第22話 夜食と、月明かりの特訓
夜更けの宿の中庭は、昼間とはまったく違う顔を見せていた。
月明かりが、石畳の上に淡い青白さを落としている。空気はひんやりと澄んでいて、吸い込むたびに、肺の奥まで冷たさが染み渡るようだった。どこからか、夜風に乗って、乾いた草の匂いが微かに漂ってくる。虫の音が、途切れることなく、規則正しいリズムを刻んでいた。
理恵が、寝る前に水を汲みに出たとき、その光景に気づいた。
中庭の隅、月明かりの下で、コリンが一人、地面に座り込んでいた。目の前には、開いたままの分厚い書物と、淡い光を灯す小さな水晶。彼は、その水晶に向かって、何度も同じ動作――両手をかざし、光を灯しては消す――を、繰り返していた。
「コリンさん?」
声をかけると、コリンは、びくりと肩を揺らして振り返った。
「り、理恵さん! ……すみません、うるさかったですか」
「いえ、そうじゃなくて。こんな時間まで、何してるんですか」
コリンは、少し気まずそうに、手元の書物を閉じた。
「――《上級治癒術》の練習を、してたんです」
「上級?」
「はい」コリンは、少し言葉を選ぶように続けた。「今、僕が使えるのは、正式術師の範囲の術式です。……でも、上級になれば、失われた部位の再生とか、瀕死状態からの蘇生に近いことまで、できるようになるらしくて」
「それって、すごい術式ですよね」
「はい。……でも、その分、術式の難易度も、桁違いに上がります」
コリンは、開いたままの書物を、そっと撫でた。
「詠唱の精密さは元より、術者自身の魔力量、集中力、全部が、今の僕には、まだ足りないみたいで」
◇ ◇ ◇
「どうして、そんなに急いで練習してるんですか」
理恵が尋ねると、コリンは、少しだけ、俯いた。
「――理恵さんが、帰っちゃうまでに」
「私が?」
「はい」コリンは、恥ずかしそうに続けた。「理恵さんが帰る前に、僕が、もっと頼れる術師になったところ、見てほしくて」
その言葉に、理恵は、胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。
「コリンさんは、もう十分、頼りになってますよ」
「そうですかね……」
「私が知ってる限りでも、もう何度も、みんなを助けてきたじゃないですか」
「それは、そうなんですけど」
コリンは、少し寂しそうに笑った。
「僕、ずっと、『すごい子供』って言われ続けてきたから。……理恵さんにだけは、子供扱いされないで、いたいんです」
その言葉に、理恵は、以前聞いた彼の悩みを、また思い出した。
◇ ◇ ◇
「――少し、待っててもらえますか」
理恵は、そう言うと、一度、厨房へと引き返した。
しばらくして戻ってきたとき、その手には、湯気の立つ小さな器が乗っていた。
「これ、簡単な夜食です。……根詰めすぎると、体に良くないので」
「わあ、いいんですか」
「特訓の邪魔にならない程度なら」
コリンは、両手で器を受け取ると、その温かさに、ほっと表情を緩めた。
「――優しい味」
「ミルクと蜂蜜だけの、簡単なものですけどね」
「これ、故郷の味に、似てます」
コリンの声が、少しだけ、しんみりとしたものになった。
「僕の故郷でも、夜遅くまで勉強してると、母がよく、こういうのを作ってくれました」
「懐かしいですか」
「はい。……でも、嫌な感じじゃなくて。むしろ、あったかい懐かしさ、っていうか」
理恵は、その言葉に、静かに微笑んだ。
◇ ◇ ◇
「コリンさん」
「はい」
「無理はしないでくださいね。魔力飢餓、また起こしたら、元も子もないですし」
「分かってます、それくらい」コリンは、少し得意げに笑った。「休憩のタイミングも、ちゃんと管理してますから」
「成長しましたね」
「理恵さんのおかげです」
コリンは、そう言うと、器の中身を、大切そうに飲み干した。
「――もう少しだけ、頑張ります」
「ほどほどに、ですよ」
「はい」
その素直な返事に、理恵は、少しだけ安堵した。
◇ ◇ ◇
理恵が、宿の部屋へ戻る道すがら、コリンの練習する光景を、もう一度、振り返った。
月明かりの下、一人、真剣な表情で術式と向き合う少年の姿。
その姿は、これまで見てきた、少し無理をした大人ぶりとも、あるいは年相応の無邪気さとも、また違う何かを、理恵に感じさせた。
――誰かに、認めてもらいたい。
子供としてではなく、一人の人間として。
その願いは、理恵にも、覚えのあるものだった。
異世界に来たばかりの頃、自分もまた、「戦えない、ただの一般人」として、この世界に、自分の居場所を見つけようとしていたから。
◇ ◇ ◇
その夜、理恵は、寝台に横たわりながら、コリンの言葉を、静かに思い返していた。
「理恵さんが帰っちゃうまでに」
その一言には、理恵に対する、これまでとは少し違う響きが、確かに込められていた気がした。
その感情の名前を、理恵は、まだ、はっきりと言葉にすることができなかった。
だが、この一ヶ月の中で、五人それぞれの想いが、少しずつ、輪郭を持ち始めていることだけは、確かに感じ取っていた。
窓の外では、月明かりが、変わらず静かに、王都を照らし続けている。
その光の下で、六人の物語は、まだ、これから訪れる様々な出来事を、静かに待っていた。




