第30話 ノルド砦、束の間の日常
ノルド砦は、荒涼とした岩山の合間に築かれた、無骨な石造りの要塞だった。
高い城壁の表面には、幾筋もの傷跡のような亀裂が刻まれ、これまでの激しい攻防を物語っている。砦の内部に足を踏み入れると、鉄と汗と、煮炊きの匂いが入り混じった、独特の空気が漂ってきた。あちこちで、鎧の擦れる音や、武具を研ぐ砥石の音が絶え間なく響いている。石壁に触れると、外の岩山と同じ、ざらついた冷たい感触が指先に伝わってきた。
「――お、勇者様のご帰還だ!」
砦の門をくぐると、待ち構えていた兵士たちから、歓声が上がった。
「久しぶりだな、お前ら!」ルークが、旧知の仲間らしい兵士たちと、次々に肩を組んでいく。「元気にしてたか!」
「相変わらず、うるさいな、ルーク!」
「うるせえ、それがいいんだろうが!」
その騒がしいやり取りに、理恵は、思わず頬を緩めた。
◇ ◇ ◇
「――あんたが、噂の理恵さんか」
案内された食堂で、兵士の一人が、理恵の顔を見て、興味深そうに言った。
「噂、ですか」理恵は、少し戸惑いながら聞き返した。
「ルークの奴が、事あるごとに自慢してくるんだよ」別の兵士が、苦笑しながら言った。「『うちのごはん係の飯は最高だ』って、耳にタコができるくらい」
「お、俺、そんなにしつこく言ってないだろ!」ルークが、慌てて反論する。
「いいや、しつこかったぞ」
「言ってた言ってた」
周囲の兵士たちが、口々に頷く。理恵は、その様子に、思わず笑ってしまった。
「今度、実際に食わせてくれよ」
「材料さえあれば、喜んで」
その申し出に、周囲の兵士たちから、歓声にも似た声が上がった。
◇ ◇ ◇
「砦の様子は、どうだ」
トビアスが、砦を任されている隊長格の男に、状況を尋ねていた。
「ここ最近は、比較的落ち着いています」隊長は、地図を広げながら答えた。「ただ……」
「ただ?」
「敵の動きが、依然として、妙なんです。……以前、勇者様が指摘されていた通り」
その言葉に、理恵は、以前トビアスから聞いた話を思い出した。防衛的な布陣、統率の取れた一団。
「攻めてこないのに、明らかに、警戒を強めている。……そんな印象です」隊長は、続けた。「まるで、こちらではなく、別の何かを、警戒しているような」
「別の、何か……」
その言葉に、トビアスの表情が、わずかに険しくなった。
◇ ◇ ◇
「――《狼煙魔道具》の調子は、どうだ」
トビアスが、話題を変えるように尋ねた。
「良好です。……先日の増設分も、問題なく稼働しています」
「狼煙魔道具、って?」理恵が尋ねると、隊長が説明してくれた。
「遠方への緊急連絡に使う魔道具です。空高くまで届く、色付きの光の柱を打ち上げる。色の組み合わせで、簡単な意味を伝えられるようになっています」
「遠見の魔道具とは、また別のものなんですね」
「あちらは、双方向の詳細な通信向けです。こちらは、もっと単純な、一方通行の緊急信号ですね。……魔力消費が少なく、いざという時、確実に使える」
その説明に、理恵は、この世界の軍事技術の奥深さに、改めて感心した。
◇ ◇ ◇
夕方、理恵は、砦の厨房を借りて、久しぶりの炊き出しに取り掛かっていた。
「理恵さーん! 手伝うぞ!」
ルークが、旧知の仲間を数人引き連れて、厨房に顔を出した。
「あ、ちょうど、人手欲しかったんです」
「任せろ! おい、お前ら、野菜切るの手伝え!」
「お前が指示すんな、料理下手なくせに」
「うるせえ!」
その賑やかなやり取りに、厨房は、あっという間に、活気に満ちていった。
◇ ◇ ◇
完成した料理は、砦中の兵士たちに、大好評だった。
「久々に、生きた心地がするな」
「戦地で、こんな飯食えるとは思わなかった」
そんな声を聞きながら、理恵は、以前、王都の避難所で炊き出しをした時のことを、ふと思い出した。あの時、初老の女性が言っていた言葉。「戦えるだけが、役に立つってことじゃないさ」。
その言葉の意味を、理恵は、今、改めて実感していた。
◇ ◇ ◇
「――理恵さんのごはん、砦の連中にも、すっかり浸透してますね」
夕食後、コリンが、感心したように言った。
「なんだか、嬉しいです」
「僕も、嬉しいです。……理恵さんが、ちゃんと、この世界の一部になってる感じがして」
その言葉に、理恵は、少し驚いた。
「この世界の、一部」
「はい」コリンは、少し照れくさそうに続けた。「最初は、異世界から来た、お客さんみたいな感じだったのに。……今は、もう、ここにいるのが、当たり前みたいに、思えます」
その言葉に、理恵の胸が、静かに温かくなった。
◇ ◇ ◇
夜、見張りに立つトビアスの元へ、理恵は、いつものように夜食を運んだ。
「今日の砦の様子、隊長さんが心配してたこと」理恵は、静かに切り出した。「トビアスさんは、どう思いますか」
「――正直、分からない」
トビアスは、夜の闇に沈む岩山を見つめながら、静かに答えた。
「だが、確実に、何かが動いている。……この戦争の裏で」
「その何かを、突き止めるまで、私たちは」
「戦い続けるしかない」トビアスは、静かに、しかしはっきりと言った。「たとえ、その先に、これまで信じてきたものが、崩れる可能性があったとしても」
その言葉の重さに、理恵は、静かに頷いた。
◇ ◇ ◇
ノルド砦での束の間の日常は、こうして、穏やかに、しかし、確かな緊張感を伴いながら、過ぎていった。
戦争の裏に潜む、まだ見えない真実。
その輪郭は、少しずつ、しかし確実に、六人の前に姿を現し始めている。
だが、その真実がもたらす答えが、六人の旅に、どんな意味を刻むことになるのか――理恵には、まだ、その全てを、見通すことはできなかった。
砦の夜空に、星々が、変わらず静かに、瞬いていた。




