第33話 テルマ・リュネへの道、逸る気持ち
ノルド砦を発って二日、街道は、これまでとはまるで違う、穏やかな山間の風景へと変わっていた。
なだらかな丘陵に、色づき始めた木々が連なっている。風が吹くたびに、葉と葉が擦れ合う、さらさらとした音が響いた。空気には、これまでの荒野や戦場では感じたことのない、湿り気を帯びた、どこか甘い香りが混じっている。遠くから、微かに、硫黄を思わせる独特の匂いが、風に乗って届き始めていた。踏みしめる土は、これまでよりも柔らかく、足の裏に、しっとりとした感触を残す。
「――もうすぐだ」
トビアスが、前方を指し示した。
◇ ◇ ◇
「なあなあ、温泉って、本当にお湯が自然に湧いてるのか?」
道すがら、ルークが、興味津々といった様子で尋ねた。
「そうだ」トビアスが、頷きながら答える。「テルマ・リュネの地下には、《地脈の魔力溜まり》がある。……大地に流れる魔力の通り道が、この一帯に集中している」
「地脈、って?」理恵が聞き返すと、イアンが補足した。
「大地そのものを流れる、自然発生の魔力の流れのことだ。……瘴気溜まりとは、対照的な存在と言える」
「対照的、というと?」
「瘴気は、負の魔力が滞留して生まれる、いわば澱みだ」イアンは、続けた。「対して、地脈は、清浄な魔力が、絶えず循環している状態を指す。……その魔力の流れが、地熱を生み、地下水を温める。それが、温泉の正体だ」
「同じ『溜まる』でも、真逆の性質、ってことなんですね」
「そういうことだ」
その説明に、理恵は、これまで積み重ねてきた魔力の知識が、少しずつ繋がっていくのを感じた。
◇ ◇ ◇
「浄化作用も、あるらしいぞ」ルークが、得意げに付け加える。「地脈の魔力に浸かると、疲労回復はもちろん、軽い呪いや、負の魔力の影響まで、洗い流してくれるんだと」
「ルークさん、詳しいですね」
「昔、一度だけ、来たことあってな。……あの時は、傭兵団の連中と、ドンチャン騒ぎしただけだったけど」
ルークは、懐かしそうに目を細めた。
「今回は、ゆっくり、楽しみたいな」
その言葉に、理恵も、自然と頬が緩んだ。
◇ ◇ ◇
「――理恵ちゃんは、温泉、初めてなんだよね」
メルが、隣に並びながら、いつもの調子で聞いてきた。
「はい。でも、実は、日本にも温泉、あったんです」
「へえ、そうなんだ」
「入り方とか、雰囲気とか、似てるところ、あるのかなって、少し楽しみです」
「向こうの世界にもあったんだ、意外」メルは、興味深そうに続けた。「じゃあ、理恵ちゃんが、あっちの温泉のマナー、教えてくれる形になるのかな」
「そうですね……あ、でも」
理恵は、ふと、あることに気づいた。
「男女、別々の湯船なんですよね?」
その質問に、一瞬、場の空気が、微妙なものになった。
「――一応、混浴の湯もあるが」トビアスが、少し言いにくそうに答えた。「水着、というものを着用するのが、一般的な作法だ」
「水着!」ルークが、急に元気になった。「よし、それも、揃えなきゃな!」
その反応に、理恵は、思わず苦笑した。
◇ ◇ ◇
夕方、街道の先に、湯気の立ち上る町並みが見えてきた。
石造りの家々の煙突からではなく、地面のあちこちから、薄く白い湯気が立ち上っている。硫黄混じりの匂いが、これまでよりもはっきりと、鼻に届いてきた。町の入り口には、大きな看板が掲げられ、そこには、湯煙をモチーフにした、洒落た紋様が刻まれている。
「――テルマ・リュネだ」
トビアスの言葉に、六人は、期待に満ちた目で、その町並みを見つめた。
◇ ◇ ◇
「よーし、着いたら、まず何をする!?」ルークが、意気揚々と拳を突き上げる。
「まずは、宿の確保だ」イアンが、冷静に釘を刺す。「浮かれるのは、それからにしろ」
「分かってるって!」
「僕は、温泉街の食べ歩き、楽しみです!」コリンが、耳を揺らしながら言う。
「僕は、理恵ちゃんの湯上がり姿、楽しみにしてるよ」
「メルさん、気が早いですよ」
理恵の突っ込みに、五人が、それぞれの調子で笑った。
◇ ◇ ◇
賑やかなやり取りの中、理恵は、ふと、隣を歩くトビアスの横顔を見た。
彼もまた、いつもよりわずかに、表情が緩んでいるように見えた。
「――トビアスさんも、楽しみですか」
「――そうだな」
トビアスは、少し考えるように、間を置いてから答えた。
「こんな風に、皆で、ただ休むためだけに、どこかへ向かうのは……初めてかもしれない」
その言葉に、理恵は、静かに微笑んだ。
「じゃあ、たくさん、楽しみましょうね」
「――ああ」
その短い返事に、理恵は、これまでにない、確かな穏やかさを感じ取った。
◇ ◇ ◇
湯煙の立ち上る町並みを前に、六人は、期待に胸を膨らませながら、その門をくぐった。
これまでの戦いと緊張から解き放たれた、束の間の休息の日々。
だが理恵はまだ知らない。
この温泉都市で過ごす日々が、これまで静かに育まれてきた、それぞれの想いを、いよいよ、はっきりとした形へと押し上げていくことになるということを。
六人にとって、忘れられない日々の幕が、今、静かに上がろうとしていた。




