第6話 王都の休日、それぞれの用事
王都で迎える最初の朝は、宿の窓から差し込む光の質からして、これまでの野営とはまるで違っていた。
薄い硝子越しに、朝日が柔らかく部屋を満たしている。窓の外からは、荷馬車の車輪が石畳を叩く音、露店の呼び込み、鳥籠から漏れる小鳥のさえずりが幾重にも重なって聞こえてきた。宿の一階からは、パンを焼く香ばしい匂いが階段を伝って上がってくる。理恵は寝台の上で伸びをしながら、その匂いに誘われるように体を起こした。
布団――というより、薄い羊毛の毛布だが――の感触は、荒野で使っていた外套よりもずっと柔らかい。指先で軽く撫でると、繊維の粗さがそのまま伝わってきた。
「贅沢だなあ……」
思わず声が漏れる。たった数日前まで石の上で眠っていたことを思えば、これだけで十分な幸福だった。
◇ ◇ ◇
朝食の席で、トビアスが今日の予定を切り出した。
「今日は、それぞれ自由行動にする」
「珍しいですね」理恵はパンを千切りながら言った。「いつも一緒に行動してるのに」
「王都にいる間くらいは、各自の用事を片付けたい。……装備の手入れ、資料集め、色々とな」
「俺は武具屋に行く!」ルークが真っ先に手を挙げた。「盾の留め具が緩んでたんだよな。ついでに新しい砥石も欲しいし」
「僕は治療院に顔を出してきます」コリンが続く。「回復薬の在庫が心許ないので、補充させてもらわないと」
「俺は学院の資料室だ」イアンが眼鏡を押し上げながら言う。「《転移現象》について、独自に調べておきたいことがある」
その一言に、理恵の胸が小さく跳ねた。
「何か分かったら、教えてください」
「……分かったらな。過度な期待はするな」
「分かってます」
メルだけは、少し違うことを言った。
「僕は、ちょっと街をぶらぶらしてくるよ。……懐かしい店とか、見てみたくてね」
その言い方に、理恵はふと引っかかりを覚えた。任務でたまに訪れる場所、というだけにしては、「懐かしい」という言葉の響きが、妙に個人的な色を帯びているように聞こえたのだ。
「メルさん、王都に来たことあるんですか」
「んー、まあ、ちょっとね」
メルは曖昧に笑うだけで、それ以上は答えなかった。
◇ ◇ ◇
「私は、市場で買い出しをしてきます」理恵は席を立ちながら言った。「今夜の分の食材が心許なくて」
「なら、俺が付き合う」
トビアスが、当然のように立ち上がった。
「え、いいんですか。トビアスさんも用事があるんじゃ」
「俺の用事は、王城への報告だ。それは午後でいい」
こうして、理恵はトビアスと二人で、王都の市場へ向かうことになった。
◇ ◇ ◇
市場は、朝から大変な活気に満ちていた。
露店にずらりと並ぶ野菜は、理恵の知る品種とは微妙に色形が違うものも多い。紫がかった芋、棘だらけの果実、見たこともない香草の束。売り子たちの威勢のいい声が、あちこちから飛び交っている。
「これ、何て野菜ですか」
理恵が指さしたのは、ごつごつとした赤い塊だった。
「ロゼ芋だ。加熱すると甘みが強くなる。この辺りでは定番の食材だな」
「トビアスさん、料理にも詳しいんですか」
「詳しくはない。……ただ、任務でこの辺りを歩くことが多かっただけだ」
二人で歩きながら、理恵はふと、通りすがりの老人が交わしている会話に耳を留めた。
「――また税が上がるらしいぞ」
「戦費だとよ。魔王討伐とやらに、いつまで金を吸われるんだか」
「勇者様がいるんだから、さっさと終わらせてほしいもんだ」
その声には、これまで理恵が感じていた「勇者を英雄視する空気」とは、少し違う響きが混じっていた。
「……今の、聞きました?」
理恵が小声で尋ねると、トビアスは表情を変えずに頷いた。
「戦争が長引けば、国民の不満も溜まる。……当然のことだ」
「トビアスさんは、それ、気にならないんですか」
「気にしないわけがない」
トビアスの声が、わずかに低くなった。
「だが、俺一人がどれだけ焦っても、戦況はそう簡単には変わらない。……できることを、一つずつやるしかない」
その横顔には、理恵がまだ見たことのない種類の疲れが滲んでいるように見えた。
◇ ◇ ◇
買い出しを終えた帰り道、二人は小さな聖堂の前を通りかかった。
白い石造りの建物からは、微かに香が焚かれる匂いが漂っている。入口の脇には、簡素な法衣を纏った老齢の司祭が、通りすがりの人々に会釈をしていた。
「勇者様、お久しゅうございます」
「ダリウス司祭」トビアスが軽く頭を下げる。「息災そうで何よりだ」
「こちらの方は?」司祭の視線が理恵に向く。
「連れの者だ。異世界からの転移者で、俺たちのパーティーに加わっている」
「ほう、これはこれは」
司祭は興味深そうに理恵を見つめると、聖堂の壁に掲げられた紋章を指し示した。
「ご存知ですかな。この世界の魔法には、大きく分けて二つの系統があります」
「二つ、ですか」
「一つは《魔術》。自然界に満ちる魔力を、術者自身の技量で編み上げる力です。攻撃魔法も、多くの回復魔法も、こちらに含まれます」
司祭は、次に自らの胸に手を当てた。
「もう一つが《聖術》。これは、神から授けられた祝福を媒介とする力でしてな。王国聖堂が管理する特別な儀式によってのみ、人に宿すことができます」
「トビアスさんの胸にある、あの紋も……その聖術に含まれるんですか」
司祭は、なるほど、というように微笑んだ。
「ご存知なかったか。あれは《勇者紋》――正式には《ヴァリアント・シール》と呼ばれる、聖術の中でも最も高位の紋様です」
司祭は、穏やかな口調のまま、しかしどこか意味深に続けた。
「神が与えたもう祝福――そう伝えられておりますが……ふふ、まあ、詳しいことは聖堂の中でも一部の者しか知りませぬ」
その言葉に、トビアスの肩が、わずかに強張ったのを、理恵は見逃さなかった。
「司祭、そろそろ行く」
「これは、お引き止めして失礼を。……勇者様、どうかご自愛を」
司祭は深く頭を下げると、聖堂の中へと戻っていった。
◇ ◇ ◇
宿への帰り道、理恵は先ほどの会話が、頭の中で引っかかったままだった。
「――トビアスさん」
「何だ」
「聖術って、王国が『管理する』ものなんですね」
「……そうだ」
「それって、つまり」
「その先は、今は聞かないでくれ」
トビアスの声は、いつもより硬かった。理恵はそれ以上踏み込まず、ただ黙って隣を歩いた。
だが、その沈黙の中に、確かに何か――彼がまだ誰にも話していない事情が、横たわっているような気がしてならなかった。
◇ ◇ ◇
夕方、宿に戻ると、すでにルークとコリンが戻ってきていた。
「見ろよ、これ! 新しい盾の留め具!」ルークが得意げに掲げる。
「僕も、回復薬をたっぷり補充してきました」コリンが背負い袋を叩く。
少し遅れて、イアンも資料室から戻ってきた。分厚い書物を何冊も抱えた彼は、珍しく興奮した様子だった。
「収穫はあったんですか」理恵が尋ねると、イアンは頷いた。
「《ゲート・リバーサル》――転界術式に関する古い論文を見つけた。まだ理論段階のものだが……いくつか、参考になりそうな記述がある」
「本当ですか!」
「過度な期待はするな。実用化には程遠い」イアンは念を押すように言った。「だが、可能性がゼロではない、ということだ」
その言葉に、理恵の胸に小さな灯りが点った。
◇ ◇ ◇
メルだけが、日が暮れてしばらく経ってから、遅れて宿に戻ってきた。
「メルさん、遅かったですね」
「ちょっと、道に迷っちゃってさ」
その笑顔は、いつも通り軽やかだった。だが理恵は、その足取りにわずかな疲れが滲んでいることに気づいていた。まるで、誰にも言えない何かを見てきたかのような。
「……何かあったんですか」
「何にも」メルは肩をすくめた。「強いて言うなら、王都の飯屋より、理恵ちゃんの飯の方が美味いって、再確認しただけかな」
「口が上手いですね」
「よく言われる」
その軽口の裏に、微かな翳りがあったことに、この時の理恵は、まだ気づけなかった。
◇ ◇ ◇
その夜の食卓は、いつも以上に賑やかだった。
新しい留め具の話、補充した回復薬の種類、資料室で見つけた古い論文――それぞれが今日一日の成果を披露し合い、笑い声が絶えなかった。
だが理恵の心のどこかには、今日聞いた三つの言葉が、静かに沈んでいた。
税に苦しむ国民の声。
聖術という力の、王国による「管理」。
そして、メルの足取りに滲んでいた、正体の分からない疲労。
どれも、まだ形を持たない小さな違和感に過ぎない。だが、その違和感が、いつかこの六人の旅路に、大きな影を落とすことになるのではないか――理恵には、そんな予感が、拭いきれずに残っていた。
王都の夜は更けていく。
そしてその数日後、理恵はついに、術師ギルド本部から呼び出しを受けることになる。
彼女の運命を大きく揺さぶる知らせが、すぐそこまで迫っていた。




