第25話 夜の見張りと、静かな食事
王都の外壁に近い見張り塔からは、夜の街並みが一望できた。
眼下に広がる家々の灯りが、まるで地上に散らばった星々のように、静かに瞬いている。風は、昼間よりもいくらか冷たく、頬に触れるたびに、皮膚の表面をひやりと撫でていった。石造りの塔の壁に手を触れると、日中に蓄えた熱の名残が、うっすらと指先に伝わってくる。遠くから、夜警の詰め所で焚かれているらしい、木を燃やす匂いが、微かに風に乗って届いていた。
この数日、王都では、祭りの後始末に紛れて、盗賊まがいの騒動が続いていた。そのため、術師ギルドから、勇者パーティーにも、夜間の見回り協力の依頼が入っていた。
「――今夜は、俺の番だ」
塔の階段を上ってきたトビアスが、そう言いながら、理恵の隣に腰を下ろした。
「私も、付き合っていいですか」
「危険はない。……ここからは、ただ見ているだけの仕事だ」
「だからこそ、一緒にいたいんです」
理恵がそう言うと、トビアスは、少しだけ、驚いたような顔をした。
◇ ◇ ◇
「持ってきたんです、夜食」
理恵は、抱えていた包みを開き、簡単な軽食――薄く切ったパンに、燻製肉と野菜を挟んだもの――を取り出した。
「見張り中に、飯なんて」
「ごはん、です」
「……ごはん、か」
トビアスは、その訂正に、微かに口元を緩めた。
二人は、並んで塔の縁に腰掛け、その簡素な食事を口にした。パンの香ばしさと、燻製肉の塩気が、静かな夜の中で、いつもよりもはっきりと感じられる気がした。
◇ ◇ ◇
「――こうしてると、最初の夜を思い出しますね」
理恵が、ぽつりと呟いた。
「最初の夜?」
「異世界に来た日です。荒野で、皆さんと初めて、焚き火囲んだ夜」
「……ああ」
トビアスの視線が、夜の街並みから、少しだけ、遠くへと向けられた。
「あの日、あんたが差し出した飯を食って……何年ぶりかで、味というものを、感じた気がした」
「そんなに、ですか」
「勇者として戦い続けている間、食事は、ただの補給だった。……味わうことも、楽しむことも、忘れていた」
その言葉に、理恵は、以前聖堂で聞いた話を思い出した。
「勇者紋を、刻まれてから、ずっとですか」
「――そうだ」
トビアスの声が、少しだけ、低くなった。
◇ ◇ ◇
「見張りの結界、張っておいた」
トビアスが、話題を変えるように言った。塔の周囲を指し示すと、理恵の目にも、微かに、淡い光の線が浮かんで見えた。
「これも、結界術ですか」
「《警戒結界》だ。……範囲内に、一定以上の敵意や殺気を持つ者が近づくと、術者に知らせが届く」
「見えない見張り番、みたいな感じですね」
「そういうことだ。……これがあれば、多少、気を抜いても構わない」
その言葉に、理恵は、少しだけ意外に思った。
「トビアスさんが、気を抜くなんて、珍しいですね」
「珍しい、か」
「いつも気を張ってるイメージなので」
トビアスは、しばらく沈黙したあと、静かに答えた。
「――あんたといるときだけは、少し、違うのかもしれない」
その一言に、理恵の胸が、小さく跳ねた。
◇ ◇ ◇
「トビアスさんは」理恵は、思い切って尋ねた。「勇者になる前、どんな子供だったんですか」
その質問に、トビアスは、しばらく答えなかった。
「――あまり、覚えていない」
「覚えて、ない?」
「物心ついたときには、もう、訓練施設にいた。……勇者候補として、育てられていたからな」
「家族は」
「いない。……いたのかもしれないが、覚えていない」
その淡々とした答えに、理恵は、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
「それって」
「哀れむような目で見るな」トビアスは、少し苦笑した。「もう、慣れたことだ」
「慣れたって言うのが、一番、苦しい気がします」
その言葉に、トビアスは、また、しばらく沈黙した。
◇ ◇ ◇
「――理恵」
「はい」
「あんたの故郷の話、聞かせてくれないか」
その問いかけに、理恵は、少し驚きながらも、頷いた。
「家族のこと、とかですか」
「何でもいい。……あんたが、当たり前に持っていた、日常の話が、聞きたい」
理恵は、ゆっくりと、日本での生活を語り始めた。
両親のこと。忙しかった仕事のこと。休日の過ごし方。何気ない、けれど、確かに積み重ねてきた日々の記憶。
トビアスは、その話を、一言も聞き逃すまいとするように、静かに耳を傾けていた。
「――羨ましいな」
話を聞き終えたあと、トビアスは、ぽつりと呟いた。
「そんな、大したものじゃないですよ」
「大したものだ」トビアスは、静かに、しかしはっきりと言った。「あんたが、当たり前だと思っていることの多くが、俺には、持ったことのないものだ」
その言葉に、理恵は、何と返せばいいか分からなかった。
◇ ◇ ◇
夜が更け、見回りの交代の時間が近づいてきた。
「――理恵」
「はい」
「今日、話してくれて、ありがとう」
「こちらこそ、聞いてくれて、ありがとうございます」
二人は、しばらく、無言のまま、夜の街並みを見つめていた。
その沈黙は、これまでのどんな会話よりも、二人の間に、確かな何かを、積み重ねていくように感じられた。
◇ ◇ ◇
塔を降りながら、理恵は、今夜聞いた話を、静かに反芻していた。
トビアスが、家族の記憶を持たないこと。
勇者として育てられ、日常というものを、知らずに生きてきたこと。
その事実は、理恵の中に、これまでとは違う種類の想いを、静かに芽生えさせていた。
この人に、当たり前の日常を、少しでも、味わってほしい。
その願いが、いつの間にか、理恵の胸の奥に、確かな形を持ち始めていた。
◇ ◇ ◇
こうして、五人それぞれとの、特別な時間が、静かに積み重なっていった。
ルークの、ぎこちない優しさ。
コリンの、健気な特訓。
イアンの、不器用な記録帳。
メルの、隠された素顔。
そして、トビアスの、知らなかった孤独。
その全てが、理恵の中で、少しずつ、大きな意味を持ち始めていた。
だが理恵はまだ知らない。
この積み重ねの先で、彼女自身の心もまた、静かに、しかし確実に、何かへと向かって動き始めていることを。
王都の夜は、今夜もまた、静かに更けていく。
そして、六人の物語は、まだ、その本当の姿を、明かし始めたばかりだった。




