第83話 夜明け前、言えなかった言葉
出立の朝、空はまだ夜の名残を濃く残していた。
東の空にわずかな群青色が差し始めている。草地に残る夜露が足元をしっとりと湿らせていた。焚き火の残り火から炭の焦げた匂いがかすかに立ち上っている。
理恵は誰よりも早く目を覚まし、荷物の最終確認をしていた。
「――早いな」
声をかけてきたのはトビアスだった。彼もまた、ほとんど眠っていないらしく、目の下に薄い隈が見えた。
「トビアスさんこそ。眠れなかったんですか」
「――まあ、な」
トビアスは短く答えると、理恵の隣に静かに腰を下ろした。
二人の間に、しばらく沈黙が流れた。
「――理恵」
やがてトビアスが静かに口を開いた。
「はい」
「今日、魔王城に着いたら」トビアスは言葉を選ぶように続けた。「あんたの帰還の準備も整うことになる」
「そうですね」理恵は静かに頷いた。
「――もし」
トビアスはそこで一度言葉を止めた。
「もし、何か聞きたいことがあったら」
その切り出し方に理恵は少し驚いた。
「トビアスさんの隠してることについて、ですか」
「――ああ」
理恵はしばらくトビアスの横顔を見つめた。
「――聞いてもいいですか」
「聞いてくれ」
「何を隠してるんですか」
その問いにトビアスは、しばらく答えなかった。彼の視線は白み始めた空の遠くを見つめている。
「――密命が届いた」トビアスはようやく静かに語り始めた。「宰相から。魔王の事情にかかわらず討伐を遂行せよ、と」
「――それって」理恵は息をのんだ。「もう無効になったんじゃ」
「宰相の権限は停止された」トビアスは頷いた。「だが、あの密命自体が取り消されたわけじゃない」
「じゃあ、まだ」
「正式には生きている命令だ」トビアスは静かに続けた。「だが、それに従うつもりはない」
その言葉に理恵は少し安堵した。だが、トビアスの表情には、まだ何か言い切れていない重さが残っていた。
「――それだけじゃ、ないですよね」
理恵の問いにトビアスは一瞬、迷うような色を見せた。
「――ああ」
「もう一つ、あるんですね」
トビアスはしばらく無言のまま空を見上げていた。
「――理恵」
「はい」
「それは、今は言えない」
その答えに理恵は少し落胆した。だが、その声の奥に滲む何か覚悟めいた響きに、理恵はそれ以上問い詰めることをやめた。
「――でも約束してください」
理恵はまっすぐにトビアスを見つめた。
「いつか必ず話してくれますか」
その問いにトビアスは、しばらく理恵を見つめ返した。
「――約束する」トビアスは静かに、しかし確かに頷いた。「全てが終わったら」
「全てが終わったら」理恵はその言葉を静かに繰り返した。
東の空が少しずつ明るさを増していく。
「――トビアスさん」
「何だ」
「無理はしないでくださいね」理恵は静かに続けた。「あなたが無事でいてくれること。それが私にとって一番大事なので」
その言葉にトビアスは一瞬、目を見開いた。
「――ああ」
その短い返事には、これまでのどんな言葉よりも深い確かな重みが込められているように理恵には感じられた。
◇ ◇ ◇
やがて他の四人も目を覚まし始めた。
「――おはよう、二人とも!」
ルークの元気な声に理恵とトビアスは揃って振り返った。
「今日は、いよいよだな」
「はい」理恵は頷いた。「頑張りましょう」
「おう!」
朝食を終えた六人は荷物をまとめ、魔王城へと続く街道に足を踏み出した。
理恵は歩きながら、先ほどのトビアスとの会話を静かに反芻していた。
密命の存在は明らかになった。だが、まだもう一つの秘密が彼の中に残されている。
その正体が何であるのか。そして、それがこれから六人の運命に、どのような影を落とすことになるのか。
理恵には、まだその全貌を知る由もなかった。
朝日が少しずつ街道を照らし始めていた。
六人の最後の進軍が今、静かに始まろうとしていた。




