第3話 初めての町と、正式な契約
町の名は、ミレイユといった。
石畳の道は夕暮れの光を吸って、うっすらとオレンジ色に染まっている。両脇に並ぶ家々は白い漆喰の壁に赤茶けた屋根瓦を載せていて、窓辺には干した香草の束がいくつも吊るされていた。近づくにつれ、焼きたてのパンの匂いと、屋台の油の匂い、そしてどこかで焚かれている香のにおいが入り混じって漂ってくる。遠くで鳴っている鐘の音が、石壁に反響しながら夕刻を告げていた。
理恵は、その音の響き方にすら異世界を感じた。日本の教会の鐘とは、どこか違う。低く、長く、地面まで届くような重みのある音だった。
「わあ……」
思わず声が漏れる。石畳を踏む足の裏に伝わる硬さも、コンクリートのそれとは微妙に違っていた。踏みしめるたびに、靴底から石の凹凸がじかに伝わってくる。
「初めて見る町か」
トビアスが横に並んで歩きながら聞いてくる。
「はい。異世界の町並みなんて、想像でしか知らなかったので」
「王都はもっと大きい。ここは、国境沿いの中継地みたいなものだ」
「それでもこんなに賑やかなんですね」
市場らしき通りに差し掛かると、活気は一段と増した。露店の商人が野菜を積み上げ、大声で客を呼び込んでいる。武器屋の店先には、剣や槍が所狭しと並べられ、その隣の店には見たこともない色の魔石が箱いっぱいに陳列されていた。
「あれは何ですか」理恵は青白く光る石を指さす。
「魔石だ」歩きながらイアンが答える。「魔力を蓄えられる鉱物でな。魔道具の動力源になったり、術式の触媒として使われたりする。純度によって値段が大きく変わる」
「魔道具っていうのは」
「魔法の力を、術者じゃなくても扱えるように加工した道具のことだ。たとえば――」
イアンは足を止め、露店の一つに並んでいた小さなランタンを指した。
「あれは灯火の魔道具だ。中に低純度の魔石が仕込んであって、微弱な魔力を流すだけで灯りがつく」
「魔法の才能がない人でも、ですか? ……私、鑑定で適性なしって出ましたけど」
「それとこれとは、話が別だ」イアンは眼鏡の位置を直しながら続けた。「生きている人間は、才能の有無に関係なく、体内にごく微量の魔力――生体魔力と呼ばれるものを持っている。心臓が動くのと同じくらい、当たり前に流れているものだ。魔道具の多くは、その微量な魔力を垂れ流すだけで起動するように作られている」
「じゃあ、適性っていうのは」
「魔力を意図した形に編み上げて、術式として発動させる技術と才能のことだ。攻撃魔法や回復魔法のような複雑な現象を起こすには、それ相応の訓練と適性が要る。だが、ただ流すだけの単純な魔道具には、それがいらない」
「なるほど……つまり、誰でも簡単な道具は動かせるけど、複雑な魔法は撃てない、みたいな」
「……その通りだが」イアンが怪訝そうに眉を寄せる。「なぜ、そんな当たり前のことを、そんなに噛み砕いて言い直す必要が?」
「いえ、こっちの話です」
理恵は誤魔化すように笑った。頭の中で思い浮かべていた「懐中電灯」だの「花火」だのという例えは、この世界の人間には伝わりようがない。分かってはいたが、つい癖で例えを探してしまう自分に、理恵は内心で苦笑した。
理恵は、興味深そうにそのランタンを覗き込んだ。ガラスの中で、淡い光の粒がふわりと揺れている。まるで小さな蛍を閉じ込めたようだった。
「便利ですね」
「便利だが、高い」ルークが横から口を挟んだ。「俺たちの稼ぎじゃ、おいそれと買えるもんじゃないぞ」
「王国から報酬は出てるんじゃないんですか」
「出てるけど、大半は装備の維持費に消える」ルークは肩をすくめた。「剣の手入れ、防具の修理、回復薬の補充……勇者パーティーっていっても、意外と金欠なんだよな」
理恵は、少しだけ意外に思った。物語の中の勇者パーティーといえば、もっと余裕のある存在を想像していたからだ。
◇ ◇ ◇
市場を抜けたところで、何人かの町人がトビアスに気づき、道の端に寄って頭を下げ始めた。
「勇者様だ」
「本当にお若いのに、立派だこと」
「魔王軍を退けてくださって、ありがとうございます」
トビアスは、その一人一人に、穏やかな笑みを返しながら軽く会釈をしていく。まるで舞台の上に立っているかのような、隙のない所作だった。
理恵は、その変化に少し驚いた。
昨夜見た彼は、もっと素っ気なく、感情の起伏に乏しい男だった。だが今は――優しく、頼りがいのある、絵に描いたような勇者として振る舞っている。
「……別人みたいですね」
小声で呟くと、隣を歩いていたメルがくすりと笑った。
「気づいた?」
「気づきますよ、それは」
「勇者はね、常に見られてるんだ。国民の希望の象徴、ってやつ。だから、素の顔は見せられない」
メルの声には、からかうような響きの奥に、どこか同情めいた色が混じっていた。
「トビアスは、それが上手すぎるんだよね。あの優等生ぶった感じ、演技だって誰も気づかない」
「メルさんは、気づいてるんですね」
「まあね」メルは肩をすくめた。「僕も、似たようなものだから」
理恵は、その言葉の裏にある意味までは、まだ理解できなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、六人は町の宿屋《旅人の杯》に部屋を取った。
部屋に案内される前、理恵は宿の主人に「食事は別に頼まなくていい、自分たちで用意したい」と申し出た。渋る主人に、厨房の使用料を上乗せで払うことを条件に、なんとか許可をもぎ取った。買い出しで新鮮な食材を仕入れたばかりだったし、正直、見知らぬ宿の料理よりも、自分の味加減の分かる料理の方が信頼できる気がしたのだ。
久しぶりの屋根の下、久しぶりの温かい風呂。食堂に降りてきた頃には、五人とも見違えるほどさっぱりした顔をしていた。
「ふう……生き返った」ルークが椅子にどかりと腰を下ろす。「風呂って偉大だな」
「同意する」イアンが珍しく素直に頷く。
コリンは長い耳をまだ少し湿らせたまま、テーブルに突っ伏していた。
「お風呂、久しぶりすぎて逆に疲れました……」
「贅沢な疲れですね」理恵は笑いながら、借りた厨房で用意した料理を並べていく。買い出しで手に入れた野菜と肉を使った、具だくさんのシチューだった。
「おお……!」
湯気の立つ皿を前に、ルークが目を輝かせる。
「今日のはさらに豪華だな!」
「町で買い出しできましたからね。多少はマシな材料が揃いました」
六人での食卓は、たった二日目にしてすでに、奇妙な馴染みを見せ始めていた。ルークが真っ先に肉に手を伸ばし、イアンが「よく噛んで食べろ」と口うるさく言い、コリンがその横で黙々と匙を進め、メルが皿から何かを盗もうとしてルークに睨まれる。
トビアスだけが、少し離れた席で、静かにスプーンを動かしていた。
◇ ◇ ◇
食後、宿の主人が下がったのを見計らって、トビアスが切り出した。
「理恵」
「はい」
「ここからの話をしておきたい」
全員の視線が、理恵に集まる。
「王都まで、あと四日はかかる。あんたには、王都まで同行してもらう約束だったが……その先について、相談させてほしい」
「その先、というと」
トビアスは、一度言葉を選ぶように間を置いた。
「王都に着けば、術師ギルドがあんたを元の世界に帰す方法を探ってくれるはずだ。だが、それがすぐに見つかる保証はない。……下手をすれば、何ヶ月、何年とかかるかもしれない」
理恵は、少し息を呑んだ。
「その間、あんたには行く当てがない。身分証もなければ、この世界での生活基盤もない」
「それは……そうですね」
「だから」トビアスは、一度、他の四人を見回した。「もし良ければ、正式に、俺たちのパーティーに加わってくれないか」
一瞬、静寂が落ちた。
「正式にって……」理恵は戸惑った。「私、戦えませんよ。剣もダメ、魔法も適性なし。役に立てることなんて」
「飯を作ることだ」
トビアスが、まっすぐに理恵を見た。
「昨日、あんたの飯がなければ、俺たちは本当に死んでいたかもしれない。今朝だって、コリンが倒れずに済んだのは、あんたの手当てのおかげだ」
「あれは、大したことじゃ」
「大したことだ」
珍しく、トビアスの声に強い響きがあった。
「戦力としてじゃない。……この五人には、生活を支えてくれる存在が必要だ。それは、剣の腕や魔法の才能とは、まったく別の価値だ」
ルークが大きく頷く。
「俺も賛成! 理恵さんの飯食ってると、なんか、こう……生きてるって感じがするんだよな!」
「僕も」コリンが、耳を少しだけ立てて言う。「理恵さんがいてくれると、安心します」
イアンは、眼鏡を押し上げながら、いつもの理屈っぽい口調で続けた。
「栄養学的に見ても、あんたの存在はパーティーの継戦能力を大幅に向上させる。合理的な判断として、加入を推奨する」
「それ絶対、本音は違うやつですよね」理恵が笑うと、イアンは軽く咳払いをして目を逸らした。
メルだけが、少し違う角度から口を開いた。
「僕は、理恵ちゃんの気持ちが一番大事だと思うけどな。無理強いする話じゃない」
その言葉に、理恵は少し驚いた。飄々としているようで、案外、まっとうなことを言う。
全員の視線が、もう一度理恵に集まった。
「私は……」
理恵は、少し考えた。
異世界に飛ばされて、まだ二日目。分からないことばかりの世界。魔物もいる。戦争もしている。危険なことだらけだ。
それでも――昨日の夜の焚き火の温かさや、今日の市場の賑わい、コリンの安堵した顔、ルークの単純な喜び方、イアンの照れ隠し、メルの意味深な笑み。そしてトビアスの、素っ気ないのに、なぜか信頼できる背中。
この一日で見てきたものが、理恵の中で何かを決めさせていた。
「――分かりました。王都までの《期間限定》じゃなくて、正式に。ごはん係、やらせてもらいます」
その瞬間、食堂に歓声が上がった。
「よっしゃあ!」
「やった!」コリンが両手を上げる。
「良い判断だ」イアンが満足げに頷く。
「決まりだね」メルが笑う。
トビアスだけが、小さく、けれど確かに、口元を緩めた。
「――よろしく頼む」
「こちらこそ。ただし」
理恵は、人差し指を立てて言った。
「野菜は残さず食べてください。特にルークさん」
「え、俺だけ名指し!?」
どっと笑いが起きる。
こうして、友田理恵は正式に、勇者パーティーの《ごはん係》となった。
◇ ◇ ◇
夜が更け、それぞれが部屋に戻ったあと、理恵はまだ一階の食堂に残っていた。片付けを終え、明日の仕込みのことを考えていたところに、階段を降りてくる足音が聞こえた。
「まだ起きてたのか」
トビアスだった。彼もまた、寝付けなかったのか、それとも見回りのつもりなのか、装備を軽く整えた格好のままだった。
「トビアスさんこそ。今日くらい、ちゃんと休んだらどうですか」
「……性分でな」
トビアスは、理恵の向かいの椅子に静かに腰を下ろした。
「聞いていいか」
「何ですか」
「あんた、本当に良かったのか。まだ、この世界のことを何も知らないのに」
理恵は、少し考えてから答えた。
「知らないから、決めちゃいけないってわけでもないと思うんです。むしろ、知らないことだらけの中で、それでも一緒にいたいと思える人たちに出会えたなら、それで十分じゃないですか」
トビアスは、しばらく無言だった。
やがて、彼の胸元――服の上からでも、うっすらと分かる紋様の輪郭に、理恵はふと目を留めた。
「その紋……勇者様だけに刻まれるものなんですよね」
トビアスの表情が、一瞬だけ強張った。
「……ああ」
「痛くないんですか」
「もう慣れた」
その答え方は、どこか質問をはぐらかしているようにも聞こえた。理恵はそれ以上踏み込まず、ただ「そうですか」とだけ言った。
だが、そのわずかな間に見えたトビアスの表情――何かを隠している者特有の、微かな緊張。それを、理恵は確かに覚えていた。
◇ ◇ ◇
翌朝、六人は再び王都を目指して旅立った。
昨日までとは違い、理恵の足取りには迷いがなかった。《期間限定》ではなく、《正式な仲間》として歩くこの道は、不思議と、昨日よりも軽く感じられた。
だが理恵はまだ知らない。
王都に着いたとき、彼女を待っているのが、単なる歓迎だけではないということを。
そして、昨夜見たトビアスの、あのわずかな表情の陰りが――のちに、六人全員を揺るがす秘密へと繋がっていくことも。
ミレイユの町を後にして、六人は再び街道へと歩みを進めていった。




