第20話 静かな答え、片付けの時間
宿の厨房は、夜になると、昼間とはまるで違う静けさに包まれる。
窓の外はすでに真っ暗で、王都の喧騒も、今はもう遠く、微かにしか届いてこない。竈に残った熾火が、ぱちり、と小さく爆ぜる音を立てた。洗い物の水は冷たく、指先に触れるたびに、じんわりとした痺れが走る。厨房いっぱいに、まだ夕食の匂い――香草と肉の脂の混じった、温かい香り――が、うっすらと残っていた。
理恵は、いつものように、一人で洗い物を始めていた。
「――手伝う」
声に振り返ると、トビアスが、袖をまくりながら立っていた。
「え、いいですよ、そんな」
「いいから」
彼は、理恵の返事を待たずに、隣に立ち、皿を受け取り始めた。
◇ ◇ ◇
その光景に、理恵は、少しだけ驚いていた。
トビアスが、こうして自分から手伝いを申し出るのは、初めてのことだった。
「珍しいですね。見張りは、いいんですか」
「今日は、いい」
「風邪でも引きました?」
「揶揄うな」
トビアスは、少しだけ、口元を緩めた。その表情に、理恵は、なんだか妙にくすぐったい気持ちになった。
二人は、しばらく無言のまま、洗い物を続けた。皿がこすれる音、水の跳ねる音、遠くで響く夜風の音だけが、静かに厨房を満たしていく。
◇ ◇ ◇
「――昨日、決めてないって言ったが」
しばらくして、トビアスが、ぽつりと口を開いた。
「はい」
「一つだけ、決めた」
「何を、ですか」
トビアスは、皿を拭く手を止めずに、静かに答えた。
「――こういう時間を、できるだけ、多く過ごす」
「洗い物の、ですか」
「それだけじゃない」トビアスは、少し言葉を選ぶように続けた。「薪を割る。荷物を運ぶ。……あんたが、何気なくやっている、こういう時間だ」
「それが、決意、なんですか」
「他の四人みたいに、派手なことは、思いつかなかった」トビアスは、苦笑するように言った。「故郷の料理も、観光案内も、俺には、あんたに教えられるものがない。……だから、せめて」
彼は、そこで、一度、言葉を止めた。
「せめて、あんたが日々こなしている、こういう当たり前の時間を、一緒に過ごしたいと思った」
その言葉に、理恵は、しばらく何も言えなかった。
派手さはない。ロマンチックでもない。
だが、その不器用な答えが、理恵の胸に、これまでのどんな言葉よりも、深く沁み込んでいくのを感じた。
◇ ◇ ◇
「――変なこと、言ったか」
理恵の沈黙に、トビアスが、少し不安げに尋ねた。
「いえ」理恵は、首を振った。「なんか、トビアスさんらしいなって、思って」
「そうか」
「はい」
理恵は、微笑みながら、次の皿を差し出した。
「じゃあ、今日から、よろしくお願いします。皿洗い係」
「係、じゃない」
「じゃあ、何ですか」
トビアスは、少し考えるように黙り込んだあと、静かに答えた。
「――ただ、隣にいたいだけだ」
その一言は、これまで聞いてきたどんな言葉よりも、まっすぐで、そして不器用だった。
理恵は、その言葉の意味を、まだ、恋愛感情として明確に受け止めることはできなかった。だが、胸の奥に、確かな温かさが灯ったのを感じていた。
◇ ◇ ◇
洗い物を終えると、二人は、竈の残り火の前に、並んで腰を下ろした。
「――なあ」
「はい」
「一ヶ月後、あんたがいなくなったら」
トビアスの声が、少しだけ、掠れていた。
「この厨房も、静かになるんだろうな」
「そうかもしれないですね」
「想像すると、少し……いや」
彼は、そこで言葉を止め、小さく首を振った。
「何でもない」
理恵は、それ以上、聞かなかった。ただ、隣に座るトビアスの横顔を、静かに見つめていた。
その横顔には、これまで何度も見てきた、あの微かな緊張と、それとはまた違う、柔らかな何かが、同時に浮かんでいるように見えた。
◇ ◇ ◇
翌朝、理恵が起きると、宿の食堂には、すでに賑やかな声が響いていた。
「今日は、俺の故郷料理の材料、揃えに行くぞ!」ルークが、意気込んで宣言する。
「僕は、近くの湖を案内する予定です」コリンが、地図を広げながら言う。
「俺は、ギルドで検証作業だ」イアンが、いつも通り淡々と言う。
「僕は……まあ、成り行きで」メルが、いつものように笑う。
六人分の賑やかな声が、朝の食堂に満ちていく。理恵は、その光景を眺めながら、ふと、昨夜のことを思い出した。
誰もが、それぞれの形で、この一ヶ月を、大切にしようとしている。
派手な計画を立てる者もいれば、ただ、当たり前の時間を、静かに積み重ねようとする者もいる。
その全てが、理恵にとって、かけがえのないものだった。
◇ ◇ ◇
こうして、六人にとっての特別な一ヶ月が、本格的に動き出した。
だが理恵は、まだ知らない。
この一ヶ月が、単なる「別れの準備期間」では終わらないということを。
王都での穏やかな日々の裏で、五人の――そして理恵自身の内側で育ち始めた感情は、これから、様々な出来事を通して、少しずつ、その輪郭をはっきりとさせていくことになる。
時に笑い、時にぶつかり、時に支え合いながら。
六人は、まだ知らない自分自身の想いと向き合う日々へと、静かに歩みを進めていく。
王都の朝は、いつもと変わらず、明るく晴れ渡っていた。
だがその晴れやかな空の下で、六人の物語は、確かに、新しい章へと足を踏み入れようとしていた。




