第40話 トビアスとの夜、月下の約束
テルマ・リュネでの最後の夜、宿の裏手にある小さな露天の湯船のそばに、誰もいない、静かな縁側があった。
湯船から立ち上る湯気が、月明かりを受けて、淡く銀色に輝いている。岩肌を伝う湯の音が、さらさらと、絶え間なく響いていた。夜風は、昼間よりもいくらか冷たく、頬に触れるたびに、湯気の温もりとの対比を、より鮮明にしている。硫黄の匂いに混じって、どこからか、夜咲きの花の、甘く控えめな香りが漂ってきていた。
「――少し、いいか」
声をかけてきたのは、トビアスだった。
◇ ◇ ◇
「明日には、王都へ戻る」
湯船を見渡せる縁側に、少し距離を置いて腰掛けながら、トビアスが、静かに切り出した。二人とも、湯上がりの、普段着に近い格好のままだった。
「――くじ、引かなかったですね、トビアスさん」
理恵が、思い切って尋ねると、トビアスは、少し困ったように、視線を逸らした。
「――どこに連れて行けばいいか、分からなかった」
「そうなんですか?」
「ルークには、故郷の味がある。コリンには、屋台巡りがある。イアンには、知的好奇心を満たす場所があって、メルには……」
トビアスは、そこで、一度言葉を止めた。
「俺には、あんたに見せたい、特別な景色も、教えたい特技も、何もなかった」
◇ ◇ ◇
「それは」理恵は、少し考えてから、続けた。「悪いことじゃないと、思いますよ」
「――どうしてだ」
「みんな、それぞれの形で、自分の好きなものや、大事なものを、教えてくれました。……それは、すごく嬉しかったです」理恵は、静かに続けた。「でも、トビアスさんは、いつも、違う形で、一緒にいてくれてます」
「違う、形?」
「皿洗いとか、荷物運びとか、見張りの夜のごはんとか」理恵は、微笑みながら言った。「特別なイベントじゃなくて、当たり前の毎日を、一緒に過ごしてくれる。……それも、十分すぎるくらい、特別なことだと思います」
◇ ◇ ◇
その言葉に、トビアスは、しばらく、何も言わなかった。
やがて、彼は、月明かりに照らされた湯気を見つめながら、静かに口を開いた。
「――子供の頃の記憶が、ほとんどない、という話は、前にしたな」
「はい」
「だから、ずっと、分からなかった」トビアスは、続けた。「家族と過ごす時間とか、故郷の味とか、そういうものが、俺には、比較する対象すら、存在しない」
「それは」
「だが」トビアスは、理恵の方を、まっすぐに見た。
「この数ヶ月、あんたと過ごした、何気ない時間の積み重ねが……もしかしたら、俺にとっての、それに近いものなのかもしれない、と思うようになった」
その言葉に、理恵の胸が、大きく跳ねた。
◇ ◇ ◇
「――変なことを、言ったか」
理恵の沈黙に、トビアスが、少し不安げに尋ねる。
「いえ」理恵は、首を振った。「すごく、嬉しいこと、言ってもらった気がします」
「そうか」
「はい」
二人は、しばらく、無言のまま、湯気の向こうに浮かぶ月を、共に見つめていた。
◇ ◇ ◇
「――一つ、聞いていいか」
「はい」
「もし、いつか、あんたが、元の世界に戻ったとして」
トビアスの声が、少しだけ、掠れていた。
「その先の人生で、こういう、何気ない時間を、思い出すことは、あると思うか」
その問いかけに、理恵は、しばらく、じっと考えた。
「――絶対に、あると思います」
「――そうか」
「忘れられるはずが、ないですから」
理恵は、静かに、しかし、はっきりと、そう答えた。
◇ ◇ ◇
「――理恵」
「はい」
「あんたが、いつか、食べたいと思うものが、この世界にあったなら」
トビアスは、少し言葉を選ぶように、続けた。
「いつでも、言ってくれ。……作れるようになる、とは、約束できないが」
「それ、私が作る側になる流れですよね、絶対」
その突っ込みに、トビアスは、珍しく、声を立てて笑った。
「――ばれたか」
「ばれますよ、それは」
その笑い声が、湯気の向こうに、静かに溶けていく。
◇ ◇ ◇
「――トビアスさんこそ」
理恵は、思い切って、尋ねてみた。
「もし、食べてみたい味とか、あったら、いつでも、言ってください。……作りますから」
「――そうだな」
トビアスは、少し考えるように、間を置いた。
「今度、考えておく」
その答えは、これまでの彼らしく、まだ、はっきりとした形を持っていなかった。だが、理恵には、その曖昧さの中に、確かな、これからへの約束が、込められているように感じられた。
◇ ◇ ◇
夜が更け、二人は、それぞれの部屋へと戻っていった。
理恵は、寝台に横たわりながら、今夜、交わした言葉の数々を、静かに反芻していた。
派手さはない。分かりやすい告白でもない。
だが、その不器用な言葉の一つ一つが、理恵の胸に、これまでのどんな出来事よりも、深く、静かに、沈んでいくのを感じていた。
◇ ◇ ◇
翌朝、六人は、テルマ・リュネを発ち、再び、王都への道を歩き始めた。
湯煙に包まれた町並みが、少しずつ、遠ざかっていく。
この数日間で、五人それぞれとの間に生まれた、新しい関係の形。
それは、まだ、はっきりとした言葉にはなっていない。だが、確かに、これまでとは違う、新しい局面へと、静かに動き始めていた。
理恵はまだ知らない。
この温泉都市で芽生えた、それぞれの想いが、これから、六人の旅路を、どのように彩っていくことになるのかを。
そして、王都へ戻った先で、五人の過去――それぞれが抱えてきた、まだ語られていない記憶が、少しずつ、明らかになっていくということも。
テルマ・リュネの湯煙が、朝日の中に、静かに溶けていった。
六人の旅は、次なる局面へと、確かな一歩を踏み出していた。




