第1話 ようこそ異世界へ、とりあえずご飯にしましょう
残業帰りにコンビニへ寄っただけだった。
友田理恵、二十八歳。手にしていたのは、半額シールの貼られた豚バラ肉と、明日の弁当用に買ったミニトマト、それから思わず衝動買いしたブロックチーズ。ただそれだけの、なんでもない火曜日の夜。
なのに次に瞼を開けたとき、そこはもう見慣れたアスファルトの上ではなかった。
乾いた風が頬を撫でていく。土と、枯れ草と、かすかに血のにおいが混じった風だ。足の裏に感じるのは砂利の感触で、コンビニの床の、あのつるりとした冷たさとはまるで違う。見上げれば、空はやけに広く、雲の輪郭まではっきりと見えるほど澄んでいた。耳に届くのは、虫の声ではなく――何かが、うめいている声。
「……は?」
理恵は買い物袋を両手にぶら下げたまま、しばらく立ち尽くした。
目の前に広がっていたのは、荒野だった。ところどころに黒く焦げた岩が転がり、遠くには折れた旗のようなものが突き刺さっている。そして、その荒野のど真ん中に、五人の男が倒れていた。
いや、正確には「倒れかけていた」。
一人は真っ赤な髪を振り乱し、剣を杖代わりについてかろうじて膝立ちになっている。一人は眼鏡の奥の目を虚ろにして、地面に座り込んだまま動かない。ウサギの耳を持つ少年が、震える手で誰かに回復魔法らしき淡い光を送っているが、光そのものが今にも消えそうに弱々しい。黒髪の男は仰向けに倒れたまま、笑っているのか泣いているのか分からない表情で天を見上げている。そして最後の一人――茶色い短髪の男だけが、剣を支えに、なんとか立っていた。
「……敵、か……?」
その男が、理恵に向かって剣を構えようとする。だが、腕が震えて上がらない。
理恵は数秒、状況を理解しようとした。
異世界。おそらく、そういうやつだ。会社の後輩が好きだと言っていたウェブ小説で、似たような導入を読んだ記憶がある。
だが、目の前の五人は、どう見ても「これから世界を救う勇者パーティー」という感じではなかった。
顔色は土気色。唇はひび割れ、目の下には濃い隈。何より――全員、揃いも揃って、ものすごく、腹が減っていそうな顔をしている。
「……あなたたち」
理恵は買い物袋を見て、それから五人を見て、また買い物袋を見た。
「あなたたち、その敵とやらに殺される前に、飢え死にしそうですけど」
◇ ◇ ◇
男の名はトビアス=ワーナーといった。
のちに理恵は知ることになる。彼が「勇者」と呼ばれる存在であり、王国から魔王討伐を託された英雄であることを。そして今、彼の胸には赤黒く光る紋様――《ヴァリアント・シール》が刻まれていることも。
だがこの瞬間の理恵にとって、彼はただの、三日は何も食べていなさそうな顔色の悪い男でしかなかった。
「動くな」トビアスが低く言う。「お前も……魔王軍の、送り込んできた何かか」
「いいえ、コンビニ帰りの会社員です」
「……は?」
「豚バラの半額品と、ミニトマトと、チーズを買って、家に帰ろうとしていました。以上です」
沈黙が落ちた。
地面に倒れていた赤毛の男――ルーク=ミリガンが、かすかに首をもたげる。
「……メシの、においがする」
「ルーク、動くな。まだ状況が」
「トビアス、俺はもう、限界だ……」
ルークはそう言うと、糸が切れたようにまた地面に沈んだ。
理恵は、買い物袋の中身を見た。それから、五人の顔を、もう一度順番に見た。
医療の知識はない。魔法のことも分からない。だが、これだけは分かる。
「――とりあえず、火を熾していいですか」
◇ ◇ ◇
拾い集めた枯れ枝に、荷物の中にあった着火用のマッチ棒――理恵が愛用しているキャンプ用品の一つだ――で火をつける。パチ、と小さく爆ぜる音がして、橙色の炎が夜の荒野を照らし出した。
持っていたのは、豚バラ肉一パック。ミニトマト一パック。ブロックチーズ一つ。それから、鞄の底に転がっていた塩と、非常用に持ち歩いていた小さな醤油の小瓶。
「贅沢は言えませんね」
理恵は手近な石を組んで簡易のかまどを作り、拾った鍋――正確には、五人の荷物の中にあった、煤だらけの携帯鍋を借りた――に、彼らの保存食らしき干し肉と、水袋の水を注いだ。
「あの……何を」
眼鏡の男、イアン=シムズが、地面に座り込んだまま、それでも理屈っぽさを隠せない口調で聞いてくる。
「見て分かりませんか。スープ作ってます」
「その、栄養学的観点から言えば……干し肉と水だけでは、たんぱく質は摂れてもビタミンが」
「だからチーズとトマト入れるんですよ。黙って座っててください」
イアンが口をつぐんだ。何か言い返そうとして、しかし反論する体力すらないのか、諦めたように目を閉じる。
鍋の中で、干し肉がふやけ、豚バラの脂がじわりと溶け出していく。湯気が立ちのぼり、荒野特有の乾いた空気の中に、ぐつぐつと煮える音が混じった。塩と醤油をひとつまみ。チーズを溶かし込むと、とろみのある、こっくりとした匂いが漂い始める。
ウサギ耳の少年――コリン=ナイマンが、ぴくり、と耳を動かした。
「……なんか、いい匂いする……」
「もうちょっとで出来ますからね」
理恵はトマトを潰しながら鍋に放り込む。酸味と旨味が肉の脂と溶け合い、鍋の中の色が、じんわりと赤みを帯びていく。
仰向けに倒れていた黒髪の男――メルが、うっすらと目を開けた。
汗と土埃にまみれていてなお、その顔立ちは異様なほど整っていた。長い睫毛、輪郭の柔らかい頬、色素の薄い唇。薄闇の中で見れば、性別を問われても答えに迷いそうなほど、中性的な美しさをしている。
「へえ……」
その声には、さっきまでの弱々しさとは違う、どこか興味深そうな響きがあった。
「人間の女の子が一人、こんな戦場のど真ん中に降ってきて、開口一番、メシの心配とはね」
「そこの黒髪の人、喋る元気があるなら、火のそばに寄ってください。冷めますよ」
「怖い子だなあ」
メルはくすりと笑い、それでもふらつきながら火のそばへ近寄ってくる。
◇ ◇ ◇
出来上がったのは、名前のつけようもない即席の煮込みだった。
干し肉のだしに、豚バラの脂、チーズのコク、トマトの酸味。手元にあるものを全部放り込んだだけの、なんの工夫もない料理。
それでも、木の器によそって差し出すと、五人は――ついさっきまで魔物ではなく空腹に殺されかけていた世界最強クラスの戦士たちは――ほとんど声も出さずに、それに齧りついた。
「うまい……」ルークが呻くように言う。「うますぎる……なんだこれ、生き返る……」
「回復魔法より効きますね、これ」コリンが目に涙を浮かべながらスープをすする。
イアンは何か言おうとして、しかし一口食べた瞬間に黙り込み、二口目からは無言でスプーンを動かし続けた。
メルは、味わうというより、ただじっと理恵を見ていた。
そしてトビアスだけが、器を受け取ったまま、しばらく動かなかった。
「……食べないんですか」
「いや」
トビアスは短く答えると、一口すすった。
その目が、わずかに見開かれる。それから、何かをこらえるように、一度だけ強く瞬きをした。
「……美味い」
感情の起伏に乏しいその一言に、理恵は少しだけ驚いた。この男だけ、他の四人と違う何かを背負っているらしい――そう気づいたのは、この時が最初だった。
◇ ◇ ◇
鍋が空になる頃には、五人の顔色は見違えるほど良くなっていた。
顔に赤みが戻り、目に生気が宿る。折れていた背筋が伸びる。それはまるで、魔法よりも確かな回復だった。
「……あの」理恵は空になった鍋を見つめながら、ようやく本題を切り出す。「そろそろ、状況を説明してもらえませんか。ここがどこで、あなたたちが何者で、私がなぜここにいるのか」
トビアスが器を置き、居住まいを正した。
「まず、礼を言う。……あんたのおかげで、俺たちは死なずに済んだ」
「いえ、それは」
「順番に説明する。ここはアルケディア王国が魔族領《黒嶺領》と争っている戦線の外れだ。俺たちは王国から魔王討伐を命じられた勇者パーティー。三日前の戦闘で補給部隊とはぐれ、まともな食事を摂れないまま、ここまで来た」
理恵は、思わず声を漏らした。
「魔王……。じゃあ、さっきの『敵とやら』、あながち外れてなかったんですね」
「……何の話だ」
「敵に殺される前に飢え死にしそうって、適当に言ったんですけど。まさか本当に魔王なんて存在がいるとは思わなくて」
トビアスが、わずかに目を細めた。何かをこらえるような、それでいて笑いをこらえきれていないような、微妙な表情だった。
「……悪いが、否定できないな」
「それは分かりました。それで、私は」
「――おそらく、異世界からの転移者だ」
理恵は、しばらく言葉が出なかった。
「異世界。転移者。……はあ」
妙に納得できてしまう自分がいた。この荒野、この空、この空気。もう「実は精巧なドッキリでした」で片付けられる規模ではない。
「……鑑定してみるか」
イアンが体力を取り戻したのか、杖を取り出しながら言った。「異世界人には稀に特殊なスキルや加護が宿ることがある。剣の才、魔法適性、あるいは――」
淡い光が理恵を包む。全員の視線が集まる。
やがて、光の中に文字が浮かび上がった。
――《種族:人間/職業:なし/特性:なし》
沈黙が落ちた。
「……以上?」コリンが恐る恐る聞く。
「以上、だな」イアンが眼鏡を押し上げながら、心底困惑した顔で言う。「こんなに何もない鑑定結果は、初めて見た」
「あはは」メルが声を上げて笑った。「これは傑作だ。異世界人なのに、何にもない」
「笑いごとじゃないですよ」
理恵は思わず突っ込んだ。だが、内心では、どこか安堵している自分もいた。
剣の才能もない。魔法適性もない。加護もない。特殊スキルもない。
――つまり、この世界でも、自分はただの理恵のままでいい、ということだ。
◇ ◇ ◇
「王都まで送る」トビアスが言った。「そこの術式研究者たちなら、あんたを元の世界に帰す方法も見つけられるかもしれない」
「はあ……それは、ありがたいですけど」
理恵は、五人の顔をもう一度見回した。
さっきまで死にかけていたはずの男たちが、今はもう、それぞれ普通に立っている。剣を鞘に収め、荷物をまとめ始める。だが理恵には、どうしても引っかかることがあった。
「あの。すみません、一つだけ確認していいですか」
「何だ」
「これまで、どうやって食事をとってきたんですか」
トビアスたちが、一瞬、顔を見合わせた。
「……干し肉と、水」ルークがぽつりと言う。「あとは、まあ、なんとかなるだろうと」
「戦闘の合間に、栄養を計算している暇はない」イアンが言い訳のように付け足す。「行軍を優先すれば、自然と食事は後回しになる」
「保存の利く携帯食料はあるけど、正直、味なんて考えたこともなかったな」メルが肩をすくめる。
コリンが小さく言う。
「僕、回復魔法は使えるけど……お腹が空いてるのを治す魔法は、ないんです」
理恵は、頭を抱えたくなった。
世界最強クラスの戦士たち。国の命運を背負う勇者パーティー。それなのに、この五人は、揃いも揃って、まともに「ご飯を食べる」ということをしてこなかったらしい。
「あなたたち」
理恵は、ため息とともに立ち上がった。
「魔王に殺される前に、また空腹で死にますよ」
「……耳が痛いな」トビアスが、珍しく苦笑いを浮かべた。
「王都までどのくらいかかるんですか」
「歩けば、五日というところだ」
「その間の食事、誰が作るんですか」
沈黙。
五人の視線が、申し合わせたように理恵に集まった。
「いや、ちょっと待ってください。私、まだ帰るかどうかも」
「頼む」
トビアスが、こうべを垂れた。世界最強クラスの勇者が、コンビニ帰りの会社員に向かって、深々と頭を下げている。
「王都に着くまでの間だけでいい。……あんたの飯がないと、俺たちは、本当に死ぬ」
冗談を言っているようには見えなかった。
理恵は、買い物袋の中身が空になっていることに気づいた。塩も、醤油も、まだ少し残っている。
そして――なぜだろう。この、どこか頼りない、けれど確かに命を懸けて戦ってきたらしい五人の顔を見ていると、不思議と、突き放す気になれなかった。
「……分かりました」
理恵はため息をつきながら、しかし口元には、隠しきれない苦笑いを浮かべていた。
「王都に着くまで、限定ですからね」
その言葉が、のちに全く違う意味を持つことになるとは、この時の理恵はまだ知らない。
◇ ◇ ◇
夜の荒野に、小さな火が灯っている。
五人の勇者――いや、今はただ腹を満たされて安堵している男たちと、異世界から迷い込んだ一人の女。
トビアスは、火のそばで静かに周囲を警戒しながら、それでも視線だけは、理恵の手元をちらちらと追っていた。彼女が余った干し肉を手際よく保存袋に仕舞う様子を、まるで珍しいものでも見るように。
「……あんた」
「はい?」
「なぜ、逃げなかった」
理恵は片付けの手を止めた。
「戦場のど真ん中に、見知らぬ男が五人。しかも、今にも死にそうな有様だった。逃げるという選択肢もあったはずだ」
少し考えて、理恵は答えた。
「だって、お腹空いてる人を放っておくの、性に合わないので」
その答えに、トビアスは何も返さなかった。
ただ、焚き火の炎が揺れる中、彼の口元が、ほんのわずかに緩んだのを――理恵は、まだ知らない。
こうして、異世界での奇妙な旅が、始まった。
魔王を倒すための旅であると同時に、それは後に、五人の男たちの人生を――そして理恵自身の人生を――大きく変えていく旅になる。
だが今はまだ、誰もそれを知らない。
ただ、焚き火の温かさと、満たされた腹だけが、六人の間にある、確かなものだった。




