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第23話 栄養論争と、イアンの記録帳

昼下がりの宿の食堂は、柔らかな陽光に満ちていた。


 窓から差し込む光が、木製のテーブルの木目をくっきりと浮かび上がらせている。厨房から漂う、根菜を煮込む甘い匂いが、部屋全体にゆっくりと広がっていた。皿の触れ合う音、椅子の軋む音、そして――今日もまた始まった、聞き慣れた言い争いの声。


「――だから、揚げ物ばかりでは、栄養が偏ると言っているだろう」


「たまにはいいじゃないですか、揚げ物くらい」


 理恵とイアンの、いつもの応酬だった。


「魔力回路の維持には、良質な油分も必要だ」理恵は、フライパンを振るいながら反論する。「揚げ物を全否定するのは、極端すぎませんか」


「油分の必要性は否定していない。過剰摂取が問題だと言っている」


「今日は野菜もちゃんと添えますし、問題ないです」


「その野菜の量が、いつも少なすぎるんだ」


「イアンさんの基準が、厳しすぎるんですよ」


 二人の応酬に、食堂に居合わせたルークとコリンが、いつものように顔を見合わせて笑った。


「始まったな、いつもの」


「もう、恒例行事ですよね、これ」


   ◇ ◇ ◇


 結局、その日の昼食も、理恵が半分折れる形で決着した。揚げ物に加えて、追加の温野菜を用意することで、イアンも渋々ながら納得したようだった。


「――満足ですか」


「悪くない」


 その素っ気ない一言に、理恵はやれやれと肩をすくめた。


 食後、後片付けをしていた理恵は、ふと、イアンの席に、見慣れない小さな革の手帳が置き忘れられているのに気づいた。


「あ、イアンさんの忘れ物」


 軽い気持ちで手に取り、中を確かめようとしたところで、理恵の手が、ふと止まった。


 ページには、几帳面な文字で、びっしりと記録が並んでいた。


 ――「肉と根菜の煮込み(第三夜)。塩分やや強め。香草の配合により、雑味を抑制。効果的な栄養バランス」


 ――「揚げ物(初回)。油分過多も、鶏の胸肉使用により、たんぱく質量は良好。付け合わせの野菜量、要改善」


 それは、これまで理恵が作ってきた料理の、詳細な記録だった。味付け、食材の組み合わせ、栄養面での評価――どのページにも、丁寧な考察が書き込まれている。


「これ……」


 理恵は、思わず、声を漏らした。


   ◇ ◇ ◇


「――何を見ている」


 背後から聞こえた声に、理恵は、びくりと肩を揺らして振り返った。イアンが、青ざめた顔で立っていた。


「あ、あの、忘れ物かと思って、つい」


「返せ」


 イアンは、珍しく焦った様子で、理恵の手から手帳を奪い返した。その耳の先が、うっすらと赤くなっている。


「これ……もしかして、私の料理、ずっと記録してたんですか」


「――違う」


「文字、見えちゃいましたけど」


「見間違いだ」


「肉と根菜の煮込み、第三夜、って書いてありましたよ」


「……」


 イアンは、しばらく沈黙したあと、諦めたように、小さくため息をついた。


「――栄養学的な観点から、記録を取っていただけだ」


「それだけ、ですか」


「それだけだ」


 その頑なな否定に、理恵は、思わず笑ってしまった。


   ◇ ◇ ◇


「なんで、そこまでして、記録してるんですか」


 理恵が尋ねると、イアンは、しばらく言葉を選ぶように黙り込んだ。


「――あんたの料理は、単に美味い、というだけじゃない」


「はい」


「食材の組み合わせ、味付けの工夫、栄養価の計算……一つ一つに、理にかなった根拠がある。魔術師として、そういう体系的な知恵には、興味を惹かれる」


「褒めてます?」


「事実を述べているだけだ」


 イアンは、少し早口に言うと、視線を逸らした。


「それに」


「それに?」


「……あんたが帰ったあと、同じ味を、再現できるように、しておきたい」


 その一言に、理恵は、少し虚を突かれた。


「レシピを、記録として、残しておきたいんですか」


「そうだ」イアンは、頷いた。「あんたがいなくなっても、この記録があれば……せめて、味だけは、思い出せる」


 その言葉には、彼らしい、不器用な優しさが、確かに滲んでいた。


   ◇ ◇ ◇


「――イアンさんって、意外とロマンチストですよね」


「な、何を言い出す」


「だって、そういうの、すごく素敵じゃないですか」


「勘違いするな。あくまで、学術的な記録としての価値が」


「はいはい、分かってます」


 理恵は、笑いながら、その手帳を、そっと彼に返した。


「良かったら、今度、正式にレシピ、まとめて教えましょうか。書き間違いとか、もったいないですし」


「――それは、助かる」


 イアンは、少し照れくさそうに、しかし確かに、嬉しそうな表情を浮かべた。


   ◇ ◇ ◇


 その夜、理恵は、イアンの手帳に書かれていた、几帳面な文字の数々を、ふと思い出していた。


 理屈っぽく、いつも栄養バランスにうるさい彼が、あんな風に、こっそりと記録を積み重ねていたことに、理恵は、素直に驚いていた。


 だが、その驚きの奥には、確かな温かさもあった。


 この一ヶ月の間、五人それぞれが、様々な形で、理恵との時間を大切にしようとしている。


 ルークの、ぎこちない優しさ。


 コリンの、健気な特訓。


 そして、イアンの、不器用な記録帳。


 その一つ一つが、理恵の中に、静かに積み重なっていく。


 残り、まだひと月足らず。


 その短い時間の中で、この六人が織りなす日々が、これからどんな形を見せていくのか――理恵には、まだ、その全てを、見通すことはできなかった。


 王都の夜は、今日もまた、穏やかに更けていく。

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