを」トビアスは少し視線を逸らした。
「いえ」理恵は首を振った。「そういうこと、ちゃんと言ってくれて嬉しいです」
二人はしばらく無言のまま魔王城の方角を見つめていた。
「――明日、全員無事に終わらせましょう」
理恵の言葉にトビアスは静かに頷いた。
「――ああ」
その短い返事に理恵は確かな安堵を覚えた。
丘の夜は静かに更けていく。
六人と一人、それぞれの想いを胸に、この夜を過ごしていた。
誰もが明日という日に何かを懸けている。
その全てが交錯する場所へと、彼らは確かな足取りで向かおうとしていた。
東の空がわずかに白み始める頃――決戦の朝が静かに近づいていた。




