第15話 五人五様の胸の内
実験事故から数日が経ち、理恵たちの間にも、ようやくいつもの落ち着きが戻り始めていた。
朝の市場は、変わらず活気に満ちている。露店の呼び込み、荷馬車の車輪の音、焼きたてパンの匂いが、石畳の上を漂う朝靄と混じり合っていた。理恵が籠を片手に歩いていると、指先に触れる朝の空気は、少しずつ冷たさを増している。季節が、少しずつ移ろい始めているのだと、ふと気づいた。
だが、その穏やかな日常の中で、理恵は、五人それぞれの様子に、これまでとは違う何かを感じ始めていた。
◇ ◇ ◇
「――理恵さん、こっち持つよ」
市場の帰り道、荷物を抱えて歩く理恵の隣に、ルークが並んだ。彼は、理恵の返事を待たずに、重い方の袋を軽々と肩に担ぎ上げる。
「いいですよ、そんな」
「いいから、いいから」
ルークは、いつも通りの快活さで笑っていたが、その笑顔の端に、微かなぎこちなさが滲んでいるのを、理恵は見逃さなかった。
「――なあ、理恵さん」
「はい」
「もし、本当に帰れることになったらさ」
ルークの声が、少しだけ、いつもより低くなった。
「向こうの世界にも、こういう市場、あるのか」
「ありますよ。……こんなに賑やかじゃないですけど」
「そっか」
ルークは、それだけ言うと、また前を向いて歩き出した。その背中に、理恵は何と声をかければいいのか、分からなかった。
「ルークさん」
「ん?」
「その、私が帰ったら」
「言うなって」ルークは、遮るように、明るい声で言った。「まだ、決まったわけじゃないだろ? 縁起でもない話は、なしだ」
その強引な明るさの奥に、理恵は、彼なりの不安を感じ取った。
◇ ◇ ◇
午後、理恵はコリンと連れ立って、治療院への使いに出かけた。
治療院は、聖堂の隣に併設された、小さな石造りの建物だった。中に入ると、消毒に使う薬草の匂いが、鼻を刺すように広がっている。壁際には、丁寧に整理された薬瓶がずらりと並び、奥の部屋からは、患者らしき人の低い呻き声が漏れ聞こえてきた。
「僕、ここで、見習いから正式な治癒術師になったんです」
コリンが、懐かしそうに壁を見上げながら言った。
「見習いと、正式って、違うんですか」
「治癒術師の資格は、三段階に分かれてるんです。見習い、正式、上級。……見習いは、簡単な治療しかできません。正式になって、初めて、戦場に出られるようになります」
「コリンさんは、もう正式なんですよね」
「はい。……十六歳のときに、資格を取りました」コリンは、少し誇らしげに、それでいてどこか複雑な表情を浮かべた。「同年代の中では、一番早かったです」
「すごいじゃないですか」
「すごい、ですけど」コリンは、俯きがちに続けた。「早く資格を取った分、周りからは、ずっと『すごい子供』って見られ続けてるんです。実力は認めてもらえても、僕自身のことは、あんまり」
その言葉に、理恵は、以前聞いた彼の悩みを思い出した。
「僕、理恵さんが帰っちゃったら」
コリンは、そこで言葉を止めた。
「……何ですか」
「いえ。……また、『すごい子供』の僕に、戻るのかな、って」
その呟きは、理恵の胸に、静かに、しかし深く残った。
◇ ◇ ◇
夕方、理恵が宿への帰り道を歩いていると、路地の一角に、メルが一人、壁にもたれかかっているのを見つけた。
「メルさん、こんなところで何を」
「ん、理恵ちゃんか」
メルは、いつものように笑おうとしたが、その表情には、隠しきれない疲労が滲んでいた。
「顔色、悪いですよ」
「そう見える?」
「見えます」
メルは、しばらく黙っていたが、やがて、ぽつりと呟いた。
「――理恵ちゃんがいなくなったら、寂しくなるだろうな、って思ってさ」
「メルさんらしくない、素直な言い方ですね」
「たまには、素直にもなるよ」
メルは、力なく笑った。
「僕、色々と、隠してることが多いから。……理恵ちゃんみたいに、何でも真っ直ぐな人が、そばにいると、なんだか、救われるんだ」
「隠してること、って」
「秘密だよ」
メルは、いつもの調子でそう言うと、それ以上は答えなかった。だが、その横顔に浮かぶ表情は、いつもの飄々とした笑みとは、明らかに違う色をしていた。
◇ ◇ ◇
その夜、理恵は、いつも以上に手をかけた夕食を用意した。誰に言われたわけでもないのに、気づけば、いつもより品数が増えていた。
「今日、豪華だな!」ルークが目を輝かせる。
「たまには、いいかなって」
理恵は、そう答えながら、内心では、今日聞いた三つの言葉を、静かに噛みしめていた。
ルークの「縁起でもない話は、なしだ」という強がり。
コリンの「また『すごい子供』に戻るのかな」という不安。
メルの「寂しくなるだろうな」という、珍しい素直さ。
誰も彼も、理恵の「帰還」という可能性を前に、それぞれの形で、揺れていた。
◇ ◇ ◇
食事の後、理恵はイアンの様子も、それとなく窺った。彼は、実験事故から数日経ったこともあり、すっかり顔色を取り戻していたが、それでも、以前より口数が少なくなっていた。
「イアンさん、無理してないですか」
「していない。……ただ、少し、考えごとをしていただけだ」
「考えごと?」
「研究のことだ。……それ以外に、何がある」
その返事は、いつもより素っ気なかった。理恵は、それ以上踏み込まなかった。
◇ ◇ ◇
夜も更け、片付けを終えた理恵は、宿の裏手で、いつものように一人夜空を見上げているトビアスを見つけた。
「――今日も、見張りですか」
「……ああ」
「五人とも、なんだか、今日は変な感じでした」
「気づいていたか」
「気づかない方が、難しいですよ」理恵は、隣に立ちながら苦笑した。「みんな、私が帰るかもしれないってことに、それぞれの形で、悩んでるみたいで」
トビアスは、しばらく無言だった。
「――お前は、どうなんだ」
「私、ですか」
「帰りたいと、思っているのか」
その問いに、理恵は、しばらく答えられなかった。
「……分かりません、正直」
「そうか」
「でも」理恵は、夜空を見上げながら続けた。「今、この瞬間だけは、ここにいたいって、素直に思います」
トビアスは、それ以上、何も聞かなかった。ただ、その横顔に浮かぶ表情が、いつもより、ほんの少しだけ、和らいでいるように見えた。
◇ ◇ ◇
五人五様の胸の内は、まだ、はっきりとした言葉になっていない。
だが、それぞれの中で、確かな何かが、静かに育ち始めていた。
王都での日々は、こうして、少しずつ、次の局面へと近づいていく。
そして、その答えが出る日は、もう、数えるほどしか残されていなかった。
王都の夜空に、月が、静かに輝いていた。




