第4話 初めての魔物、初めての無力感
ミレイユの町を出てから半日ほど歩くと、街道は深い森へと差し掛かった。
頭上を覆う木々の枝が、朝の光を細かく切り刻んでいる。地面に落ちる木漏れ日は、歩くたびにちらちらと揺れて、まるで金色の粒が降り注いでいるようだった。空気は町の喧騒とは違い、ひんやりと湿っていて、腐葉土と青草が混じったような、濃い緑のにおいがする。踏みしめる地面はやわらかく、時折、根っこにつまずきそうになる感触が足の裏に伝わった。どこか遠くで、聞いたことのない鳥の声が、甲高く尾を引くように響いている。
「街道とはいえ、この森は魔物の出没が多い区間だ」
先頭を歩くトビアスが、剣の柄に軽く手をかけながら言った。声のトーンが、町中を歩いていたときとは明らかに違う。抑えた低さの中に、張り詰めた緊張が滲んでいた。
「魔物、ですか」理恵は思わず周囲を見回す。「どんなのが出るんですか」
「牙狼種が多い」ルークが答えた。「群れで来ることもあるけど、この辺りなら大した数じゃないはずだ」
「たいらげてこそ、勇者パーティーの名折れなしってな!」
「気楽に言うな」イアンが眼鏡の奥から睨む。「油断は最大の敵だ」
「分かってるって」
軽口を叩き合う二人の空気は、いつも通りだった。だが理恵は、その裏側で全員の歩調がわずかに変わっていることに気づいていた。ルークの手が剣の柄から離れない。イアンの杖の先が、常に周囲を探るように動いている。コリンの耳が、ぴくぴくと絶えず周囲の音を拾おうとしている。
いつもの騒がしい旅の空気の中に、薄く、刃物のような緊張が混じっていた。
◇ ◇ ◇
異変は、唐突に訪れた。
茂みが大きく揺れたかと思うと、灰色の毛並みをした獣が、地を這うように飛び出してきた。全長は大型犬の倍近くあり、口からは涎混じりの唸り声が漏れている。牙は理恵の手のひらほどの長さがあった。
「牙狼だ! 三頭!」
イアンの声が鋭く響く。
理恵は、その姿を見た瞬間、体が固まった。頭の中は真っ白で、何をすればいいのかすら分からない。足が地面に縫い付けられたように動かず、心臓だけが耳のすぐ後ろで鳴っているような、奇妙な感覚があった。
「理恵、下がれ!」
トビアスの声が飛んだ瞬間、彼の体が理恵の前に滑り込んだ。抜き放たれた剣が、一頭目の牙狼の突進を真横から薙ぎ払う。金属と獣の悲鳴が入り混じった音が、森の中に反響した。
「ルーク、右!」
「おうよ!」
ルークが大剣を振りかぶり、二頭目に叩きつける。地面が抉れるほどの一撃に、獣が怯んだ隙を、イアンの放った炎の一撃が追撃した。
「――《フレイム・ジャベリン》!」
杖の先から放たれた炎の槍が、牙狼の胴を貫く。焦げた獣の匂いが、森の緑の香りに混じって鼻を突いた。
三頭目が、混乱に紛れて理恵の方へ牙を剥く。
理恵は、動けなかった。
武器もない。魔法も使えない。ただの一般人。異世界に来て二日目に思い知った事実が、今、これ以上ないほど重くのしかかってくる。
「――させるか!」
トビアスの体が、再び割り込んだ。理恵を庇うように片腕で押し出し、もう一方の手で剣を振るう。牙狼の首筋を的確に捉えた一撃が、獣の動きを完全に止めた。
静寂が戻るまで、ものの数十秒だった。だが理恵にとっては、永遠にも近い時間に感じられた。
◇ ◇ ◇
「大丈夫か」
トビアスが、剣を鞘に収めながら振り返る。理恵は、へたり込むようにその場に座り込んでいた。
「……はい。怪我は、してません」
声が、自分でも分かるほど震えていた。
「怖かった、か」
「はい」理恵は素直に頷いた。「本当に、何も出来なくて。ただ突っ立ってるだけで」
「それでいい」
「え」
「あんたが盾になろうとしたら、俺たちの方が困る」トビアスは淡々と言った。「戦うのは、俺たちの役目だ。あんたの役目は違う」
その言葉に、理恵は少しだけ救われた気がした。だが同時に、心のどこかで小さな棘のようなものが刺さったのも事実だった。
――守られるだけの存在で、いいのだろうか。
その疑問は、この時はまだ、形になるほどの重さを持っていなかった。
◇ ◇ ◇
「ルークさん、その傷!」
理恵が気づいたのは、戦闘が終わったあとだった。ルークの二の腕から、赤い血がじわりと滲んでいる。
「ああ、これ? かすり傷だって」
「かすり傷って血、結構出てますけど」
「コリン、頼む」
「はい!」
コリンが駆け寄り、傷口に両手をかざす。淡い緑がかった光が、その手のひらから溢れ出した。
「――《ライトヒール》」
光が傷口を包み込むと、みるみるうちに裂けた皮膚が閉じていく。理恵は、その光景に思わず息を呑んだ。
「すごい……」
「回復術は、こういう浅い傷なら、一瞬で治せます」コリンが、額の汗を拭いながら説明する。「体の中に元々ある治癒の力を、外から加速させるイメージです。傷そのものを消すんじゃなくて、体が本来持ってる『治ろうとする力』を、何倍にも早める感じ」
「じゃあ、どんな怪我でも治せるんですか」
「いえ」コリンは首を振った。「失った腕とか、完全に壊れた内臓とか……体の中に『元に戻る土台』が残ってない怪我は、治せません。あくまで、体が自分で修復できる範囲を、早めているだけなので」
「それに」イアンが横から付け加える。「回復術も、当然、術者の魔力を消費する。さっきみたいな戦闘直後に連発すれば、コリン自身が魔力飢餓に近づく。……昨日の教訓を思い出せ」
「分かってますよ、それくらい」コリンは苦笑した。「今ので、これくらいの傷一つですから。大丈夫です」
理恵は、その説明を聞きながら、ふと気づいた。
この世界の魔法は、決して万能ではない。できることと、できないことが、はっきりと線引きされている。そしてその線引きの中で、彼らは命を懸けて戦っている。
◇ ◇ ◇
その夜、森を抜けた先の野営地で、理恵は焚き火の前で膝を抱えていた。
夕食の支度をする気力が、いつもよりわずかに湧かない。今日見た光景――牙を剥く獣、飛び散る血、そして何もできなかった自分――が、まだ頭の中に焼き付いていた。
「理恵さん」
声をかけてきたのは、コリンだった。隣にちょこんと座り、長い耳を心なしか垂れさせている。
「今日は、怖かったですよね」
「……うん、正直」
「僕も、最初の頃はそうでした」コリンは、遠くを見るような目をした。「回復術師なのに、前線に出れば、結局は誰かが傷つくのを見てるだけの時間の方が長いんです。治せるのは、傷ついた『あと』だけだから」
「コリンさんでも、そう思うんだ」
「思いますよ。……でも」
コリンは、少しだけ笑った。
「理恵さんは、傷ついた『あと』じゃなくて、その前から、僕らを支えてくれてます。ごはんを作って、休ませて、話を聞いてくれて。それって、戦闘の中でしか役に立てない僕らには、できないことなんです」
理恵は、その言葉を、しばらく黙って噛みしめた。
◇ ◇ ◇
少し離れた場所で、火の番をしていたトビアスが、静かにこちらの様子を見ていた。
剣を膝の上に置いたまま、彼の目は、コリンと話す理恵の横顔をじっと追っている。
「――何を見てるんだ」
隣に腰を下ろしたメルが、からかうように囁いた。
「何も見てない」
「そう?」メルは肩をすくめて、火に小枝をくべた。「今日、あんな風に体を張って庇うなんて、珍しいね。いつものトビアスなら、もっと『効率』を優先しそうなのに」
トビアスの手が、わずかに止まった。
「……あいつは、戦力じゃない」
「だから庇う価値がある、ってこと?」
「そうだ」
「ふうん」
メルは、それ以上追及しなかった。ただ、火の向こうで小さく笑っただけだった。
その笑みの意味に、トビアス自身、まだ気づいていない。
◇ ◇ ◇
翌朝、旅は再び動き出す。
森を抜けた先に広がっていたのは、なだらかな平原だった。遠く、地平線の向こうに、うっすらと城壁らしき影が見え始めている。
「あれが……」
「王都だ」トビアスが言った。「あと二日で着く」
理恵は、その遠い輪郭を見つめながら、昨日感じた無力感と、コリンにかけられた言葉を、同時に思い出していた。
戦えない自分にできることは、確かにある。
だが同時に、この世界には、理恵がまだ知らない危険が、これからも数え切れないほど待っているはずだ。
王都に着けば、元の世界へ帰る方法が見つかるかもしれない。
その知らせが、理恵の心をどれほど揺さぶることになるのか――そして、その夜の食卓に流れる、奇妙な沈黙のことを、この時の理恵は、まだ知らない。
遠くに見える城壁を目指して、六人は平原を歩き続けた。




