第34話 到着、テルマ・リュネの宿
テルマ・リュネの町並みは、これまで見てきたどの町とも、違う趣を持っていた。
石畳の道の脇を、湯気を纏った小川が、さらさらと音を立てて流れている。近づくと、その水面から立ち上る湯気が、頬を柔らかく撫でていった。町全体に漂う硫黄の匂いは、もはや不快なものではなく、どこか懐かしいような、独特の心地よさすら感じさせる。軒先に吊るされた提灯めいた魔道具の灯りが、夕暮れの薄闇の中に、ぽつぽつと温かい光を灯していた。
「――良い匂いだな、なんか」
ルークが、大きく息を吸い込みながら言った。
「硫黄の匂い、平気なんですね」理恵は、少し驚きながら尋ねる。
「慣れれば、これはこれで、風情があるだろ?」
「そうかもしれません」
◇ ◇ ◇
案内された宿は、これまで泊まってきたどの宿よりも、格式高い佇まいをしていた。木造の建物は、幾重にも渡り廊下が組まれ、その先々に、湯気の立ち上る小さな露天の湯船が、点在している。
「わあ……」
理恵は、その光景に、思わず声を漏らした。
「気に入ったか」
「はい、すごく」
宿の女将らしき女性が、丁寧に出迎えてくれた。
「勇者様御一行様、ようこそお越しくださいました。……お部屋は、ご用意しております」
「世話になる」
トビアスが、簡潔に応じた。
◇ ◇ ◇
部屋に案内されたあと、女将が、丁寧に効能書きを説明してくれた。
「当宿の湯は、《地脈》の恵みを、直接引いております。……疲労回復はもちろん、魔力回路の活性化にも、効果があるとされておりまして」
「魔力回路の、活性化?」理恵が尋ねると、女将は頷いた。
「はい。湯に含まれる清浄な魔力が、体内の魔力循環を、緩やかに整えてくれるのです。……術師様方には、特におすすめですよ」
「それは、ありがたいですね」
その説明に、イアンが、興味深そうに耳を傾けていた。
「――理論上は、理にかなっている」彼は、後で理恵にそう解説した。「魔力飢餓の状態から回復する際も、外部から清浄な魔力を取り込むことで、回路の再生を促進できる。……この温泉は、いわば、天然の治療施設みたいなものだ」
「イアンさんにかかると、温泉も、研究対象になるんですね」
「面白い現象を、面白いと思っただけだ」
その言い訳がましい返事に、理恵は、思わず笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
「――さて、と」
荷物を降ろしたところで、ルークが、両手を打ち鳴らした。
「さっそく、風呂、行くか!」
「まずは、湯船の使い方だけ、確認しておきましょうか」理恵は、念のため、日本の温泉のマナーを、簡単に説明した。「体を洗ってから入る、とか、タオルは湯船に入れない、とか」
「へえ、そういうところは、こっちも似てるな」ルークが、感心したように頷く。
「そうなんですね、良かったです」
「じゃ、うちの部屋についてる露天風呂、時間で男女交代な!」
「はい、それで大丈夫です」
◇ ◇ ◇
男性陣が先に湯を使う間、理恵は、部屋の窓から、宿の庭を眺めていた。
庭の一角には、色とりどりの提灯が並び、その灯りが、湯気の向こうに、幻想的な模様を描き出している。時折、風に乗って、他の宿泊客の楽しげな話し声が、微かに届いてきた。
「――良いところですね」
思わず、そう呟いた声に、答える者は、まだ誰もいなかった。だが、その静けさすら、どこか心地よく感じられた。
◇ ◇ ◇
しばらくして、理恵の番になった。
露天の湯船に足を踏み入れると、じんわりとした熱が、足先から全身へと広がっていく。湯の中に手を浸すと、これまで感じたことのない、微かな痺れのような感覚――清浄な魔力の名残だろうか――が、指先を伝った。空を見上げると、湯気の向こうに、星々が、いつもより滲んで見えた。
「――気持ちいい……」
思わず漏れた声が、静かな夜気に溶けていく。
この数ヶ月、様々な出来事があった。異世界への転移、五人との出会い、王都での日々、そして、戦線での緊張の連続。
その全てが、この温かな湯の中で、少しずつ、解きほぐされていくようだった。
◇ ◇ ◇
湯上がり、理恵が部屋に戻ると、すでに五人は、思い思いにくつろいでいた。
「――理恵さん、湯加減、どうだった?」
「最高でした。……なんだか、体の芯から、温まる感じで」
「だろ? やっぱり、温泉は良いよな」
ルークが、満足げに笑う。その顔は、いつもより血色がよく、確かに、疲れが抜けたように見えた。
「明日は、街の散策にしましょうか」コリンが、地図を広げながら提案する。
「良いですね。この町の名物とか、見てみたいです」
「僕、この町の民族衣装、興味あるんですよね」メルが、いつもの調子で言った。「理恵ちゃんに、着てほしいなあ、なんて」
「メルさん、気が早いって、言いましたよね」
その掛け合いに、五人が、それぞれの調子で笑った。
◇ ◇ ◇
その夜、理恵は、寝台に横たわりながら、今日一日の穏やかさを、静かに噛みしめていた。
この温泉都市での日々が、これから、どんな時間になっていくのか。
理恵には、まだ、その全てを、想像することはできなかった。
だが、明日への、ささやかな期待だけは、確かに、胸の中に灯っていた。
テルマ・リュネの夜は、湯気に包まれながら、静かに更けていく。
そして、その穏やかな夜の裏で、六人それぞれの想いが、いよいよ、動き出そうとしていた。
(第35話へ続く)




