第82話 最後になるかもしれないので、何が食べたいですか
出立の朝を翌日に控えた夜、六人が囲む野営地は、王都の外れ、小高い丘の上にあった。
眼下に広がる王都の灯りが夜空の星々と呼応するように、ちらちらと瞬いている。焚き火の爆ぜる音が静かな夜に、ぱちりと響いた。風が運んでくるのは冬の気配を含んだ、冷たく澄んだ匂いだった。
理恵は鍋に手をかけたまま、しばらく動けずにいた。
「――あの」
理恵は思い切って口を開いた。
「最後になるかもしれないので、聞いておきたいんです」
その切り出し方に五人の表情が一瞬強張った。
「何が食べたいですか」
その問いに、しばらく沈黙が落ちた。
「――おい、縁起でもないこと言うなよ」ルークが困ったように笑った。だが、その声には理恵の気持ちをちゃんと受け止めている響きがあった。
「でも、せっかくだから答えるか」
「俺は」ルークが少し考えてから言った。「最初の夜、あんたが作ってくれた、あのトマトと干し肉のスープ。あれがいいな」
「全部の始まりの味、ですね」理恵は静かに微笑んだ。
「ああ。あれがなかったら、今の俺たちはないからな」
「僕は」コリンが続けた。「あの夜食のミルク粥、お願いしたいです。母の味を思い出させてくれた、あれ」
「覚えてます」理恵は頷いた。「蜂蜜たっぷりで」
「はい」コリンは少し照れくさそうに笑った。
「俺は」イアンが眼鏡を押し上げながら言った。「あの質素なスープがいい」
「学生時代の、あれですか」
「ああ。今の俺にとっては、もう寂しい記憶の味じゃない」イアンは静かに続けた。「あんたと分かち合った記憶の味に変わったから」
その言葉に理恵の胸が静かに熱くなった。
「僕は」メルがいつもの調子で、しかしどこか優しい声で言った。「理恵ちゃんと一緒に、紅胡椒を使った、あの煮込みをまた食べたいな」
「人間と魔族の料理を混ぜたやつ、ですね」
「うん。あれは僕にとって特別な意味を持つ料理になったから」
その答えに理恵は静かに頷いた。
四人の答えを聞き終えたあと、理恵は静かにトビアスの方を見た。
「――トビアスさんは」
その問いにトビアスは、しばらく黙っていた。
「――君が食べたいもの」
その答えに理恵は一瞬言葉を失った。
「それじゃ答えになってないですよ」
「――いや」トビアスは静かに続けた。「俺には特別な記憶の味というものがない。だから、あんたが今食べたいと思うものを作ってくれ。それが俺にとっての答えだ」
その言葉に理恵は、しばらく何も言えなかった。
やがて静かに頷く。
「――分かりました」
◇ ◇ ◇
理恵は持っていた全ての食材を使い、大きな鍋で一つの料理を作り始めた。
トマトと干し肉。ミルクと蜂蜜。質素な根菜。紅胡椒。
それぞれの思い出が詰まった食材を一つの鍋に丁寧に重ねていく。
「――これは」
完成した料理を見てルークが目を丸くした。
「皆さんの思い出を全部混ぜてみました」理恵は少し照れくさそうに笑った。「縁起でもないとか言わないでくださいね」
六人はその大鍋を囲んで座った。
誰も冒険のことは話さなかった。恋愛のことも世界の命運のことも。
ただ、くだらない話だけをしていた。
「――あ、俺の肉!」
ルークが鍋から肉を取ろうとした瞬間、コリンが素早くそれを横取りした。
「僕が先に見つけてました!」
「いや、俺が先に狙ってた!」
「子供みたいな喧嘩、やめてください」イアンが呆れたように口を挟む。「それより野菜をちゃんと食え。栄養が」
「分かってるって!」ルークが不満げに根菜を頬張った。
「――ふふ」
メルがこっそりと、誰かの水筒からワインらしきものを盗み飲みしていた。
「メルさん、それ僕のです!」コリンが気づいて声を上げる。
「ばれたか」メルはいつものように軽く笑った。
その賑やかなやり取りに理恵は思わず声を上げて笑った。
そして理恵はふと気づいた。
少し離れた場所で、トビアスが珍しく声を立てて笑っていた。
その表情は、これまで見てきたどんな彼とも違っていた。
賑やかな食卓の只中で、理恵はふと思った。
――この時間が終わるのが嫌だ。
その想いは、これまでのどんな感情よりもはっきりと、強く理恵の胸に刻まれていた。
だが、それが誰への想いなのか。
理恵には、まだその答えを見出すことができずにいた。
焚き火が静かに燃え続けている。
王都の灯りが眼下に変わらず瞬いていた。
明日、六人は魔王城へと向かう。
この賑やかな食卓が最後になるのか、それとも新たな始まりの一夜になるのか、その答えはまだ誰にも分からなかった。




