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第43話 安いスープの味、イアンの学生時代

王都に戻った一行は、そのまま、術師ギルド本部へと足を運んでいた。


 地下三階への道すがら、理恵は、ふと、上層階の一角に、古びた木の扉があることに気づいた。《学院附属研究室》と刻まれている。扉の隙間からは、古い紙とインクの匂いが、微かに漏れ出していた。壁に並ぶ、埃を被った書架からは、かすかに、乾いた木材の匂いも混じっている。足音が、静かな石造りの廊下に、こつり、こつりと反響していく。


「――ここ、俺が、学生時代、通っていた場所だ」


 イアンが、その扉を見つめながら、静かに呟いた。


   ◇ ◇ ◇


「懐かしいですか」


 理恵が尋ねると、イアンは、少し複雑な表情を浮かべた。


「――懐かしい、というより」


「というより?」


「あまり、良い思い出が多い場所、ではない」


 その答えに、理恵は、少し驚いた。


   ◇ ◇ ◇


 その夜、宿に戻った理恵は、イアンのために、簡素なスープを用意していた。


「――これ、なんか、随分、質素だな」


 ルークが、鍋を覗きながら、不思議そうに言った。


「今日は、イアンさんのために、作ってるので」


「俺の、ため?」


 イアンが、怪訝そうに尋ねる。


「学院時代、こういうスープ、よく食べてたんじゃないかなって、思って」


 その言葉に、イアンの表情が、わずかに、動いた。


   ◇ ◇ ◇


「――どうして、それを」


「以前、学院での思い出が、あまり良くないって、言ってたので」理恵は、静かに続けた。「もし、良かったら、聞かせてもらえますか」


 イアンは、しばらく、無言だった。やがて、彼は、諦めたように、小さく息を吐いた。


   ◇ ◇ ◇


「――俺の家は、貴族でも、裕福でもなかった」イアンは、静かに語り始めた。「学院に通うための金は、奨学金と、割の良い研究補助の仕事で、なんとか、賄っていた」


「大変だったんですね」


「大変というより、単純に、時間が足りなかった」イアンは、続けた。「研究にも、勉強にも、補助の仕事にも、時間を割かなければならない。……食事にかける時間も、金も、最低限しかなかった」


   ◇ ◇ ◇


「それで、毎晩、こういうスープを?」


「そうだ」イアンは、頷いた。「安い根菜と、少しの塩だけで作る、味も何もないスープだ。……それを、研究室の隅で、書物を読みながら、一人で、かき込む。それが、学生時代の、毎晩の光景だった」


「一人で、ですか」


「同期の学生たちは、皆、実家が裕福な者が多かった」イアンは、少し自嘲するように続けた。「彼らは、食事も、仲間内で、賑やかに済ませていた。……俺は、その輪に、うまく入れなかった」


   ◇ ◇ ◇


「――寂しかった、ですか」


 理恵の問いかけに、イアンは、少し驚いたように、理恵を見た。


「――寂しい、というより、慣れていた、というべきか」


「慣れるって、寂しいことですよね、それ」


 その指摘に、イアンは、また、しばらく無言になった。


「――そうかもしれない」


 彼は、そう答えると、静かに、目の前のスープに、口をつけた。


   ◇ ◇ ◇


「――同じスープなのに」


 しばらくして、イアンが、ぽつりと呟いた。


「今は、なぜか、味がする」


「良かったです」


「あんたが、隣にいるから、なのか」イアンは、少し戸惑うように続けた。「……単純に、味付けの技術の差なのか、俺には、正直、判断がつかない」


「両方、じゃないですかね」


 理恵の答えに、イアンは、少しだけ、口元を緩めた。


   ◇ ◇ ◇


「――当時、あんな環境でも、研究だけは、続けられた」イアンは、静かに続けた。「魔力理論に、没頭している間だけは、寂しさを、感じずに済んだから」


「それが、今の、研究熱心なイアンさんに、繋がってるんですね」


「そうなのかもしれない」イアンは、頷いた。「だが、今は、少し、違う」


「違う、というと」


「研究に没頭するのは、寂しさを埋めるためじゃない」イアンは、まっすぐに、理恵を見た。「あんたを、安全に、元の世界へ帰すため。……それが、今の、俺の原動力だ」


 その言葉に、理恵は、静かに、胸が熱くなるのを感じた。


   ◇ ◇ ◇


「――ありがとうございます、イアンさん」


「礼を言われることじゃない」


 イアンは、いつもの調子で、少しぎこちなく答えた。だが、その耳の先には、確かな赤みが、差していた。


   ◇ ◇ ◇


 その夜、理恵は、イアンの過去を、静かに思い返していた。


 孤独な学生時代。誰にも頼れなかった、寂しい夜のスープ。


 その記憶が、彼の、几帳面で、理屈っぽい性格の、確かな土台になっているのだと、理恵は、改めて理解した。


 五人それぞれの記憶を辿るたびに、理恵の中で、彼らへの理解が、少しずつ、深く、確かなものになっていく。


 だが、その先に、まだ、二人分の記憶が、残されている。


 メルの、「忘れた」という、あの曖昧な答え。


 そして、トビアスの、「特にない」という、あの、静かな空白。


 その二つの記憶に、これから、どんな真実が、隠されているのか――理恵には、まだ、知る由もなかった。


 王都の夜は、今夜もまた、静かに更けていく。

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