第18話 正式な報告、開かれた扉
夕刻の術師ギルド本部は、これまで理恵が訪れたどの時間帯とも違う、静かな緊張に包まれていた。
窓の外は、薄紫色の残照に染まり始めている。廊下を照らす魔道具のランプが、ぽつりぽつりと灯り始め、床に長い影を落としていた。歩くたびに響く自分たちの足音が、いつもより大きく耳に残る。空気の中に、昼間よりも濃く漂う、金属と薬草の混ざった匂い。理恵は、その匂いを吸い込むたびに、胸の鼓動が速まっていくのを感じていた。
地下三階、あの円形の報告室。六人が並んで座ると、フィオナが、静かに扉を開けて入ってきた。
その手には、分厚い書類の束と、淡く光る水晶板が抱えられている。表情は、これまでのどんな時よりも、真剣だった。
◇ ◇ ◇
「――結論から、申し上げます」
フィオナは、全員の顔を、順番に見回した。
「《ゲート・リバーサル》の実用化に、目処が立ちました」
その一言が、部屋の空気を、大きく揺らした。
理恵は、思わず息を止めた。
「本当、ですか」
「はい」フィオナは、水晶板に、複雑な図式を映し出した。「先日の固有波長測定と、これまでの検証データを統合した結果、あなたの故郷――日本という座標へ向けた、安定したゲートの開放経路を、理論上、確立することができました」
言葉が、うまく理解として頭に入ってこなかった。
「私、帰れるん、ですか」
「ええ」フィオナは、ゆっくりと、しかし確かに頷いた。
◇ ◇ ◇
「ただし」フィオナは、すぐに、慎重な口調を挟んだ。
「即座に、というわけにはいきません。ゲートの安定化には、複数の術者による同時詠唱と、膨大な魔力供給が必要です。準備期間として、およそ一ヶ月ほどをいただきたい」
「一ヶ月……」
「その間、最終調整と、安全性の再検証を重ねます。……危険性がゼロになるわけではありませんが、これまでで最も確度の高い試みになるはずです」
その説明を聞きながら、理恵の中で、様々な感情が、一度に渦を巻き始めていた。
嬉しい。
当然、そうだ。
家族に会える。日本での日常に、もう一度戻れる。
なのに――なぜだろう。
喜びと同じ重さで、何か、名前のつけられない感情が、胸の奥に沈んでいくのを感じていた。
◇ ◇ ◇
「――良かったな、理恵さん!」
その空気を破ったのは、ルークだった。彼は、努めて明るい声を張り上げ、理恵の肩を軽く叩いた。
「本当に、良かった!」
「あ……はい。ありがとう、ございます」
「僕も、嬉しいです」コリンが、少し無理をしたような笑顔で続いた。「理恵さんが、ちゃんと帰れるところがあるって、確認できて」
「良かったですね」イアンが、眼鏡を押し上げながら、静かに言った。「……あんたの波長データが、これほど早く結論に繋がるとは、正直、俺も思っていなかった」
「イアンさんの研究協力のおかげです」
「礼を言われるようなことじゃない。……当然のことをしただけだ」
メルは、いつもの笑みを浮かべながら、しかし、その目には、複雑な色が滲んでいた。
「良かったね、理恵ちゃん。……本当に」
その声は、いつもより、少しだけ、掠れていた。
◇ ◇ ◇
そして、トビアス。
理恵が視線を向けると、彼は、じっとフィオナの示した水晶板を見つめたまま、しばらく口を開かなかった。
「――トビアスさん」
「……ああ」
トビアスは、ゆっくりと視線を上げた。その表情は、これまで理恵が見てきたどんな時よりも、静かで、そして読み取りにくいものだった。
「良かったな」
その一言は、確かに、祝福の言葉だった。
だが、その声の奥に、理恵は、これまで何度も感じてきた、あの微かな緊張と同じ色を、確かに聞き取っていた。
◇ ◇ ◇
報告を終え、ギルドを出る頃には、王都の空はすっかり夜の色に染まっていた。
六人は、いつも通りの道を、いつもより静かな足取りで歩いた。石畳を踏む足音だけが、やけにはっきりと耳に残る。
「――一ヶ月、か」
ぽつりと、ルークが呟いた。
「まだ、時間はあるってことだよな」
「そうですね」理恵は、努めて明るく答えた。「準備期間、まだあります」
「なら」ルークは、少し無理をしたように笑った。「その間、めいっぱい、楽しまなきゃな」
その言葉に、他の四人も、それぞれ頷いた。だが、その頷き方には、これまでにない、静かな重さが滲んでいた。
◇ ◇ ◇
宿への帰り道、理恵は、少しだけ、五人から遅れて歩いていた。
目の前を歩く五つの背中を、理恵は、じっと見つめる。
ルークの、大きく、頼りがいのある背中。
コリンの、まだ少年らしさの残る、小さな背中。
イアンの、いつも本を抱えている、几帳面な背中。
メルの、飄々としていて、それでいてどこか掴みどころのない背中。
そして、トビアスの、いつも静かに、周囲を守るように歩く背中。
この一ヶ月で、自分は、この五つの背中と、別れることになる。
その事実が、ようやく、実感として、理恵の胸に落ちてきた。
◇ ◇ ◇
その夜、理恵は、いつものように夕食の支度を始めた。
だが、その手は、いつものように、うまく動かなかった。
厨房に立ちながら、理恵は、ふと気づく。
この一ヶ月後には、この厨房に立つことも、もうなくなるのだ。
六人分の食材を計るのも。
六人分の器を並べるのも。
六人で囲む、あの騒がしい食卓も。
全部、あと、数えるほどしか残されていない。
その事実を噛みしめながら、理恵は、いつも以上に、丁寧に、料理を仕上げていった。
◇ ◇ ◇
完成した料理を前に、六人は、いつも通りの席に着いた。
だが、その夜だけは、これまでのどんな食卓とも、違っていた。
誰も、ほとんど、言葉を発さなかった。
湯気の立つ皿を前に、ただ、静かに、それぞれが匙を動かしている。いつもなら飛び交うはずの軽口も、笑い声も、その夜は、驚くほど少なかった。
理恵は、その静けさの中で、初めて、はっきりと理解した。
この旅の意味が、今、静かに変わり始めていることを。
これまでは、魔王を倒すための旅だった。
だが、これからは――いつか、理恵と別れるための、旅になる。
誰も、それを、言葉にはしなかった。
だが、六人の間に流れる沈黙が、その事実を、何よりも雄弁に物語っていた。
◇ ◇ ◇
王都の夜は、静かに更けていく。
答えは、出た。
だが、その答えが、六人の関係に何をもたらすのか――その本当の意味は、これから始まる一ヶ月の中で、少しずつ、姿を現していくことになる。
六人分の食卓を囲む夜が、あと、どれだけ残されているのか。
理恵には、まだ、数える勇気が持てなかった。




