第53話 転界の触媒、フィオナの警告
## 第53話 転界の触媒、フィオナの警告
王都に戻った一行が向かったのは、真っ先に術師ギルド本部だった。
地下三階の研究室には、いつもと変わらず、魔石の淡い光が満ちている。だが、理恵の胸には、これまでにない緊張が、重くのしかかっていた。案内された部屋の空気は、どこか薬品めいた匂いを帯び、足を踏み入れるたびに、床の魔法陣が微かに振動を伝えてくる。
「――転界の触媒、ですか」
事情を聞いたフィオナは、しばらく、考え込むように黙っていた。
「聞き覚えは、ある言葉です」フィオナは、慎重に切り出した。「――古い禁術に関する記録の中に、似た表現が、残っています」
◇ ◇ ◇
「どんな、記録なんですか」理恵が尋ねると、フィオナは、書架から、一冊の古びた書物を取り出した。
「《転界術式》は、本来、世界と世界の境界を、一時的に緩める術式です」フィオナは、ページをめくりながら説明した。「だが、その境界を緩める際、特定の条件を満たした存在が、『触媒』として機能することがある、と記されています」
「特定の条件、って?」
「――異世界からの転移者そのもの、というのが、最も有力な説です」フィオナは、静かに続けた。「あなたの体そのものが、境界を緩める『鍵』として、利用される可能性がある」
◇ ◇ ◇
その説明に、理恵の背筋が、冷たくなった。
「つまり、魔王軍は……私を使って、何かの術式を、発動させようとしてるってことですか」
「可能性の話です」フィオナは、慎重に言葉を選んだ。「ですが、無視できる可能性ではありません」
「――何のために、境界を緩める必要があるんだ」トビアスが、険しい声で尋ねた。
フィオナは、少し、言いにくそうな表情を浮かべた。
「――最悪の想定としては」フィオナは、静かに告げた。「異世界から、こちらの世界へ、大規模な何かを、呼び込むため」
◇ ◇ ◇
「大規模な、何か」イアンが、眉をひそめながら繰り返した。「魔物の群れか、それとも」
「分かりません」フィオナは、首を振った。「だからこそ、これは、あくまで最悪の想定として、聞いてください」
その場に、重い沈黙が落ちた。
「――理恵を、これ以上、危険に晒すわけにはいかない」トビアスが、静かに、しかし確かな声で言った。
◇ ◇ ◇
「対策は、あるんですか」ルークが、腕を組みながら尋ねた。
「一つ、考えられるのは」フィオナは、慎重に答えた。「あなたの帰還を、予定より早める、という選択肢です」
その言葉に、理恵は、思わず、息をのんだ。
「元の世界に帰ってしまえば、少なくとも、この世界にいる限りの危険は、回避できます」フィオナは、続けた。「もちろん、まだ、実用化には、時間がかかりますが……優先度を、上げることは、可能です」
◇ ◇ ◇
その提案に、部屋の空気が、再び、張り詰めた。
理恵は、五人の顔を、順番に見た。
ルークの、複雑な表情。
コリンの、耳を垂れさせた不安げな様子。
イアンの、あえて感情を見せまいとする硬い顔。
メルの、これまでになく、真剣な眼差し。
そして、トビアスの、何かを堪えるような、静かな沈黙。
◇ ◇ ◇
「――決めるのは、理恵だ」
トビアスが、静かに言った。
「あんたの安全が、最優先だ。だが、その選択も、あんた自身が決めるべきことだ」
その言葉に、理恵は、静かに頷いた。
「少し、考えさせてください」
「もちろんです」フィオナが、頷いた。
◇ ◇ ◇
その夜、理恵は、宿の窓辺で、一人、夜空を見上げていた。
自分の存在が、この世界にとって、危険の引き金になるかもしれない。
その事実は、これまでのどんな戦闘よりも、理恵の心に、重くのしかかっていた。
だが、同時に、理恵の胸には、簡単には割り切れない、もう一つの想いも、確かに存在していた。
――この六人と、まだ、一緒にいたい。
その願いと、皆の安全という現実。
その狭間で、理恵の心は、静かに、しかし確かに、揺れ続けていた。
王都の夜は、いつもと変わらず、静かに更けていく。
だが、その静けさの向こうで、理恵の運命を左右する、大きな選択の時が、確かに近づいていた。




