第47話 穿影の刃、理恵を狙う影
国境近くの森は、昼間でも薄暗かった。
頭上を覆う木々の枝が日差しを遮り、地面には濃い影が幾重にも落ちている。踏みしめる下草はしっとりと湿り、腐葉土の匂いが足元から立ち上ってきた。時折、木の葉が擦れる音が響くたび、理恵は肩をびくりと震わせた。空気そのものが、これまでの野営地とは違う重みを帯びているように感じられる。
一行は、詰所からの偵察任務を兼ねて、森の奥へと足を踏み入れていた。
「――静かだな」
ルークが、大剣の柄に手をかけたまま呟く。
「静かすぎる」トビアスが、鋭い声で応じた。「全員、警戒を怠るな」
◇ ◇ ◇
異変は、前触れなく訪れた。
「――理恵、下がれ!」
トビアスの叫びと同時に、理恵のすぐ背後の茂みが、音もなく揺れた。
振り返る間もなく、黒い影が、理恵の目の前に現れていた。全身を覆う漆黒の装束。顔の下半分を覆う布の隙間から覗く、爬虫類を思わせる冷たい眼光。手には、細身の短剣が、鈍く光っていた。
「――貴様が、《食料供給源》か」
その声は、感情の一切を排した、平坦な響きだった。
◇ ◇ ◇
「――ヴァルガ!」
メルの叫びとともに、結界の光が、理恵を包み込む。だが、その光は、次の瞬間、あっさりと切り裂かれた。
「な――」
「――結界術式ごときで、俺の刃は防げん」
ヴァルガの短剣が、理恵に向かって振り下ろされる。
「させるか!」
トビアスの剣が、間一髪でそれを弾いた。金属同士がぶつかる甲高い音が、森に響き渡る。
◇ ◇ ◇
「理恵さんを狙うなんて――!」
コリンの声が上ずる。だが、ヴァルガの動きは、常人の目で捉えきれないほど速かった。
「――《隠形》を解けば、この程度の速度は出せる」ヴァルガが、淡々と告げる。「見えていた俺は、余力を残していただけのこと」
その言葉に、理恵の背筋が凍りついた。これまで、砦や街道で目撃されていたヴァルガは、本気ですらなかったということだ。
◇ ◇ ◇
「イアン、援護を!」トビアスが叫ぶ。
「――《フレイム・ランス》!」
イアンの放った炎の槍が、ヴァルガへと殺到する。だが、彼はそれを、最小限の動きでかわしてみせた。
「なぜ、ここまでして、俺を狙う!」トビアスが、剣を構え直しながら怒鳴った。
「貴様らではない」ヴァルガが、静かに言う。「狙いは、最初から、その女一人だ」
◇ ◇ ◇
その一言に、理恵は、頭が真っ白になった。
――自分が、狙われている。
その事実の重さが、これまでのどんな戦闘よりも、深く、鋭く、理恵の胸に突き刺さった。
◇ ◇ ◇
「――なぜ、理恵を!」
トビアスの問いに、ヴァルガは、答えなかった。代わりに、彼の姿が、再び影に溶けるように、薄れていく。
「隠形が――!」イアンが叫ぶ。
「囲め! 感覚を頼りに、位置を絞れ!」
トビアスの指示で、五人が、理恵を中心に、円陣を組み始めた。だが、それは、これまでの戦闘陣形とは、まったく違う形だった。
攻撃を担うはずのルークとイアンが、理恵の周囲を固める守りに回り、本来なら遊撃を担うメルの結界が、絶えず張り直され続ける。コリンの回復が、途切れることなく、全員に降り注ぐ。
それは、六人の力を、最大限に発揮する陣形では、決してなかった。
◇ ◇ ◇
「――ぐっ!」
突如、影の中から放たれた斬撃が、ルークの肩を掠めた。
「ルークさん!」
「平気だ、こんなの!」
だが、その傷は、決して浅くはなかった。血が、地面に、ぽたぽたと滴り落ちる。
「コリン、ルークを!」
「はい――《ライトヒール》!」
コリンの光が、傷を塞いでいく。だが、その間にも、ヴァルガの気配は、四方から絶えず、六人を揺さぶり続けていた。
◇ ◇ ◇
「――このままじゃ、削られるだけだ」
イアンが、荒い息の合間に、そう分析した。
「あいつの狙いは、俺たちを疲弊させて、隙を作ることだ。……理恵を守りながらじゃ、まともに反撃できない」
その分析は、理恵の心に、これ以上ないほど、重くのしかかった。
――自分がいるから、みんなが、本来の力を発揮できない。
その事実を、これほどまでに、痛烈に突きつけられたのは、初めてだった。
◇ ◇ ◇
戦闘は、なおも続いた。
メルの結界が、幾度となく破られては、張り直される。トビアスの剣が、影の中から放たれる刃を、辛うじて捌き続ける。ルークの傷は、コリンの治癒が追いつかないほどに、増えていった。
「――くそ、キリがない!」
ルークが、苛立ちを滲ませながら叫ぶ。
「持ちこたえろ! 必ず、隙は生まれる!」
トビアスの声にも、これまでにない、切迫した色が滲んでいた。
◇ ◇ ◇
その時、理恵は、自分の足が、震えていることに気づいた。
戦えない。逃げることすらできない。
ただ、守られることしかできない自分の存在が、今、この瞬間、五人の命を、確実に削っている。
その現実が、理恵の心を、これまでにないほど深く、抉っていった。
◇ ◇ ◇
やがて、ヴァルガの気配が、不意に、遠ざかっていった。
「――今日のところは、これで、退くとしよう」
その声を最後に、森の中には、静寂が戻った。
◇ ◇ ◇
全員が、その場に、崩れるように座り込んだ。
ルークの肩からは、まだ血が滲んでいる。コリンの顔は、青白く、魔力を使いすぎた疲労が、はっきりと表れていた。イアンの息は荒く、メルの結界を張り続けた手は、微かに震えている。
トビアスだけが、剣を構えたまま、油断なく周囲を見回していた。
だが、その全員が、無事とは、決して言い難い状態だった。
◇ ◇ ◇
理恵は、その光景を、ただ、呆然と見つめていた。
自分が、ここにいたから。
自分を守ろうとしたから。
五人は、これほどまでに、傷ついた。
その事実が、理恵の胸の中で、これまでのどんな感情よりも重く、静かに、しかし確実に、形を成していった。
――このままでは、いけない。
その思いが、理恵の中に、初めて、はっきりとした輪郭を持って、芽生え始めていた。
森の奥に、夕暮れの光が、静かに差し込み始めていた。
そして、この日の出来事が、これから、理恵と六人の関係を、大きく揺るがす、決定的な引き金になるということを――この時の理恵は、まだ、その全貌を、知らなかった。




