第24話 毎日の口説き文句と、メルの結界
夕暮れの宿の裏庭は、橙色と紫色が混じり合う、淡い光に包まれていた。
乾いた洗濯物が、風にはためくたびに、ぱたぱたと軽い音を立てている。夕餉の支度を始める近隣の家々から、煮炊きの匂いが、微かに漂ってきていた。地面に伸びる自分の影が、いつもより長く、薄く伸びている。理恵が洗濯物を取り込んでいると、頬に触れる風が、昼間よりも少しだけ、ひんやりとしていることに気づいた。
「おつかれさま、理恵ちゃん」
声のした方を見ると、メルが、いつもの気安さで壁にもたれかかっていた。
「メルさん。今日も暇そうですね」
「暇じゃないよ、ちゃんと。……理恵ちゃんの様子を見るのも、僕の大事な仕事のうちだから」
「それ、仕事じゃなくて、ただの口説き文句ですよね」
「バレたか」
メルは、悪びれもせずに笑った。
◇ ◇ ◇
「今日の理恵ちゃんも、綺麗だね」
「はいはい、ありがとうございます」
「その気のない返事、傷つくなあ」
「毎日言われすぎて、免疫がついちゃって」
理恵は、洗濯物を畳みながら、慣れた様子でメルの軽口をあしらった。この一ヶ月、メルの「口説き文句」は、もはや、朝の挨拶のようなものになっている。
「そのうち、口説き落とせると思ってるんですか」
「うーん、正直に言うとね」メルは、少し考えるように、空を見上げた。「口説けたら、それはそれで嬉しいけど。……今のこの、気安いやり取り自体が、結構、居心地良かったりするんだよね」
「珍しく、素直ですね」
「たまにはね」
その言葉に、理恵は、少しだけ、メルの表情の奥にある何かに、気づいた。
◇ ◇ ◇
異変が起きたのは、その直後だった。
庭の隅に置かれていた、水汲み用の魔道具――簡易な水生成の術式が組み込まれた壺――が、突然、不安定な音を立て始めた。
「――あれ?」
理恵が振り返るのと同時に、壺の口から、勢いよく水が噴き出した。まるで、内部の術式が暴走したかのような、異様な水量だった。
「危ない!」
メルの声が響いた瞬間、理恵の周囲に、淡い光の膜が展開された。噴き出した水は、その膜に阻まれ、理恵の体には、一滴もかからなかった。
「……え」
「大丈夫? 濡れてない?」
「は、はい……ありがとうございます」
水の勢いは、程なくして収まった。メルは、光の膜を解除しながら、壺の様子を確認する。
「術式の劣化かな。……古い魔道具は、たまにこういう暴走を起こす」
◇ ◇ ◇
「今の、結界術ですよね」理恵は、まだ動揺の残る声で尋ねた。「一瞬で、あんなにしっかりした膜を張れるんですね」
「これでも、防御術師だからね」メルは、いつもの調子で肩をすくめた。「実は、結界にも色々種類があってさ。今のは《対人特化型》っていって、一人分の範囲だけを、集中的に守る術式なんだ」
「範囲を絞る分、強度が上がる、みたいな?」
「そういうこと。パーティー全体を守る広範囲型より、こっちの方が、はるかに強い防御力を出せる」
メルは、そう説明しながら、少し悪戯っぽく笑った。
「理恵ちゃんのことだけ守るなら、僕、結構本気出せるんだよ」
「それも、口説き文句ですか」
「半分は、本気」
その言い方に、理恵は、なぜだか、いつもの軽口とは違う響きを感じ取った。
◇ ◇ ◇
「――メルさんは」
濡れずに済んだ洗濯物を畳み直しながら、理恵は、ふと尋ねた。
「その、隠してることが多いって、前に言ってましたよね」
「言ったね」
「聞かない方が、いいですか」
メルは、少しだけ、驚いたような顔をした。
「――聞きたくないの?」
「聞きたくない、っていうより」理恵は、言葉を選びながら続けた。「メルさんが、話したくなったときに、話してくれればいいかなって。無理に聞き出すことじゃないと思うので」
その答えに、メルは、しばらく無言だった。
やがて、彼は、これまで見せたことのない、静かな笑みを浮かべた。
「――そういうところだよ」
「え?」
「理恵ちゃんの、そういうところが、僕は」
メルは、そこで言葉を切ると、いつもの飄々とした調子に戻った。
「なんてね。……さ、そろそろ夕飯の時間じゃない? 何か手伝おうか」
「あ、はい。じゃあ、野菜切るの手伝ってもらえますか」
「了解」
その切り替えの早さに、理恵は、少し拍子抜けしながらも、彼の横顔に、確かな安堵の色が浮かんでいるのを見た気がした。
◇ ◇ ◇
厨房で並んで作業をしながら、理恵は、ふと、まな板を軽やかに扱うメルの手つきを眺めた。
「メルさん、料理も上手なんですね」
「これでも、色々経験豊富だからね」
「その『色々』が、気になるんですけど」
「秘密」
メルは、いつも通りの笑顔で、そう答えた。だが、その笑顔には、これまでよりも少しだけ、柔らかい信頼のようなものが、滲んでいるように見えた。
◇ ◇ ◇
その夜、理恵は、今日の出来事を、静かに振り返っていた。
いつもの軽い口説き文句。
咄嗟に理恵を守った、結界術。
そして、「聞かない方がいい」という理恵の言葉に対する、あの、これまでにない静かな表情。
メルという人物の中に、これまで見えていなかった、もう一つの顔があることを、理恵は、確かに感じ取っていた。
その正体が何なのか、理恵にはまだ、想像もつかなかった。
だが、いつか、その全てを、彼自身の口から聞ける日が来るのだとしたら――その時まで、今はただ、この気安い日々を、大切にしていたいと思った。
王都の夜空に、星が、静かに瞬き始めていた。




