第7話 術師ギルド本部、転移の痕跡
術師ギルド本部は、王都の中でもひときわ異彩を放つ建物だった。
石造りの外壁に、幾重にも重なる魔法陣の彫刻が施されている。近づくと、肌にぴりぴりと刺すような感覚が走った。結界の圧――そう教えられなければ、理恵には何が起きているのか分からなかっただろう。建物の中からは、微かに、金属と薬草を混ぜたような、鼻の奥にツンとくる独特の匂いが漂ってくる。廊下を歩けば、あちこちから聞き慣れない詠唱の声や、器具のこすれる音が響いていた。
支部からの紹介状を手に、理恵たちは本部三階の一室へと通された。
窓から差し込む光は、無数の魔石が反射して、部屋全体をうっすらと青白く染めている。床には、複雑な幾何学模様の魔法陣が薄く刻まれ、歩くたびに靴底からかすかな振動が伝わってくるような気がした。
「――お待ちしておりました」
部屋の奥から現れたのは、白衣に似た法衣を纏った、痩身の女性だった。年齢は四十代半ばだろうか。銀縁の眼鏡の奥で、鋭い目がまっすぐに理恵を見据えている。
「術師ギルド本部、異界事象研究室の室長を務めております、フィオナ=クレスタです」
「友田理恵です。よろしくお願いします」
フィオナは、理恵の全身を、まるで珍しい標本でも観察するような目で見回した。
「異世界からの転移者に直接お会いできるのは、実に十七年ぶりですね」
「十七年……そんなに珍しいんですか」
「珍しい、というより、記録が極端に少ないのです。多くの場合、転移者は消息不明のまま――」フィオナはそこで言葉を切り、軽く咳払いをした。「失礼。あまり気持ちの良い話ではありませんね」
その言葉に、理恵の背筋が、少しだけ冷えた。
◇ ◇ ◇
「まず、簡単な検査をさせていただきます」
フィオナは、床の魔法陣を指し示した。
「そこに立って、少しの間動かないでいてください」
理恵が言われた通りに立つと、魔法陣がふわりと淡い光を帯びた。光の粒子が足元から立ち上り、理恵の体をゆっくりと包んでいく。
「これは……何をしてるんですか」
「転移痕跡の解析です」フィオナは水晶板に何かを書き留めながら説明する。「異世界からの転移には、必ず、術式の残滓――『痕跡』が体に残ります。これを解析することで、どのような形式の転移が発生したのかを推測できます」
「痕跡って、目に見えないものなんですよね」
「ええ。だからこそ、この解析用の魔法陣が必要になるのです」
光が理恵の全身を巡ったあと、ふっと消える。フィオナは水晶板に浮かび上がった文字を、しばらく難しい顔で見つめていた。
「……興味深い」
「何か、分かったんですか」
「あなたの転移痕跡には、通常のものとは異なる特徴があります」フィオナは眼鏡を押し上げた。「多くの転移事例は、こちら側から意図的に発動された召喚術式によるものです。しかし、あなたのケースは――」
「私のケースは?」
「発生源が、こちら側にない」
部屋の空気が、一瞬、張り詰めた。
「つまり……偶発的な現象だった、ということですか」トビアスが横から尋ねる。
「その可能性が高い、としか、現時点では言えません」フィオナは慎重に言葉を選んだ。「意図的な召喚であれば、術式の主導者――召喚者側にも、必ず痕跡が残るはずです。ですが、こちらの世界には、それに該当する記録が一切ない」
理恵は、その説明を聞きながら、あの夜――コンビニ帰りの、なんでもない火曜日を思い出していた。
誰かが自分を呼んだわけではない。
偶然、事故のように、この世界に落ちてきた。
◇ ◇ ◇
「では、帰る方法は……」理恵は、恐る恐る尋ねた。
フィオナは、しばらく考えるように沈黙してから答えた。
「率直に申し上げます。現時点では、確立された帰還術式は存在しません」
その一言に、理恵の胸が、静かに沈んだ。
「ですが」フィオナは続けた。「不可能だと断定するつもりもありません。《ゲート・リバーサル》――転界術式は、理論上は双方向に作用しうるものです。あなたの転移が偶発的だったということは、逆に言えば、こちらから意図的に『帰還のためのゲート』を開く研究の、貴重な検証材料になる」
「私が、その研究の……」
「はい。もちろん、危険を伴う可能性のある検査には、事前に十分な説明と同意をいただきます。無理強いするつもりはありません」
理恵は、隣に立つトビアスをちらりと見た。彼は、腕を組んだまま、じっとフィオナの話に耳を傾けている。その表情からは、何を考えているのか読み取れなかった。
◇ ◇ ◇
「一つ、伺ってもよろしいですか」
口を開いたのは、意外にもイアンだった。彼は資料室で得た知識を頼りに、専門的な質問を投げかけた。
「転界術式の理論において、《魔力供給源》の確保が最大の課題だと聞いています。個人の魔力量では、到底足りないはずですが」
「その通りです」フィオナが頷く。「王都最大級の魔力炉を用いても、安定したゲートを開くには、まだ出力が不足しています。加えて――」
フィオナは、少し声を落とした。
「異世界間の座標特定という、さらに困難な課題もあります。ただゲートを開くだけでは、どこに繋がるか分からない。下手をすれば、まったく見当違いの場所――最悪の場合、生命の維持できない環境に繋がってしまう可能性すらある」
理恵は、思わず息を呑んだ。
「危険な研究なんですね……」
「ええ。だからこそ、慎重に進める必要があります」
イアンは、眼鏡の奥の目を鋭く光らせた。
「その研究に、俺も協力させてもらえないだろうか」
「イアンさん?」
「俺は攻撃魔術師だが、魔力制御の理論には人一倍こだわってきた自負がある。座標特定の課題についても、心当たりがある文献がいくつかある」
フィオナは、少し驚いたように目を見開いたあと、小さく笑った。
「――歓迎します。人手は、いくらあっても足りませんので」
理恵は、イアンの横顔を見つめた。
いつも理屈っぽく、口うるさく栄養管理の話をしてくる彼が、こんな真剣な顔をするのを、初めて見た気がした。
◇ ◇ ◇
検査を終え、術師ギルド本部を出る頃には、夕暮れが王都の空を橙色に染めていた。
「思っていたより、話が大きくなりましたね」理恵は、少し疲れたように呟いた。
「重荷に感じる必要はない」トビアスが言った。「あんたが望まないなら、いつでも断っていい」
「いえ、そういう意味じゃなくて」理恵は首を振った。「ただ、自分が『帰れるかもしれない』っていう可能性が、こんなに具体的な形になるとは思ってなかったので」
その言葉に、トビアスは何も返さなかった。
ただ、隣を歩くその横顔に、理恵はまた、あの日聖堂の前で見たのと同じ、微かな緊張の色を見た気がした。
◇ ◇ ◇
「――イアン、本気か」
宿への帰り道、ルークがイアンの肩を小突いた。
「攻撃魔術師のお前が、研究職に首突っ込むなんて、らしくないな」
「別に、専門外というわけじゃない」イアンは眼鏡を押し上げながら、少しむきになったように答えた。「魔力理論は、全ての術式の基礎だ。転界術式の研究は、俺の専門とも無関係じゃない」
「素直に『理恵さんのために頑張りたい』って言えばいいのに」メルが横から茶々を入れる。
「な、何を言い出すんだ、お前は」
「図星?」
「違う! ……いや、まったく無関係だとは言わないが」
「ツンデレってやつだな、こりゃ」ルークがにやにやと笑う。
「ツンデレとは何だ、その語彙は」
いつもの掛け合いに、理恵は思わず笑ってしまった。重苦しかった心が、少しだけ軽くなる。
◇ ◇ ◇
その夜、理恵は宿の部屋で一人、今日聞いた話を反芻していた。
――帰れるかもしれない。
その可能性は、確かに嬉しいはずだった。日本にいる家族、積み重ねてきた日常、置いてきたままの仕事。それら全てに、もう一度手が届くかもしれない。
なのに、なぜだろう。
窓の外に見える王都の夜景を眺めながら、理恵の心には、喜びと同じくらいの重さで、名前のつけられない何かが沈んでいた。
この五人と過ごした、まだたった一週間ほどの日々。
その短さに見合わないほど、この場所は、理恵の中で確かな重みを持ち始めていた。
◇ ◇ ◇
研究への協力は、これから定期的に続いていくことになる。
帰還への道筋が、少しずつ、しかし確実に姿を現し始めている。
だが理恵はまだ知らない。
その研究が進めば進むほど、六人の間に流れる空気が、少しずつ変わっていくということを。
そして、いつか訪れるはずの「本当の答え」が出たとき、この六人の食卓に、これまでにない沈黙が訪れることになるということも。
王都での日々は、静かに、しかし着実に、次の局面へと進み始めていた。




