第61話 黒嶺領境界、変わる空気
国境の最前線を越えた先に広がっていたのは、これまでとはまるで違う風景だった。
地面を覆う草は、心なしか黒みを帯び、踏みしめるたびに、乾いた軋むような感触が足裏に伝わってくる。空気は重く、鼻の奥に、これまで嗅いだことのない、鉄と土の混じった匂いが纏わりついた。遠くの空は、常に薄い紫の靄がかかったように霞んでいる。時折、獣とも呼べない、低く不気味な音が、風に乗って響いてきた。
「――ここからが、黒嶺領だ」
トビアスが、地図を確認しながら、低く言った。
◇ ◇ ◇
今回の任務は、魔王軍の動きを探るための、偵察行だった。術師ギルドから提出された「転界の触媒」の情報を受け、王国上層部が、より直接的な情報収集を求めていた。
「――理恵さんは、大丈夫ですか」
コリンが、心配そうに、理恵の顔を覗き込んだ。
「はい、平気です。……ちょっと、空気が違いますね」
「魔族領特有の、瘴気混じりの空気だ」イアンが、水晶板で数値を確認しながら言った。「人体に、即座に害はないが、長時間の滞在は、推奨されない」
◇ ◇ ◇
その頃から、理恵は、メルの様子に、微かな違和感を覚え始めていた。
「――ここまで踏み込むのは、俺たちも、初めてだな」トビアスが、周囲を警戒しながら言った。「境界の向こうは、これまで、防衛戦しか経験してこなかった」
ルークとイアンも、慣れない土地を探るように、地形を注意深く確かめながら、ゆっくりと足を進めていた。その中で、メルだけが、迷いのない足取りで、獣道を選んでいく。
「――メルさん、この辺り、詳しいんですか」
理恵は、思わず尋ねた。
「あ……いや、勘、みたいなものかな」
メルは、いつものように、軽く笑って誤魔化した。だが、他の四人が慎重に歩を進める中、その足取りだけは、確信に満ちていた。
◇ ◇ ◇
夕方、一行が、小さな渓谷を進んでいたとき、前方から、魔物の唸り声が響いた。
「――来るぞ!」
ルークが、大剣を構える。だが、姿を現した魔物は、こちらに向かってくることなく、むしろ、怯えたように、後ずさりを始めた。
「――逃げた?」コリンが、不思議そうに呟いた。
その魔物の視線が、一瞬、メルの方に向いていたことに、理恵は、気づいていた。
◇ ◇ ◇
「――今の、変じゃなかったか」
その夜、野営の準備をしながら、ルークが、小声で、理恵に話しかけてきた。
「魔物が、逃げたことですか」
「いや、それだけじゃなくて」ルークは、少し、声を潜めた。「メルの方、見てから、逃げてった気がしてさ」
理恵は、何も答えられなかった。だが、その胸には、これまで感じてきた、幾つもの小さな違和感が、静かに積み重なり始めていた。
◇ ◇ ◇
その夜、理恵が焚き火の番をしていると、遠くから、魔族語らしき、聞き慣れない言葉のやり取りが、微かに聞こえてきた。恐らく、近くを通りがかった、魔族の斥候だろう。
「――何を、言ってるんでしょうね」
理恵が呟くと、隣にいたメルが、一瞬、体を強張らせた。
「――さあ」
メルは、そう答えたが、その視線は、明らかに、声のした方角を、注意深く追っていた。まるで、その言葉の意味を、正確に理解しているかのように。
◇ ◇ ◇
「――メルさん、大丈夫ですか」
理恵が、心配そうに声をかけると、メルは、はっとしたように、いつもの笑顔を取り戻した。
「あ、うん、平気平気」
「顔色、悪いですよ」
「そう見える?」メルは、力なく笑った。「……ちょっと、この辺りの空気、僕には、合わないのかもね」
その言葉の意味を、理恵は、まだ、正確には理解できなかった。
だが、これまでの様々な違和感が、今、確かな輪郭を持ち始めていることだけは、はっきりと感じ取っていた。
◇ ◇ ◇
その夜、理恵は、寝付けないまま、静かに夜空を見上げていた。
メルの、迷いのない足取り。
魔物が、彼を見て怯えたこと。
そして、魔族語らしき言葉に、明らかな反応を見せたこと。
その一つ一つが、これまでの彼の、意味深な言葉の数々と、静かに繋がっていくのを、理恵は感じていた。
――メルさんは、一体、何者なんだろう。
その問いの答えが、これから、どんな形で明らかになるのか。理恵には、まだ、その全貌を、知る由もなかった。
黒嶺領の夜空には、人間の国では見たことのない、紫がかった月が、静かに浮かんでいた。




