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第45話 特にない、という空白

王都の宿の食堂は、夜も更け、静まり返っていた。


 窓の外では、月明かりが、石畳を淡く照らしている。厨房から、まだ微かに、夕食の残り香――香草と、煮込んだ肉の匂い――が漂っていた。理恵が椅子に腰掛けると、木製の座面から、日中の賑わいの名残のような、かすかな温もりが伝わってくる。壁掛けの魔道具のランプが、ぱちり、と小さな音を立てて、灯りを一段落とした。


 片付けを終えた理恵は、まだ席に残っていたトビアスの向かいに、静かに腰を下ろした。


   ◇ ◇ ◇


「――トビアスさんにも、聞いていいですか」


 理恵は、思い切って切り出した。


「ルークさんにも、コリンさんにも、イアンさんにも、メルさんにも……皆さんの、食べ物にまつわる思い出、聞かせてもらいました」


「――そうらしいな」


「トビアスさんは、どうですか。……子供の頃、好きだった料理とか、家庭の味とか」


 その問いかけに、トビアスは、しばらく、何も答えなかった。


   ◇ ◇ ◇


「――特にない」


 その答えは、以前と、まったく同じものだった。だが、今の理恵には、その言葉の重さが、以前とは違う形で、はっきりと伝わってきた。


「本当に、何も、ないんですか」


「――ああ」


 トビアスは、静かに、続けた。


「物心ついたときには、もう、《勇者候補生育成施設》にいた。……そこでの記憶しか、俺にはない」


   ◇ ◇ ◇


「育成施設、って、どんな場所だったんですか」


 理恵が尋ねると、トビアスは、少し考えるように、間を置いた。


「――規律の厳しい場所だった」トビアスは、静かに語り始めた。「食事は、あくまで、体を鍛えるための栄養補給。……時間も、量も、厳密に管理されていた」


「味は」


「――覚えていない」


 その一言に、理恵は、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


   ◇ ◇ ◇


「家族と、囲む食卓とか、そういうもの自体が、俺には、経験としてない」トビアスは、続けた。「食事は、いつも、施設の食堂で、同じ年頃の候補生たちと、黙々と摂るものだった」


「一緒に食べてた子たちとは」


「仲間、という感覚は、なかった」トビアスは、静かに答えた。「皆、いずれ、勇者の座を競う、いわば、ライバルだった。……馴れ合いは、推奨されていなかった」


   ◇ ◇ ◇


「それって」理恵は、震える声で、続けた。「すごく、寂しいことじゃ、ないですか」


「――どうだろうな」


 トビアスは、少し困ったように、答えた。


「比較する対象がないから、寂しいのかどうかすら、正直、よく分からない。……それが、当たり前だと、思って育ってきたから」


 その言葉に、理恵は、これまで感じてきた、彼の中の「空白」の正体を、はっきりと理解した。


   ◇ ◇ ◇


「――でも」


 トビアスは、そこで、一度、言葉を止めた。


「あんたと過ごすようになってから」


「はい」


「食事という時間が、単なる栄養補給じゃないことを、初めて、知った」トビアスは、まっすぐに、理恵を見つめた。「誰かと、笑いながら、時に言い争いながら、同じ食卓を囲む。……そういう時間が、こんなにも、確かな意味を持つものだとは、思わなかった」


   ◇ ◇ ◇


「トビアスさんにとって」理恵は、静かに、しかし、はっきりとした声で、尋ねた。「私の作る料理は、どんな、味がしますか」


 その問いに、トビアスは、しばらく、考え込んだ。


「――家庭の味、というものを、俺は、知らない」トビアスは、静かに答えた。「だが、もし、それが、どんな味なのか、と聞かれたら」


「はい」


「――今、あんたが作ってくれる、その味だと、答えると思う」


 その言葉に、理恵は、胸の奥が、これまでにないほど、大きく震えるのを感じた。


   ◇ ◇ ◇


「――つまり」理恵は、努めて、明るい声で言った。「私の料理が、トビアスさんにとっての、初めての『家庭の味』ってことに、なるんですね」


「――そうなる、のかもしれない」


 トビアスは、少し照れくさそうに、しかし、確かに、頷いた。


「なら」理恵は、静かに、微笑んだ。「これからも、たくさん、作りますね。……家庭の味って、一回だけじゃなくて、何度も、積み重ねていくものだと思うので」


 その言葉に、トビアスは、これまで見せたことのない、柔らかな表情を浮かべた。


   ◇ ◇ ◇


「――ありがとう」


 その短い一言に、理恵は、これまでのどんな長い言葉よりも、深い、確かな想いが込められていることを、感じ取った。


   ◇ ◇ ◇


 その夜、理恵は、寝台に横たわりながら、今日聞いた話を、静かに反芻していた。


 勇者候補生育成施設。競い合うだけの、仲間のいない食卓。家庭の味という概念そのものを、知らずに育った少年。


 その過去が、今の、静かで、感情を表に出さない、トビアスという人物を、確かに形作っているのだと、理恵は、改めて理解した。


 そして、同時に、理恵の中に、一つの、確かな願いが芽生えていた。


 ――この人に、これから先も、ずっと、当たり前の食卓の温かさを、感じていてほしい。


 その願いが、恋愛感情と呼べるものなのか、理恵には、まだ、はっきりと言葉にすることができなかった。


 だが、確かに、これまでのどんな感情よりも、深く、静かな、確かなものが、理恵の胸に、宿り始めていた。


   ◇ ◇ ◇


 五人それぞれの、食べ物にまつわる記憶。


 それを辿る旅は、こうして、一つの、大きな核心に辿り着いた。


 だが、この物語は、まだ、その先へと続いていく。


 メルの抱える、まだ明かされていない秘密。


 トビアスの中に眠る、勇者紋の、本当の意味。


 そして、理恵自身の中で、静かに育ち始めている、まだ名前のつかない感情。


 その全てが、これから、六人の旅路を、さらに大きく、揺さぶっていくことになる。


 王都の夜は、静かに、しかし確かに、更けていく。


 そして、六人の物語は、いよいよ、次の、大きな局面へと、足を踏み入れようとしていた。

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