第44話 忘れたな、メルの沈黙
## 第44話 忘れたな、メルの沈黙
王都の市場の一角に、これまで理恵が足を踏み入れたことのない、小さな一画があった。
異国情緒漂う布が、軒先に幾重にも垂れ下がっている。並べられた品々からは、これまで嗅いだことのない、刺激的で、どこか濃密な香辛料の匂いが立ち上っていた。異なる言語で書かれた値札の文字が、木箱の上に、不揃いに並んでいる。触れると、ざらりとした粒状の感触が指先に残る、見慣れない香辛料の山が、いくつも積まれていた。周囲の喧騒とは、また違う、独特の静けさが、この一画にだけ漂っているように感じられた。
「――ここ、《異境の市》っていうんです」
案内してくれたコリンが、説明してくれた。「黒嶺領や、その先の異国から流れてきた品を扱う、専門の一画です」
「魔族領由来のものも、あるんですか」
「はい。……戦争中とはいえ、商人の間じゃ、細々とした取引は、続いてるみたいで」
◇ ◇ ◇
その一角を歩いていたとき、理恵は、ふと、メルの足が止まっていることに気づいた。
「メルさん?」
メルの視線は、一軒の露店に並ぶ、赤黒い色をした、乾燥した香辛料の束に、じっと向けられていた。
「――どうかしました?」
「――いや」
メルは、そう言いながらも、その香辛料から、目を離せずにいた。
◇ ◇ ◇
「これ、知ってるんですか」
理恵が、思い切って尋ねると、メルは、一瞬、迷うような表情を見せた。
「……昔、どこかで、見た気がするだけだよ」
「どこかで、って」
「さあ」メルは、いつもの、軽い調子に、慌てて戻ろうとした。「思い出せないな」
◇ ◇ ◇
その夜、理恵は、思い切って、メルに尋ねてみることにした。
「――メルさんの、故郷の料理って、どんなものだったんですか」
その質問に、メルは、少しの間、答えなかった。
「みんなに、聞いて回ってるんだね、最近」
「はい。……ルークさんも、コリンさんも、イアンさんも、色々、教えてくれたので」
「そっか」
メルは、いつもの笑みを浮かべながら、しかし、その目は、どこか遠くを見ているようだった。
◇ ◇ ◇
「――忘れたな」
その一言は、これまでの三人の、丁寧な思い出話とは、明らかに違う響きを持っていた。
「本当に、ですか」
「本当だよ」メルは、あっさりと答えた。「昔のことは、あんまり、覚えてないんだ」
その答えに、理恵は、何かが、引っかかった。
◇ ◇ ◇
「――昼間、市場で見てた、あの香辛料」
理恵が、静かに切り出すと、メルの表情が、わずかに、強張った。
「あれも、忘れちゃったんですか」
「……理恵ちゃん」
メルの声が、いつもより、少しだけ、低かった。
「詮索しないでいてくれるの、理恵ちゃんの、良いところだと思ってたんだけどな」
その言葉に、理恵は、はっとした。
◇ ◇ ◇
「――ごめんなさい」
理恵は、素直に、謝った。
「踏み込みすぎました」
「――いや」
メルは、しばらく、沈黙したあと、静かに、首を振った。
「謝るのは、僕の方だ。……そんな、強い言い方、する必要、なかったのに」
「いえ、私が」
「違うんだ」メルは、遠くを見ながら、静かに続けた。「本当は、話したいことも、ある。……でも、今は、まだ、その時じゃない気がして」
◇ ◇ ◇
「――待ってます」
理恵は、静かに、そう答えた。
「メルさんが、話したくなるまで。……前にも、言いましたよね」
その言葉に、メルは、しばらく、理恵を見つめていた。
やがて、彼は、これまで見せたことのない、どこか、泣きそうな笑みを浮かべた。
「――本当に、ずるいな、理恵ちゃんは」
「それも、前に、言われました」
「そうだったね」
メルは、小さく笑うと、いつもの調子に、戻ろうとした。だが、その笑顔の奥に、これまでよりも、少しだけ、深い翳りが、確かに残っていた。
◇ ◇ ◇
「――一つだけ」
メルが、去り際に、ぽつりと言った。
「僕の故郷の料理は……多分、理恵ちゃんが思ってるより、ずっと、複雑な味がすると思う」
「複雑、って?」
「甘いとか、辛いとか、そういう単純な話じゃなくて」メルは、静かに続けた。「……色んな事情が、絡み合った、複雑な味、っていう意味で」
その言葉の意味を、理恵は、その時、まだ、正確には理解できなかった。
だが、その言葉の奥に、これまでの彼の言動全てと繋がる、大きな何かが、隠されているような、確かな予感を覚えた。
◇ ◇ ◇
その夜、理恵は、今日のメルの様子を、静かに思い返していた。
異境の市で見せた、あの反応。
「忘れたな」という、明らかに、本心ではない、あの言葉。
そして、「複雑な味」という、意味深な一言。
その全てが、理恵の中で、まだ、はっきりとした形にはならない、しかし確かな、不穏な予感として、静かに積み重なっていった。
残るは、トビアスの記憶。
その「特にない」という言葉の裏にある真実が、これから、どのように明らかになっていくのか――理恵には、まだ、その全てを、知る由もなかった。
王都の夜は、今夜もまた、静かに、しかし確かな緊張を孕みながら、更けていく。




