第2話 魔力飢餓のコリン、もしくは兎の意地
夜が明けると、荒野の姿は昨夜とはまるで違って見えた。
東の空がゆっくりと白み始め、地平線の際だけが淡い橙色に焼けている。乾いた大地には夜露がわずかに降りていて、踏み込むたびに靴底がしっとりと湿った音を立てた。冷えた空気が肺の奥まで沁み込んでくる。遠くで鳥――地球のものとは鳴き声の違う、甲高い一声――が空を切っていく。焚き火の残り火からは、まだうっすらと木の焦げるにおいが漂っていた。
理恵は毛布代わりにしていた誰かの外套を畳みながら、伸びをした。
「……体、痛い」
「地面で寝れば、そうなるだろうな」
声のした方を見ると、トビアスがすでに完全装備で立っていた。よく見れば、目の下にうっすらと隈がある。昨夜はほとんど眠っていないのではないか、と理恵は思ったが、聞く前にトビアスは踵を返してしまった。
「出発の準備をする。……あんたは、休んでいてくれ」
「いえ、私も手伝います」
「いや」トビアスは短く言った。「昨日、あれだけ働いてもらった。今日くらいは楽をしてくれ」
それだけ言うと、彼は荷物のまとめに戻ってしまう。素っ気ない態度なのに、なぜか突き放された感じがしない。理恵はその背中を、少しだけ長く見つめた。
◇ ◇ ◇
「うーっす、理恵さん、おはよう!」
元気に手を振ってきたのはルークだった。昨夜の死にかけた様子が嘘のように、赤毛を朝日に光らせながら剣を素振りしている。二の腕の筋肉が動くたびに、朝の光がそこだけ強く反射した。
「ルークさん、体調は」
「もう完璧! いや、正直、まだ本調子じゃないけど、動ける! あんな飯食ったら誰だって復活するって!」
「良かったです」
「な、な、今日の飯は何?」
「まだ何も決めてません、朝ですし」
「そっか。……あのさ」ルークが急に声を落とした。「理恵さん、王都まで一緒に来てくれるんだよな?」
「約束は約束ですから。着くまでは」
「着くまでは、な」
ルークはなぜか少し寂しそうな顔をしたが、それも一瞬で、すぐにいつもの調子で笑った。
「まあいいや! 着くまでの間、たっぷり奢ってもらう!」
「奢るって、私が作るんですよ」
「そういう意味だよ!」
◇ ◇ ◇
出発してしばらく歩くと、荒野は緩やかな丘陵地帯へと変わっていった。乾いた岩肌の代わりに、茶色く枯れた草が足元を覆っている。風が吹くたびに、その草がざわざわと音を立てて揺れた。
隊列の先頭をトビアスが歩き、次にルークとイアン、少し遅れて理恵、そして最後尾にコリンとメルという並びだった。
最初に異変に気づいたのは、理恵だった。
「……コリンさん、大丈夫ですか」
ウサギ耳の少年は、足を止めがちになっていた。顔色は青白く、額にはうっすら汗が浮いている。それでいて、口では「平気です」と繰り返していた。
「へ、平気ですよ。ちょっと、疲れが」
「コリン」
前を歩いていたイアンが振り返り、眼鏡の奥から鋭い視線を向けた。
「魔力残量計は見たか」
「……見てないです」
「見ろ。今すぐに」
コリンは渋々、懐から小さな水晶のような道具を取り出した。それを覗き込んだ瞬間、顔がさらに青くなる。
「……あ」
「どうしたんですか」理恵が覗き込もうとすると、イアンが片手でそれを制した。
「マナ・バーンの兆候だ」
「マナ……バーン?」
「魔力飢餓――正式には《魔力飢餓症候群》という」
イアンは歩きながら、淡々と説明を始めた。
「回復術師や攻撃魔術師のような高位の戦闘職は、術式を発動させるたびに体内の魔力回路を消費する。魔力そのものは体内で自然に回復するが、その回復には身体の栄養状態が大きく関わってくる。栄養が不足した状態で魔力を使い続けると、回路の再生が追いつかなくなり、最終的には魔力循環そのものが乱れる。それが魔力飢餓だ」
「つまり……お腹が空いてると、魔法も使えなくなる、ってことですか」
「単純化すればそうだ。だが問題はそれだけじゃない」イアンは声を低くした。「魔力循環が乱れた状態で無理に術式を発動させ続けると、最悪の場合、魔力回路そのものが焼き切れる。二度と、魔法が使えなくなることもある」
理恵は息を呑んだ。コリンを見ると、少年は無理に笑顔を作っていた。
「だ、大丈夫ですよ。まだそこまでじゃ」
「まだ、だ」イアンが念を押す。「昨日までの三日間、お前は俺たちの中で一番治癒術式を使っていた。回復量に対して補給がまったく追いついていない」
「……分かってます、それくらい」
コリンの声が、わずかに震えていた。十八歳の少年らしい強がりが、その震えの下に透けて見える。
「僕が、倒れたら……回復役がいなくなる。だから、僕は」
「コリン」
トビアスが、隊列の先頭からゆっくりと戻ってきた。
「休憩する」
「でも、まだ予定の距離が」
「休憩する」トビアスはもう一度、今度は少し強い口調で繰り返した。「行軍中に回復術師を潰すことの方が、よほど非効率だ」
その言い方に、理恵は少し驚いた。優しさを、あえて数字の話にすり替えているように聞こえたからだ。
◇ ◇ ◇
丘の陰に入ると、風が少し和らいだ。理恵は荷物から残っていた干し肉と、昨夜作ったスープの残りを取り出す。
「魔法で治せないなら、普通に食べて休むしかないですよね」
「そう、簡単に、いくものなら」コリンが座り込みながら、力なく笑う。「魔力飢餓は……食事だけじゃ、すぐには」
「知ってます。でも、何もしないよりはマシでしょう」
理恵は水筒に残っていた水を沸かし、干し肉を刻んで放り込む。手早く作った簡易のスープを、湯気ごと差し出した。
「ゆっくりでいいので、飲んでください」
コリンは、震える手でそれを受け取った。一口すすると、少しだけ表情が緩む。
「……あったかい」
「当たり前でしょう、さっき火にかけたばかりですから」
「そうじゃなくて」コリンは俯いた。「誰かが、僕のために、こうやって……治癒術師じゃなくて、僕自身のために、何かしてくれるの、久しぶりで」
理恵は何も言わず、隣に座った。
ウサギの長い耳が、少しだけ垂れる。それは、諦めや疲労とは違う、どこか安堵したときの仕草に見えた。
「僕、パーティーの中で一番若くて……だから、余計に、弱いって思われたくなくて。しっかりしなきゃって、ずっと」
「十八歳なんですから、無理しなくていいと思いますけど」
「無理しないと、みんなが死ぬかもしれないので」
理恵は、その言葉に何も返せなかった。
この世界での十八歳は、日本の十八歳とは、背負っているものの重さが違う。
◇ ◇ ◇
少し離れた場所で、メルが木の幹に寄りかかりながら、その光景を眺めていた。
「へえ」
「何が『へえ』なんですか」メルの隣に座ったイアンが、眼鏡を押し上げながら言う。
「いや、別に」メルは笑った。「ただ、コリンがあんな顔するの、久しぶりに見たなと思って」
「……確かに」
「あの子、いつも無理して大人ぶってるからねえ。年下だから舐められたくない、っていうのは分かるけど」
メルの視線が、理恵の背中に移る。
「あの子、面白いね」
「理恵のことか」
「うん。誰に対しても態度が変わらない。相手が勇者だろうと、魔王軍の一員だろうと、多分――」
メルは言葉を切って、笑った。
「多分、僕の正体を知っても、態度は変わらないんじゃないかな」
イアンが眉をひそめる。
「何の話だ」
「独り言だよ」
メルはそれ以上答えず、ただ空を見上げていた。その笑顔の奥に、何か底の見えない色があることに、この時のイアンはまだ気づいていない。
◇ ◇ ◇
休憩を終える頃には、コリンの顔色はいくらか良くなっていた。魔力飢餓そのものが完治したわけではない。だが、少なくとも今すぐ倒れる心配はなくなったようだった。
「もう歩けます」
「無理は」
「してません。……ありがとうございました、理恵さん」
コリンは立ち上がると、垂れていた耳をぴんと持ち上げた。強がりだと分かっていても、理恵はそれ以上何も言わなかった。
隊列が再び動き出す。
先頭を歩くトビアスの足取りを、理恵は少しだけ観察していた。
昨夜、彼はほとんど眠っていない。今朝もずっと先頭に立ち、周囲を警戒し続けている。誰よりも疲れているはずなのに、それを一切表に出さない。
「トビアスさん」
「何だ」
「見張り、交代した方がいいんじゃないですか。誰かと」
「必要ない」
「でも」
「――俺が起きていれば、何かあったときに対応できる」
その答えに、理恵は妙な違和感を覚えた。それは「仲間を信用していない」という響きではなく、もっと別の、自分自身に対する不安のようなものに聞こえた。
だが、それを言葉にする前に、トビアスはすでに前を向いて歩き出していた。
◇ ◇ ◇
丘陵地帯を抜けた頃、遠くに小さな町の輪郭が見え始めた。石造りの家々の屋根が、夕暮れの光を受けて赤く染まっている。
「あれが、最初の町だ」トビアスが足を止めずに言った。「今夜はあそこで泊まる。……補給もできる」
「やった! ベッドで寝られる!」ルークが両手を上げて喜ぶ。
「風呂にも入れるといいんだが」イアンが眼鏡の位置を直しながら、珍しく期待のこもった声を出す。
理恵は、赤く染まった町並みを見つめながら、ふと考えた。
この五人と旅を続けるうち、少しずつ、自分の中で何かが変わり始めている気がする。
昨日までは、ただ帰る方法を探すだけのつもりだった。
だが今は――目の前で無理をする十八歳の少年や、誰にも弱さを見せない勇者の背中を見ていると、「王都に着くまで」という約束の期限が、なんだか急に、心もとないものに思えてくる。
夕暮れの町へと続く道を、六人は並んで歩いていく。
その先に、理恵がまだ知らない王都の術式研究者たちが、そして「元の世界へ帰る可能性」という、彼女の運命を大きく揺さぶる知らせが待っていることを――この時の理恵は、まだ知らない。




